ナゲキバト
■-4
一体どれ程歩いてきたか、記憶する気はなかった。
獣を倒しそれを食べる生活はあまり楽ではなく、少々安定した生活を求め、様々な依頼が集まる宿を知った。
経歴を明かさずとも仕事にありつけるのはとても勝手が良かった。力のみが問われるこの界隈では、何者もそれ以上には見られなかったのだ。
「よーう」
軽い語調の声に、アキリーズが振り向いてからユリシーズも振り向く。
振り向いた先には金色の髪をした若い男が立っていた。朱色の瞳は三白眼で、左頬に酷い火傷らしきものの痕があるが、その恐ろしさは人の良さそうな表情であまり目立たない。
「お二人さん、今暇か?」
「まあ、ね」
アキリーズは男を睨み付けて威嚇するユリシーズの背中を撫でてから、続く話を聞く。
「あー、その前に自己紹介だな。俺シーシアスってえの。んで話なんだけど、お二人さん強いね」
話は読めてきたが、取り敢えず会話を続ける事にした。
「それはどうも」
「俺って三人組なのよ、けど、ちいとばかし苦労しててさ。其処であんたらを見付けたって訳。今もう一人勧誘中だけど」
男、シーシアスは不敵な笑みで話を続ける。
「他の奴に取られない内にあんたらが欲しいなーってさ。どうよ?」
この正直が過ぎる言葉に嘘は無いのだろう。
「僕には致命的な欠陥があるんだけど」
不明瞭だが、一応告げてみる。
「そんくらいのスリルはあっていいんじゃねえの?」
笑って言っているが、冒険者である事を考えるとただの軽口ではないようだ。
「……ユリシーズ、どうする?」
「アキさんがいいならいいよ」
やはりこの返事だった。
人数が多い分稼ぎは減るが、少人数よりは安全だ。
「お試し期間ってのもいいけど」
それにこの男がこう言うのだ。
「じゃあ、試しに入ろうかな。気に入らなければすぐ追い出しておくれよ」
「なんかやけに遠慮するな。ま、交渉成立って事で」
するとシーシアスが振り返り何かを探す。やがてこちらに向かってくる三人を見付けて手を振った。
「そっちも話はまとまったか?」
カーネーションピンクの長い髪をした男にシーシアスが問う。
「ああ、交渉成立だ」
「よ、宜しく」
緊張気味に挨拶をしたのは、まだ少年だった。こちらもシーシアスと同じ金髪だが赤みが強く、疎らに朱色が混ざっている。
「そちらも上々のようだな」
二人の後方にいた人物が告げた。男のように見えるが、その割には身長も肩幅も無く、声は中性的だ。髪や瞳が左右ツートンになっており、頬や腕に黒い文様がある。更に気になるのは眼球に横一線する緑の線だ。
「お試し期間って事で一応成立。適当に自己紹介してくれや」
促されてまずは長髪の男が口を開く。
「俺はパーシアス、宜しく」
律儀に頭を少し下げるところ、生真面目なのだろう。
「ハーキュリーズという」
不思議な外見をした人物が自己紹介をすると、シーシアスが茶化すように言った。
「うちの紅一点ってえよりは紅半点って感じかねえ」
ユリシーズが首を傾げる。言葉そのものの意味を解っておらず、冗談が通じなかった事にハーキュリーズが若干ではあるが苦笑した。
「両性具有というやつだ」
「……逆」
短く呟いたユリシーズに疑問の眼差しが向けられる。それを自覚していないユリシーズに代わってアキリーズが答えた。
「この子は無性なんだよ」
「すげえパーティ」
少年が素直な感想を言う。言って、自分がしなければならない事を思い出し慌てて口を開いた。
「あ、えっと、俺ジェイスン。そっちは?」
「アキリーズ。この子はユリシーズ。暫く、宜しく」
「こっちこそ宜しくな」
シーシアスの握手する手へ腕を伸ばした時、腕の包帯が見えてしまったが、保護程度に思われただろう。
六人になり新しく宛がわれた部屋は、流石に狭いが寝るには困らない。
