ナゲキバト
■-3
二人は歩いている。
「アキさん」
「何?」
「飛ぶ?」
人懐こい顔をしてユリシーズが提案する。
「ううん。歩くよ」
「はぁい」
ユリシーズはにこにこと笑っている。何がそんなに楽しいのだろう。しかし悪い気分ではなかった。
暫く進むと小柄な鬼が大勢姿を現した。行商人でも狙っていたのだろうか。小鬼はやかましく声を上げる。
『風』の所為か、その動きが手に取るように解る。飛びかかってきた体を二つ、手にした剣で斬り裂く。
側でユリシーズが真空の刃を飛ばしている。篭もる魔力の所為か、僅かに視認出来るそれは綺麗な断面を作り上げる。元々分断出来る仕掛けになっているように思える程だ。
もう一体を斬り飛ばそうとした時、頭の中で何かが起き上がった。
「うえーん、うえーん」
『これからどうなるの』
「うえーん、うえーん」
『なにをするの』
「うえーん、うえーん」
『おかあさんおとうさんどこなの』
「うえーん、うえーん」
『こわいようこわいよう』
「ぎゃあぁぁ」
『いだああだああああああああああっ』
これは、家族で最後に殺された赤子の記憶。
「……あぶ、あ」
舌足らずに呻いた直後、アキリーズは形振り構わず大声で泣き出した。泣きながら敵を斬り殺す。
「うわああああああああああああっうええええええええっうわあああああああっ」
夢中で剣を振るう。あとどれだけ、まだいる、まだいる、怖い、まだいる。
痛い。刺された時の痛みが伝わる。
ふと、後ろから誰かに抱き付かれた。訳が解らずじたばたと暴れる。
「もう怖いもの、みんな死んだよ……」
今まで斬っていたものが既に死体だと気付く思考すら何処かに行ってしまった。変わらない恐怖が爪を立てる。手から武器が滑り落ちた。
「うわあああああああああああっわああああああああああああっ」
頭の中に赤子の記憶が広がる。言葉も解らない、表す事さえ出来ない、何も解らない、ただ恐怖というもの。
大声が掠れていく。自分の声が止まった事を知らない侭、アキリーズは気を失った。
気が付いて瞼を開ける。深く眠っていたらしいが、体は酷く重い。
「起きた……?」
自分がユリシーズに抱かれて眠っていた事を理解するのにも時間を要した。
辺りはもう夜だ。現在地が最後に記憶している場所とは違う事は解った。
「ありがとう……」
そっと起き上がると深い溜め息が零れた。ユリシーズも起き上がる。
あまり考え事が出来ない。記憶が疎らになっている。果たしてユリシーズを斬りはしなかっただろうか。
暫くして喉の渇きに気付く。時間経過もあるが、主には長く泣き叫んだ所為だろう。
「水……無いかな……」
「飲める水無いよ、血が混ざった」
血が混ざるような事をいつしたのか、考えようとしてやめた。
「川があるの、少し遠いから、飛んでいくよ」
「うん……お願い」
皮袋を持って、ユリシーズが暗闇の中を飛んでいく。あまり羽ばたかない翼は鳥とは違う形であり、風を操る翼だ。
瞬く間に感じ取れない距離まで行ってしまった。本当に遠いらしい。
ぼんやりとした頭に、ひそひそと声が聞こえる。
『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』『死にたくない』
もう嫌だ。
『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』『痛い』『怖い』『熱い』
もうこんな怖いものは嫌だ。
『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』『殺さないで』
証が欲しい、今、生きている証が。
傍らにあった武器へそっと手を伸ばす。
「死にたくない」
手首を斬り付ける。
「死にたくない」
手首を斬り付ける。
「死にたくない」
