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そして続く道 - 川の字

 気配で目を覚ました時には、もうキリコの腰の辺りに手を掛けて、ユーシャラがいた。
 朝には上がれなかった椅子に、夜には上がれるようになっている、そんな風に子どもの成長は早く、一体いつの間に、このベッド──シャッコのベッドだ──に、助けの手もないまま、ひとりで上がれるようになったのか。
 まだ完全には醒めない目を無理矢理に透かすようにして、キリコは、やや目が慣れ始めた闇の中で、部屋のドアが、ちょうどユーシャラが通り抜けられるだけ開いたままなのに気づく。
 きちんと閉めなかったのか、ユーシャラが自分で開けられるようになったのか、どちらなのか質問する術はキリコにはなく、このまま起き出してユーシャラを部屋へ戻すか、それとも、空いたままの自分のベッドへ移動させるか、キリコは少しの間迷った。
 こちらに背を向けているシャッコに、絡ませていた腕を外し、キリコは自分を見下ろしているユーシャラへ向かって寝返りを打った。
 「眠れないのか。」
 答えなど期待もせず、訊いた。ユーシャラは、思った通りきょとんとしたまま、何かクエント語で言う。せっかく声をひそめたキリコの気遣いなど知るわけもなく、子どもの声は、こんな夜中に聞けば余計に甲高い。
 しいっ、と唇に指を当て、シャッコの方を伺いながら、ユーシャラの声をたしなめる。それを、普段は自分に反応などしないキリコが、遊びに付き合ってくれるつもりだとでも思ったのか、ユーシャラが、顔中をほころばせて喜びの表情を浮かべた。
 ユーシャラは、その小さな口をいっぱいに開いて、笑い声を立てようとしたらしいその時、シャッコの大きな背中が動いた。
 キリコの方へ体を回して、起こしたかと、息もひそめて身構えたキリコの、右肩へ頭を乗せて来る。長い腕は軽く曲げられて、胸の上を横切ってから、余りは左肩を越えて、少しの間何か探すように指先がそこで動いていたけれど、ユーシャラも黙って見守るうち、目を覚ました様子もなく落ち着いた。
 ユーシャラの声は聞こえたようだったけれど、起こしたわけではないらしい。
 キリコはほっとして、それから、このままでは動けないことに気づいた。
 もう、ユーシャラをどこかへやるどころではなかった。
 シャッコの体の下から腕と肩を抜こうとすれば、確実にシャッコは目を覚ます。それに特に気が咎めるわけではなかったけれど、ただでさえユーシャラの世話を、結局は押しつけられているシャッコに、あまり無理はさせたくなかった。
 「ユーシャラ、自分の部屋に戻れ。」
 伝わらないのを承知で、キリコは低めた声で言う。言ってから、あの囲いのあるベッドには、出れても自力では這い上がれないだろうと気づく。
 ここまでひとりで来れるまでは成長しているけれど、また自分ひとりで戻れるほどは、まだ成長していない。
 こんな状況になると、戦場での命のやり取りの方がずっと気楽だったと思うのはなぜだろう。戦場で対峙する連中は、少なくとも言葉が通じるとわかっていたからか。あるいは、キリコが自分の足で走って飛べるように、相手もそうだったからか。
 そう考え始めると、そもそもなぜユーシャラをあの裁定の場から救うことにしたのかと、自分の行動を省みることになる。
 あれから何度か考えたことだけれど、考えるだけ無駄なことだった。ユーシャラを連れてゆくと決めた後では、もうユーシャラを捨てると言う選択は有り得なかった。
 ユーシャラは、やや困り果てているキリコの顔色を読んだのか、それ以上声を立てたりはしなかったけれど、キリコの顔や腕や腹の辺りを散々小さな手で触った後で、今は自分をよけようとしない──できない──キリコに気を良くして、自分の目の前に横たわるキリコの腕を乗り越えて、キリコの体の上に乗ろうとした。
 そうして、キリコをベッドにして眠るには、すでにキリコの胸を半分占領しているシャッコが邪魔と気づいたらしい。
 キリコの腹をまたぐようにして、それから、シャッコの長い腕を何とか取り除けないかと、ない知恵を振り絞っているのが、幼い顔に現れる。
 「シャッコ。」
 そうやって呼べば、大抵は自分の言う通りにしてくれる声で、ユーシャラがシャッコを呼ぶ。眠っているシャッコは反応しない。
 「シャッコ。」
 また呼んで、ユーシャラはシャッコの肩の辺りを叩いた。
 「やめろ。起こすな。」
 静かな、けれどきちんとたしなめる時の声で言うと、ユーシャラが叱られた時に見せる、少し怯えたような、途方に暮れたような表情を浮かべた。
 キリコの上で寝たいのに、シャッコが邪魔でそれができない。シャッコは眠っていて、今はユーシャラの言うことは聞いてくれない。
 「キリコ。」
 今度は、その可愛らしい声を、キリコに対して使ってみることにした。
 「おれに言っても無駄だ。」
 とりつく島もなく、キリコは愛想笑いのひとつも浮かべずに、ユーシャラの願いを断ち切った。