「アキリーズ達って、何処から来たんだ?」
素直なパーシアスの質問にどう答えたものか考えはしたが、それも一瞬だった。
「今はもう無い国から」
「ああ……、済まん、嫌な事を訊いたな」
故郷が無いのは寂しいと思っているのだろう。アキリーズが滅ぼしたとは思うまい。
ジェイスンがアキリーズの隣に座るユリシーズに目を向けた。
「ユリシーズは、どんな種族なんだ?」
言葉にユリシーズは不安になったのか、怯えたようにアキリーズの腕を抱いてくる。その様子を不思議そうにジェイスンが見た。
「どうしたんだ?」
「この子は人間不信でね。ユリシーズは風の精霊だよ」
「そっか……、ごめん」
単に心配するだけのところ、純朴な少年のようだ。其処でふと、ユリシーズが気になっていた事を口にする。
「アキさん、あいつ、魔力だ、塊」
そう言って指差したのはハーキュリーズだ。
「ほう、流石精霊と言ったところか」
指差された事を些かも気にせず、感心してハーキュリーズが笑みを浮かべる。どういう事だ、と知らないジェイスンが目を丸くしてハーキュリーズを見た。
「基礎は人間だが、あとは魔力物質で出来ている。機能は人間と大差無いがな」
ジェイスンが感嘆の声を漏らしたところで、シーシアスの声が割って入った。
「そろそろ寝たほうがいいぜ……明日朝一で依頼ゲットすんぞ」
欠伸交じりの声にほぼ全員が同意して、寝る支度を始めたのだが。
「うううわ!」
防具を外したジェイスンが顔を背ける。どうやらハーキュリーズを見ないようにしているようだ。
「どうした」
「服! 服!」
言われてハーキュリーズは自分を見るが、返した言葉はこれだ。
「だから、服が何だ」
「ばっか、サラシだけとか、あの、隠せよ!」
焦るジェイスンに、無表情だったハーキュリーズがにやりと笑う。
「うぶだな、お前」
「うっ……!?」
「痴話喧嘩は余所でやってくれ」
寝転がったパーシアスが背中越しに手を振り、ハーキュリーズが小さく笑ってブランケットに潜り込む。ジェイスンは何かを言おうと口を開閉したが、結局何も言えずに終わった。
一方、ユリシーズがアキリーズと一緒に寝るのを見て、シーシアスが芝居臭く訊いた。
「……おや、共寝ですかい」
それには短い返事をしただけで、ユリシーズに抱かれてアキリーズはさっさと目を閉じる。行動に反して淡泊なものだと思いつつ、シーシアスも目を閉じた。
翌日、宿に貼られている紙の群れを見る。割に合う依頼書を探す四人の背後で、アキリーズは隅を見ていた。それは貼られて久しいのか、字が掠れている。
「これにしよう」
躊躇無くその紙を取った。
「何だ? ……うわっ!」
内容を目にしたパーシアスが驚いて声を上げた。続けて三人が紙を見る。
「火竜退治!? マジかよ冗談じゃねえ!」
ジェイスンの非難も無理は無い。竜の生命力、能力は普通の怪物とは桁が違う。竜の怒りを買い、滅びた国もある程だ。
「飛竜だともあるな。アキリーズ、本気なのか」
ハーキュリーズも只事ではないと厳しい目をして言うが、アキリーズは穏やかに笑って応えた。
「危険だと思ったら置き去りにしてもいいよ」
「……信用してもいいんだな、その自信を」
「お好みで」
アキリーズの隻眼に冷たい光が見えた。
「あのさあ」
竜の巣へと続く道を歩きながらジェイスンが言う。
「このパーティ、誰がリーダーなんだ?」
二人分の視線がシーシアスに向けられる。それに気付いてシーシアスが首を横に振った。
「おいおい違うだろ、俺は好き勝手なだけ。今は丁度適任がいるじゃん、なあ?」
軽く言ってアキリーズに顔を向ける。
「どうして僕に? 試しに入っているだけだよ」
「強さ順? 暫定ってやつ」
非常に単純な理由だが、この界隈はそんなものだ。
「それならユリシーズじゃないのかい」
