ナゲキバト


■-6

 片手を握られている感触に気付いてから、意識が戻った事に気付いた。
「アキさん」
 目を開けると、予想通り傍らにユリシーズがいる。いつの間に気を失ったのかを考えて、全てを思い出した。死の記憶に操られ、誰かを斬り、自身も深手を負ったのだと。腹の辺りが少々熱く痛んでいる。
 最後に物置部屋へ閉じ込められた記憶が微かに残っているが、その後誰がベッドへ運んでくれたのだろうか。
「……ごめんね」
 頭の中がまだ混濁しているが、これだけは言えた。
 ユリシーズはかぶりを振って、取っていた手を強く握る。
「なんにも悪くない、だってこんなに、たったひとりに、アキさんは……」
 アキリーズは小さく笑う。自嘲だった。
「結果は情け無く負けたんだよ」
「アキさんは、此処にいる、いっしょにいてくれる……。それだけでいい……」
 取られた腕をよく見れば、包帯が新しいものに変わっている。となると誰かが巻き直したのだろう。この下に隠していたものも見られたのだ。
 アキリーズは軽く溜め息をついて、涙を浮かべるユリシーズへ告げる。
「ごめんね。君と、いっしょだって約束したのに。君から離れようとしてしまって」
 それを聞いたユリシーズはとうとう泣き出してしまう。
「こんな死の塊に、君を殺されたくなかったんだ。これはいつか、君すら殺してしまうだろうから」
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
 弱々しいユリシーズの言葉は、死に抗えない事の表れだった。どうしても、何をしても、いずれ二人共死に呑まれるのだろう。
 その結論が、二人に選択を迫る。
 そして決めた。
 ユリシーズはアキリーズが普段使っている長剣を手にした。
「いっしょに……」
 せめて、その選択が出来る内に。どちらともなく呟いた。
 アキリーズは身を起こす。この子とならば、恐怖も無い。ただ無念だけがある。こんなきれいなものを巻き込んでしまった、その事実だけが許せなかった。
 疲れきった体をユリシーズが絡み付くように抱いてくる。
「ごめんね……君の生きる道まで取り上げてしまって」
 アキリーズも抱き返し、気付けば泣いていた。
「くれたんだよ、アキさん」
 囁く声は穏やかだ。こんなにもやさしいものを、悲しませるしか出来なかった。悔やんでも悔やみきれない。
 だが、その悲しみさえも捧げるこの子だけが、全ての理由だった。
 腹に耐え難い痛みが走る。堪らず横に倒れた。
 浅い呼吸が何も言わせてくれない。
 ユリシーズの表情にも苦悶が滲んでいた。それは腹を貫いた激痛と、アキリーズを悲しませてしまった事実によるものだ。
 溢れる涙が視界を滲ませ、やがてそれが白く染まり始める。全てが遠のく中で、共有した悲しみだけがあった。