 言葉がわからなくても、今では大体キリコの言うことがわかる──たしなめられるか、叱られるか、シャッコの言うことを聞けと言われることがほとんどだから──ユーシャラは、失望はしても、諦めはしてない表情で、まだ往生際悪く何か考えている。
 キリコの上が無理なら、シャッコの上にしようと、ユーシャラは思いついたらしかった。
 ほとんどうつ伏せのシャッコの背中は、確かに空いていたけれど、ユーシャラがそこで寝るには、明らかにやや安定が足りない。
 ユーシャラはもちろんそんなことはお構いなしに、思いついた通りに行動すべく、キリコの上からシャッコの背中へ移動しようと、そちらへ向かって体を伸ばしてゆく。
 シャッコを起こしたくないキリコは、即座にユーシャラの細い腕をつかみ、それを止めた。
 「やめろ、シャッコに潰されるぞ。」
 その通りだ。シャッコの上に乗っていて、シャッコが動けば下敷きになる。ユーシャラの大きさでは、ほんとうに大怪我でもしかねない。シャッコが歩き回っている時には絶対に足元へまとわりつくなと、しつこいほど言うのと同じ理由だ。
 キリコに止められて、ユーシャラの唇が可愛らしく尖る。キリコには効かないけれど、シャッコには時々効く表情だ。ココナたちがいたら、甘やかされ放題だろうと、キリコはこっそり思った。
 せっかく自分のベッドを抜け出して、どうやったのかこの部屋のドアを開けて忍び込んで、ベッドにまで上がり込んで来たと言うのに、ユーシャラにはさぞ冒険のしがいのないことだろう。
 そもそもシャッコひとり用のベッドにキリコがすでにいて、ユーシャラが遊べるスペースなどない。
 大体、今は真夜中だ。
 子どもはさっさと寝ろ。キリコは、そろそろ自分がまた眠りたくなって、そう思った。
 どうしよう、と自分を見つめて来るユーシャラの視線を、空いたままの自分のベッドへ誘導するけれど、ユーシャラはキリコのベッドをちらりと見ただけで、キリコに向かって首を振った。ここに、キリコやシャッコと一緒にいたいのだと言うことらしい。
 もうこのままで好きにしろと、投げやりに思ったけれど、シャッコの腕と頭を肩と胸に乗せて、この上ユーシャラにこのまま腹の上で寝られたら、身動き以前に重さで眠れない。もう抱いても重いユーシャラは、寝ればいっそう重くなる。
 床に落とせば──降ろせば、ではなく──、状況を受け入れて諦めて自分の部屋に戻るかと、キリコが考え始めた時、キリコの不穏当な思考を感じ取ったのか、ユーシャラは不意にキリコの腹から降りて、キリコの腕の上に座るように腰を滑らせた。そして、その腕を取って動かし、キリコの体と腕の間にわずかな隙間を作ると、そこに自分の小さな体を割り込ませた。
 まるでシャッコを見習ったように、キリコの左の肩口の近くに小さな頭を乗せ、生意気に、寝心地を探るようにしばらくそこで何度か頭の向きを変え、キリコが拒否しないことを確かめると、キリコの体に自分の体を沿わせ、横顔をぴたりとキリコの肋骨に押し当てて、いつものように、左の親指を口の中へ差し入れる。
 キリコはしばらくの間、身動きせず──できず──に、ユーシャラの小さな頭を見下ろしていた。この状態に対して、一体どんな反応すればいいのか、キリコの経験の中にその答えを教えてくれるものはなく、結局は眠気と重さに負けて、考えるのも億劫になって、すべてを受け入れてしまうことにする。
 ユーシャラが動き回ったせいで、下方へずれてしまった毛布を、キリコはそっと左腕を伸ばして、ユーシャラと自分の上に、できるだけきちんと乗せた。
 この状況を、できるだけ冷静に受け止めながら、胸の中にあたたかいものが満ちて来るのを止められず、いつの間にかユーシャラが、体の大きさ以上に、自分の中に深く食い込んでいるのに、キリコは気づいていた。
 親が、どんな風に自分の子を愛するのか、キリコは知らない。ユーシャラは、それをキリコに教えてくれる。ユーシャラを育てているのはキリコ──とシャッコ──だけれど、別の意味で、自分も育てられているのだと、キリコは思った。
 そのための出会いだったのかと思いながら、キリコはもう寝息を立て始めたユーシャラの体に腕を回した。
 ユーシャラを抱き寄せたまま、もう少し近く、自分に抱きつくように眠っているシャッコへ体を寄せ、血の繋がりはなく、同じ言葉さえ使わないこの3人は、親子ではなかったけれど、今確かに家族だった。ひとつベッドの中で絡まるように輪郭をひとつにして、見ている夢さえ分け合えそうに、文字通り肩を寄せ合っている。
 ふたり分の寝息が、両肩近くにあたたかい。少し無理をして、シャッコの肩にも掌を当てて、明日の朝の肩や腕の痛みを想像しながら、キリコは目を閉じる前に、もう一度ユーシャラの背中をそっと撫で、シャッコの額の近くに、静かに唇を押し当てた。

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