「いやいや、ユリシーズの保護者っぽいし」
どちらが保護されているのか、とは思うものの、そう見えるのなら仕方無いのだろう。
広大な高原を六人は行く。風は強く、時々砂粒が顔に当たる。崖の上を歩くと、下から吹き上げる風に体が傾いだ。
そうして漸く、高台にある竜の巣へ辿り着く。其処にあるのは卵が数個と、散らかされた骨だった。
「でかいな……」
卵を見てシーシアスが呟く。幼い子供程度はある卵は、成体の巨大さを思わせる。
「親竜はどうしたんだろ」
「餌でも獲りに行ったんだろう」
ハーキュリーズの返しにジェイスンが戦慄する。その餌とは何だろうか。
ふと、アキリーズが剣を抜き放ち卵に近付く。そして一気に卵を叩き壊した。
「げっ! やりやがったよ!」
シーシアスが驚きの声を上げる。卵を壊した敵となれば、竜は地の果てまで追ってくるだろう。
零れている赤い肉塊を剣で一突きする。奇妙に蠢いたと思えば、もう動かなくなった。
「アキリーズ、お前」
「僕は逃げるつもりなんて無いからね」
不安への答えを聞かされてパーシアスが慄く。アキリーズはユリシーズに呼びかけ、ユリシーズは平気そうな顔でそれを手伝う。半ば自棄で四人もそれを手伝った。
卵を最後まで割り終えた時、空から絶叫が降ってくる。何かと思い頭上を見上げると、まさに落ちてくる瞬間だった。地面に叩き付けられたそれは、数回痙攣して動かなくなる。砕けた人間だった。
怒りの咆哮と同時に巨体が降りてくる。赤い鱗の竜だった。着地の振動が体の芯を刺激する。
「餌には何とも思わないのかい」
アキリーズが言った言葉を理解したのか、火竜は口の奥に炎を見せて更に怒りを燃やす。アキリーズは前に進み出て、特に構えも取らず火竜と対峙した。
「ちょっ、あんまり挑発すんなよ……!」
流石にシーシアスもたじろいだ。大人の人間四人分は優にあろうかという竜だ、一撃でも食らえば命は無いと思っていいだろう。
火竜は大声で鳴くと、突然アキリーズ目がけて炎を吐きかける。一瞬のうちにアキリーズは炎に包まれ、四人は巻き起こる熱風に耐えるしかなかった。
「アキリーズ! くそっ!」
火柱を見てシーシアスが吐き捨てるように声を上げた。絶望感漂う中、ユリシーズは微笑んでいる。微笑みながら、優雅に腕を払って風の刃を飛ばした。
火竜の片翼が綺麗に斬れる。痛みに叫んで炎が途切れ、其処に陽炎の中の影を見た。
「あ、アキリーズ!?」
一瞬で炭になったと思ったアキリーズが、服の裾さえ焦がさず其処にいた。体を薄く光の揺らめきが包んでいる。
「何だ……」
落胆したように言うと、アキリーズは走る。その瞬間、握り締めた剣に炎が絡み付いた。火竜に炎が効くか、と誰もが疑念を抱いたのだが、胴体を斬り裂いたその傷は焦げていた。掬い上げるように残っていた片翼を斬り飛ばす。悪臭が立ち込め、火竜は両翼を容易く失った事と火傷を負った事に動揺したのか、その場でのたうち回っている。
距離を取ったアキリーズが、何か操るように腕を掬い上げる。土塊が呼応して宙に浮かび、火竜の体を持ち上げて磔にした。
「物証があったほうがいいよね」
呆気に取られて四人は声も出せず、ユリシーズは答えず、それは独り言になった。
土が動く。火竜を更に包むと、途端潰しにかかった。奇妙な音を立てて火竜の首が千切れて落ちる。
「……とんでもなかったぜ、こりゃ」
自分の目に狂いがあった事を知り、シーシアスは引き攣った笑みを浮かべた。
依頼した街の長は大層驚いていた。依頼には幾人か挑戦したが誰一人帰らず、不可能だと諦め、移住を考えていたらしい。それを竜の首付きで達成されるとは。
報酬は手に余る程の額を渡され、金の重みを感じながら帰路に就いた。
「はーっ、すげえなあ」
