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そして続く道 - 悪癖

 突然ユーシャラが泣き出した時、キリコはコーヒーを片手にパンをかじっていた。
 キリコの向かいに坐り、隣りにいるシャッコが差し出すスプーンを、ご機嫌に追っていたのに、今は顔を全部ゆがめて、両手を何か訴えるように振り回しながら、シャッコが珍しく困った風に、スプーンを持った手は宙に浮かせたままで、ユーシャラの方へ顔を近づける。
 クエント語でシャッコが何か言うと、ユーシャラは少しだけ泣き声を鎮めて、涙のいっぱいたまった目をシャッコに向けて、痛いと言うようなことを言い返した。
 「どうした。」
 自分の食事は中断せずに、キリコが口を挟む。シャッコはキリコの方は見ずに、ユーシャラの濡れた頬にそっと手を添えて、親指の先で下唇に触れようとしているところだった。
 「噛んだらしい。スプーンが少し遅かった。」
 シャッコが軽くめくった小さな唇の内側に、キリコにも真っ赤な歯型が見えた。
 触れられるのを嫌がって、ユーシャラはシャッコの手から逃げようとする。シャッコが手を遠ざけると、まだしゃくり上げながら、今度は好奇心が勝つのか、自分で痛む唇を触ろうとする。
 「触るな。」
 うっかり標準アストラギウス語で話し掛けながら、シャッコはユーシャラの指先をつまんで止めた。
 ユーシャラは近頃、クエント語もアストラギウス語も区別のつかないまま、けれど何となく意味はわかるらしく、どちらの言葉で話し掛けられても反応するようになっていた。
 傷の痛みで泣いているのか、シャッコに止められてすねているのか、どちらかよくわからない表情を浮かべて、ユーシャラは頭を振ってとにかく嫌だと言う意思表示をしてから、今度はキリコの同意を求めるようにそちらに顔を向ける。
 キリコはユーシャラの視線を一瞬受け止めた後で、さらりと無視して自分の食事へ戻った。
 「ちょっと見ててくれ。」
 シャッコが椅子から立ち上がり、テーブルから離れた。
 ユーシャラとふたりきりにされ、監視のなくなったユーシャラは当然また痛む唇に触れようとし始め、キリコは仕方なく席を立ってユーシャラの傍へ行った。
 「触るなとシャッコが言った。」
 威圧する気などなく、けれど子ども用に愛想のいい声など出るわけもなく、さっきシャッコがそうしたように、キリコが小さな手をつまむようにして止めると、ユーシャラはそれを遊びと思うのか、面白がってもっと唇に触れようとする。さっきまで泣いていたことは、けろりと忘れてしまっているらしい。
 「シャッコの言う通りにしろ。」
 小さな攻防の間に、ユーシャラの唇が少し腫れて来る。時々、容赦もなくキリコの指を噛んだりするから、どれだけ痛いかは容易に想像できた。
 こんな生き物が、十数年後にはATを操れるようにもなるのだとはいまだ信じられず、その時になったら、パンと山羊の乳の粥の代わりに自分の唇を食べようとしたと、シャッコと一緒に笑ってやれと、表情も変えずにキリコは思った。
 ユーシャラがキリコと遊んでいるつもりの間に、シャッコが小さな容器を手に戻って来て、素っ気ないアルミ製らしいそれを開けて、人差し指の先に中身を少しだけすくい出した。
 目の前をよぎって、ユーシャラの唇の噛み跡に塗られるそれの匂いには、憶えがあった。不快ではないけれど、わずかに独特の臭いのするそれは、クエントに住む獣──砂モグラではない──から取れる脂に何かの薬草を混ぜたものだ。
 大きくて、いかにも無骨な割りに、丁寧で優しい仕草で、ユーシャラの傷に半透明の軟膏を薄く塗り込むシャッコの指先に、キリコはあのクメンを思い出している。