手首を斬り付ける。
「死にたくない」
手首を斬り付ける。
「死にたくない」
手首を斬り付ける。
「死にたくない」
手首を斬り付ける。
痛みを感じ血を流しても生きている、その安心が。
「い……」
呼吸の荒さに気付くと、反応している体を認める。もう一度手首を斬り付けると、それはびくりと反応した。
「あ、あ……」
体を起こしていられずに倒れた。手首を斬り付ける度に疼きが走る。
「アキさん」
行為に夢中で、ユリシーズが戻ってきた事に気付かなかった。周りを見ようという心が働かない。
武器を持ち替えて、もう片手の手首を斬り付ける。呼応する体を、どうしようも出来ず腰が揺らぐ。
不意にユリシーズが足元に伏せた。
「あ」
触れられるだけで体が痺れる。ユリシーズがそれを咥え込んだ。
「あ、はあああああぁぁぁっ」
覚束無い指で剣を握り直し、再び斬り付ける。悪寒のようなものが体中を駆け巡った。激しい感覚に涙が零れる。
空気と水分が音を立てる。
「ひはあああぁぁっひいぃああっああああぁぁぁうああああああっいぃっひああああっ」
子供のように喧しく、大人のように淫猥に、声を張り上げた。だらしなく涎を垂らし、足をばたつかせる。
ぴしりと手首に傷が入る。温かい自分の血が降ってくる。
『しにたくない……』
誰かが言う。それは自分だ。
「ああああぁああぁぁぁっ」
それだけ理解すると、後は果てるのみだった。
『いやだ、いやだやめて』
『その子を殺して、次の、次、僕の番?』
『その子も殺した、次に、次に僕?』
『やだよ、母さん、どうして、死ぬなんて嫌だ、だってみんな、苦しい顔をして死ぬじゃないか』
『いやだ、楽になれるなんて嘘だ、やめて来るなこのバケモノッギャウウウアアアアアアウゾヅギィィィアアアアアッ』
無理心中させられた子供の記憶。
『何だああああづううッ』
爆発に巻き込まれた記憶。
『苦しい、何故だ、私は悪くない、お前は何をしている』
『やめろ、苦しい、やめろ、くる、ぐるじいっやめろやめろやめ、ろ、や……め、ぐ……じ……』
首を絞められた記憶。
『わたしはまだ生きているの、解るでしょう?』
『体が動かなくても、わたしは生きている、どうして諦めたの?』
『やめて、まだ死にたくないの、だからお願い、お別れの言葉なんて欲しくない』
『やめて、どうして誰も止めないの、わたしに死んでほしいの?』
『パパ、ママ、おばさん、おじいちゃんおばあちゃん』
『わたしの事が嫌いなのね、そうでしょう、ねえ、こんな、嘘よ、おかしい、あなたたち誰なの?』
『嫌、嫌よ、やめ、うううくるしいうううううううう、うううらんでや、る……』
生命維持装置を切られた少女の記憶。
「うう、う……」
早朝、自分の泣き声で目が覚めた。
理不尽な死の記憶が、ある筈の無い恨みの心を広げる。それは誰に向かうものなのか。
よろよろと身を起こす。昨夜の状態がその侭残っていたが、気にする事も出来ない。
傍らにユリシーズが座っている。じっと待っていたのだろうか。表情は悲しげだった。それが酷く悲しい。
「どうして……」
それは誰の言葉だったろう。
思考は綯い交ぜになり、まともな考えは浮かばない。
苦しみをどうする事も出来ず、アキリーズは呻いた。そんな彼をユリシーズはそっと抱き締める。
手首がやけに痛む。それは自分のものであり、自分だけのものでしかない。
ユリシーズはただ、優しく抱き留めるだけだ。
「いっしょにいるよ……いっしょにいるから、此処にいるんだよ、アキさん……」
其処でやっと他の気配に気付いた。すぐ側の荷物に何かがたかっている。食料を漁りに来たらしい。
ほーほう、ほう、ほう。
鳥のようだ。
鳥はいい、生きるだけで済む。
ほーほう、ほう、ほう。
ああ、けれども、鳥もやはり死ぬのだった。
Previous Next
Back