シーシアスが空を仰いで言った。詰まりに詰まった金属音が袋から聞こえる。
「なんで炎が効かなかったんだ?」
「障壁を張っていただけさ」
「そんじゃあ、吹雪が吹こうが雷が落ちようが平気な訳かい」
「そうだね」
軽く答えられ、シーシアスは返す言葉を口笛に替えた。
「ユリシーズも凄いな、あんな強い力見た事無いぞ」
パーシアスがやや興奮して言う。褒められた事は解っているだろうが、良い気分にはなれずにユリシーズは顔を逸らした。それをアキリーズが呼んで宥める。
不意に茂みが揺れる。皆素早く身構えると、茂みから小鬼が数体飛び出してきた。
「邪魔臭いな」
ハーキュリーズが攻撃用に指先を黒い刃に変えながら呟く。
「寄ってたかって、虫みたいだな」
パーシアスがそう零した瞬間、アキリーズの目の前がちかちかと光る。
記憶が漏れてくる。
『長い道のりだった』
『もう少しで漸く食べ物にあり付ける』
『もう数日も何も口にしていない』
『においがする、いい香りだ』
『何だ、何かが近付いてくる!』
『何だ、何だ、追ってくるな、何処かに行け、追ってくるな!』
「せーの」
『何だ! なあブッ』
害虫として押し潰された虫の記憶。
「……うっ、う!」
急にアキリーズが崩れ落ち、暫くは耐えたが限界を越え、とうとう嘔吐する。
「アキリーズ!? どうした!」
体ががくがくと震える。潰れた瞬間の衝撃。体の何処から壊れていったのか、全てが解らない。
「アキさん!」
余所見しながらも小鬼を風の刃で切断すると、ユリシーズが側に寄る。それは微かに解ったが、アキリーズの正気は戻らない。
怖い、これは、とにかく、自分を殺そうとしている、これとは、何なのだ。
ユリシーズが縋ってくる。
「違う、違う、違う、違う、違う、違う……」
ユリシーズはただそれだけを繰り返す。
違う。害虫は、飢えたのは、死んだのは、自分ではない。
だが恐怖は残る。
「酷いよ……」
理不尽に呟けたのはこれだけだ。
「竜殺しだ!」
「竜殺しが帰ってきたぞ!」
宿へ戻ってくると、見知らぬ誰か達は一斉に騒いだ。一体何処の風が情報を運んだのだろう。竜を殺したとなればその腕前は桁違いと認識される。
「いや、俺が倒したんじゃなくて……」
そんなパーシアスの声は喧騒に掻き消され、強引に宴へと引っ張られる。
「具合悪いやつがいるんだけど……」
「そんなもん酒で誤魔化せばいいさ」
何とも勝手な言葉にジェイスンは困り果て、そして奥の方へ引っ張られていった。
同じくして四人も引っ張り込まれる。ユリシーズは酷い不快感の中、何とかアキリーズの側に寄った。
「何だ、辛気臭い顔して」
カウンターに座った二人へ、宿の亭主が話しかけてくる。
「飯でも食えば晴れるだろうよ、ほれ」
重々しく置かれた肉料理は確かに美味そうに見えた、しかし見えただけだ。
「いいよ……」
頭の中がうねる。手首がざわつく。傾いだ体をユリシーズに支えられた。
亭主は小さく首を横に振る。
「少し休むがいいだろう」
「部屋に行くよ……」
それだけやっと言うと、覚束無い足取りをユリシーズに支えられて部屋のある二階へと向かった。
『ごぼぼっぐぼぐぼばぶぶごぶっ……ぐ……』
臍の緒で首を絞めた胎児の記憶。
息が苦しい。体も苦しい。何も我慢出来なくなる。
「う、う……う」
ユリシーズの体を掴むその指は食い込み、皮膚を破りそうだった。
頭が痛い。思考が全て飛ばされる。死の思い出が苦痛を運んでくる。知識も無い者の苦しみとは、酷く混乱した絶望だった。
首の苦しみが取れてくると、急に記憶が胸に走った。
「がっ……は……!」
これは滅多刺しにされて死んだらしい。己の胸を鷲掴む。ユリシーズは強く自分を抱いている。しかし感覚は薄い。
「あが……」
半ば白目を剥いて、アキリーズは気を失った。