 唇を噛む癖があるのは自覚していた。噛むだけではなくて、時々歯先で薄く皮膚を剥ぎ取り、外には出さない鬱憤が溜まると、血の出るまでそれをやる。治り掛けても、今度は指先でわざわざかさぶたを剥ぎ、また血が出る。
 ヘルメットをかぶっている戦闘中は、やたらと唇を舐めて、噛んで、基地に戻ると、指先でしきりにいじってまだ傷つける。
 唇の小さな傷など、痛めば気になるだけで深刻さはないし、戦闘の最中なら、舌先で舐め取る自分の血の味で正気が保てていいと、そんな風に考えていた。
 シャワーを浴びて宿舎に戻ったキリコが、これからファントム・クラブへ行くと言うポタリアたちとすれ違った時に、わざわざ一度行き過ぎたシャッコが、キリコを追い駆けて来て小さな容器を投げて寄越して来た。
 軍が支給する、小物を仕分けしておくためのそれの中身は白っぽい軟膏で、初めて嗅ぐ独特の匂いに少しばかり眉を寄せて、
 「何だこれは。」
 訝しげに訊くと、
 「唇に塗っておけ。治りが早い。」
 キリコはそう言われて、いっそう深く眉を寄せた。
 余計なお世話だとまず思ってから、他人が気にするほど目立つのかと、わずかに驚いていた。
 「余計な痛みは気の散る元だ。」
 シャッコが、キリコを気遣っていると言う風でもなく言う。
 気がつくと唇に指先を乗せて、ざらざらとかさぶただらけのそこに、初めて嫌気が差したのを感じた。
 「見てる方が痛い。早く治せ。」
 誰かに指摘されたことはなかった。だから、誰も気づいていないし、気づいても気にしてないのだと思っていた。
 身長差のせいで、正面から顔を突き合わせることも滅多とないと言うのに、シャッコはいつキリコのこの癖に気づいたのだろう。気構えもなく、裸の後ろ姿を見られでもしたような気恥ずかしさが湧いて、それを隠すためにことさら素っ気なく容器のふたを元に戻し、
 「ああ、そうする。」
 一応は素直にそう言った。
 シャッコはそれきり何も言わず、キリコがそれをきちんと使っているかどうか、特に確かめもしなかった。
 自分でも驚くほど神妙に、キリコはシャッコの親切を受け入れて、容器が空になるまでそれを唇に塗り続けた。中身が半分になる頃には、塗ったそれが舌に触れるのが気になって、唇を噛む癖が止み、傷がなくなれば、何となくわざわざ傷つけるのもどうかと思い始めて、後は自然に、唇に意識すら行かなくなった。
 している最中には考えたこともなかったけれど、止んでしまえば確かに悪い癖だったと後で思って、悪癖がひとつ減るならその方がいいと、シャッコに感謝したのは、フィアナと再び会った時だった。
 カンジェルマン宮殿へ侵入しようとして捕まったキリコを逃がそうと、牢へやって来て、ほんのわずか一緒に過ごした時間の間に、フィアナが一度だけ微笑みながら、
 「唇の傷、治ったのね。」
と、ひどく優しく、うれしげにささやいた。
 キリコの唇に指先を揃えて触れさせて、彼女が触れたかったのは決してそんな風にではなかったのだろうけれど、一刻を争う時だったから、ただ抱き合うだけが精一杯で、ふたりはそれだけで満足しなくてはならなかった。
 体のあちこちはあざだらけだったし、手当ての必要な傷もあったけれど、シャッコのおかげで噛み癖のなくなったキリコの唇は、確かにフィアナが言う通り、傷ひとつなくきれいなままだった。
 フィアナにも気づかれていたのかと驚いて、余計なことで気を使わせたと、自分の癖をキリコはその時心の底から恥じた。
 ろくに一緒にいたこともないフィアナは、けれどそれは恐らく恋する者特有の敏感さで、キリコの心の機微──キリコ自身には自覚すらなかった──を見抜いていたのだろうし、大事に思う相手の痛みに耐えられないのは、それはキリコも同じだった。
 傷のなくなった唇に触れられて、その時初めて、キリコは彼女がどれほど自分を想っているのか、そして彼女が自分にとってどれほど大切か、痛烈に思い知っていた。
 まったく違う人間がふたり、自分の些細な癖に気づいていて、それを同じように気にしていたと言うことを、キリコはその後も時々思い出しながら、それがどれだけ自分にとって重要な意味を持ったのか、ひとり考え続けた。


 塗られた薬の感触が気になるのか、ユーシャラがしきりに唇に触れようとする。シャッコはそれを止めようと、ユーシャラの手を取り上げている。ユーシャラの気をそらすために、手の塞がっているシャッコの代わりに、キリコが粥の残りをユーシャラに差し出した。
 差し出されたスプーンに向かってユーシャラが口を開けるたびに、噛んだ傷がかすかに見えた。食べるうちに、どうせ塗った薬は流れてしまう。気休めだろうけれど、放っておけないシャッコの親心だ。それを向けられたことのあるキリコにはよくわかる。
 ユーシャラの呼吸に交じるかすかな薬の匂い、他人に大事に思われているのだと言う記憶と、その匂いは、キリコの中で直結している。
 他人の痛みを、自分のもののように感じること。誰かのことを、心の底から気に掛けること。自分がそうされて、初めて自分にその価値があるのだと知ったキリコは、愛することも愛されることも、わざわざ学ばなければならなかった。
 相変わらず優等生とは言い難い。それでも今は少なくとも、シャッコに言わせれば、ユーシャラを決して見捨てないだろう程度に、他人のことをごく普通に気遣えるようになっている。
 フィアナのおかげだ。そして、シャッコと。
 粥のボールを空にして、ふたり掛かりのユーシャラの朝食が終わる。
 ユーシャラを椅子から下ろすために、立ち上がろうとしたシャッコの肩を、キリコはそっと押さえた。
 どうしたと自分を見上げたシャッコへ向かって上体を倒しながら、ユーシャラの顔の前に掌を広げる。遊ばせるために指を差し出した振りで、ユーシャラの視界は塞いでおいた。
 素早く唇を触れ合わせるのに2秒。今では傷ひとつないままの、あの悪癖のすっかり消えた唇のことを、今もとても感謝しているのだと、言葉で伝える代わりだった。
 そうして、大事な誰かが在ることにも一緒に感謝しながら、キリコは素知らぬ顔で体を起こす。キリコの振る舞いに驚いて、見下ろすシャッコの顔が、珍しく赤かった。
 キリコの手を取って、ユーシャラが遊んでいる。ゆるく立つユーシャラの小さな歯の感触に、キリコは思わず薄く笑みを浮かべていた。

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