「はぁぁやっと帰ってこれたぁ……」
かなり酔っているのか、ジェイスンは発音の悪い声で言葉を零す。半分目が潰れていた。
ぞろぞろと部屋へ入ってきた四人の内三人は疲れた様子だった。例外はシーシアスであり、まだまだ元気そうだ。
「おいアキリーズ……寝たのか」
こちらに背を向けていたので、ジェイスンには苦しげな顔が見えなかった。寝台に横たわったアキリーズへユリシーズが縋り付いている。
ほんの少し上気した顔で、シーシアスがにやにやと笑う。酒は一番飲んだ筈なのだが。
「何だい何だい、一人は淋しいよって?」
それはどちらに言ったのか、しかしどちらでも悪かった。ユリシーズが軽く人差し指を動かす。
シーシアスの火傷のある頬にぴしりと赤く線が入る。真空の刃で斬れたのだ。
「……次は鼻を落としてやる」
「じょーだん、ジョーク! 本気にすんなよー」
軽く流したが、事の重大性だけは理解出来たシーシアスは、ユリシーズの見せた殺意に触れてはならないと肝に銘じる。
「何やってんだ……」
半ば呆れて言ったパーシアスは寝惚け眼だ。上着を脱ぎ几帳面に畳むと、手際良く寝る準備を完遂して横になってしまう。
あまりに手早く寝られたので、残された三人も我に返り武具や服を片付け始めた。
『苦しい!』
叫び声がして目が覚めた。
荒かった呼吸を整える横で、傍らのユリシーズが瞳に光を揺らす。精霊に睡眠という習慣は無いらしく、常に起きた侭だ。
緑色の瞳が心配そうに自分を見詰めている。そんな感情を受け取っていいのだろうか。こんな非生産的な、無意味な人間が。たとえそう罵られても、言い返す言葉が見付からないのは解りきっている。それ故に怒る事も無い。
ユリシーズの背後にある窓の外をちらりと見る。星空が広がっていた。これを美しいと思う心は、元から無かったと記憶している。
何故生きているのだろうか。無駄に命を食み、無駄に歩き、無駄に考える。
だが死ぬ事の苦痛を教えられて、死ぬ事も出来ない。怖い。あの痛みが怖い。あの光景が怖い。あの感情が怖い。
「……ねえ」
喉がやけに張り詰めて、声が通ると痛い。
「僕は。君に何もしてあげられないんだよ」
ユリシーズは目を逸らさない。
「君に何もあげられないんだよ」
何度も呼吸をして、やっと言葉にする。
「……君はきれいだ」
先程から呼吸が苦しいと思えば、右目の包帯が湿っていた。
ユリシーズはそっと、アキリーズの頬を撫でる。その指先が濡れる。
「この侭僕といたら、君は何もかも汚してしまって、失くしてしまう」
それだけは、と思うのは何故なのだろう。
「この人達といた方が、君は君らしく生きられる。僕といたら、君はきっと君じゃなくなる」
怨念が体の内でうねる。吐き気がする。こんなものに触れてはいけない。
「君を助けたのは、死の記憶の気紛れなんだよ。僕の意思じゃない。僕には最初から何も無いんだよ」
偶々、種族の差異で殺される記憶を見た、それだけだ。自分は遠くで見ていただけだ。
酷く卑怯だった。
頭が痛み出す。自分の意識は何処へ行ってしまったのだろう。これは誰の考えなのか。それでも、強く残った。
「君には……、君には……生きていて欲しいんだ……」
自分が死ぬ以上に怖い、とはもう言えないが、同じ程に怖い、とは言える。
他の誰が傷付こうと知らない。だが、この子だけは。願う先も知らずに願っている。
もう自分にさえ縋り付けない。
ユリシーズがアキリーズの首元へ顔をうずめる。嫌いな、いきもののにおい、いきものの温かさ。それが、彼だけは途方も無く大切に思える。
「そうしてくれるのは、アキさんだけなんだよ」
自覚されぬやさしさとはどうしてこんなに。
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