「いっしょ……」
 そう呟いた時だ。誰かが声を張り上げる。
「ユリシーズ!」
 その声がアキリーズのものではない事を知り、飛び起きる。誰かを呼ぼうとするパーシアスが見えた。
「おまえ、アキさんは――」
 其処でふと服を見ると、破けた腹に赤い染みがある。あの直後だと解った。
「アキリーズは隣の部屋だ」
 それを聞くなりユリシーズは半ば飛行して、パーシアスの制止も聞かず部屋を出る。隣室の扉を乱暴に開けると、シーシアス、ジェイスン、そして傍らのハーキュリーズがベッドで寝ているものに手をかざしているのが見えた。それを強引に押し退けてベッドを覗くと、アキリーズが目を閉じて其処にいる。腹の包帯は黒っぽい赤に染まり、ハーキュリーズはこれに治癒の力をかけていたようだ。
「アキさん」
 血の気の引いた頬に触れると、微かに体温が返る。少し撫でて、意識が全く戻ってこない事を悟ると、ユリシーズはへたり込んでベッドに顔をうずめた。
「ごめんなさい……」
 あの、生々しい体液の温度を今でも感じる。
「ごめんなさい……、いっしょだって、約束、したのに……」
 今、彼は独りで何処にいるのだろう。
「ごめんなさい……!」
 誰も救えない。苦しみに狂い最後には死ぬ。それを、もうどうしても止められなかった。だからこそ。
 その死が淋しくないように。ふたりでいっしょに。正気である内に。
 誰にも理解されない事は解っている。そんな必要も無い。
「お前ら……」
 シーシアスの声は震えていた。
「お前ら、助けてくれって言えねえのかよ!」
 その言葉にユリシーズは怒りもせず口を開く。
「おまえたちに何が出来る……? どうやって助ける……? おまえたちに何が出来る……?」
 突き放すのではなく、単に尋ねているという声音だった。
「なあユリシーズ、どうしてこうなったんだ、前に何かあったのか?」
 パーシアスがやんわりと尋ねてみると、ユリシーズがアキリーズの手を取りながらぼそぼそと呟いた。
「おまえたちなら、いいって言ってくれる、かな……」
 手を撫でても返事は無い。だが、もう限界なのだという事だけは解った。何も出来ないかもしれない、だが少なくとも、何かしようとしている。そんな彼らの事実も。
「話す……」
 ただそれだけの決断が途方も無く疲れた。



「アキさんは前、ずっとアキさんじゃなかった。自分が何なのか解らなかった。全部の上で、全部の面倒を見てた、それだけだった。世界で独りぼっち、何処にもいなかった」
 ユリシーズは元々語彙が少ない。それを必死に集めて話しているのだろう。全ての面倒を上から見る身分とは一国の主辺りだろうか。しかしその生活が空虚だったならば、アキリーズの人生は酷く寂しいものだったようだ。
「アキさんには大勢の記憶が宿ってる。大勢の力が宿ってる。大勢の死が宿ってる。ぐちゃぐちゃに混ざってる。この世界、別の世界、命、生き物、痛み、苦しみ、恨み、悲しみ」
 にわかに信じ難い話だったが、アキリーズの異常な力と行動の根元なのだとすれば納得のいく点もある。
「数えきれないものを抱えてた。自分が引き摺り込まれないように、殺し尽くして、滅ぼして、こんなものに縋り付いてくれた」
 滅ぼした、というのはアキリーズが治めていた国の事だろうか。彼の言った、今は無い国とは彼自身が起こした大虐殺の末のものらしい。
「死にたくなくて、何をしたらいいか、二人共解らなかった、ただ生きてた、死にたくなくて生きてた」
 アキリーズは一寸たりとも動かない。息をして、少し温かい事が生きているのだと示すだけだった。
「出来なかった、誰も、何も、助けられなかった、どんどん酷くなって、怖くて、苦しくて、もう歩けなくて、逃げるところも無くて」
 大粒の涙が零れる。襲いかかるものに為す術も無く、何度も殺されかけた恐怖だけがあった。
「もう駄目だって言ってた、こうしないともう、殺されるしかないって、だから、いっしょにいたくて、ふたりでいっしょに、もう何も出来なかった……!」
 吐き出すように言うと、ユリシーズはアキリーズの傍らへ顔をうずめて泣き出した。
「ユリシーズ……」
 慰める事も出来ず、ジェイスンの手が拳を作る。
「無理しか選択肢が無い、か」
 一通りの治癒を終えてハーキュリーズが呟いた。簡単に表すならばこうなるだろうが、とてもその一言では片付くまい。
 誰も何も言えず、弱々しい泣き声だけが部屋に漂う。だがやがて立ち上がる者がいた。
「ユリシーズ、時間をくれ、それまで死のうとするな」
 シーシアスが顔に手を当てて言う。ユリシーズからの返答は無かったが、その侭部屋を出ていった。
 それをきっかけに、他の者も部屋を出ていく。もう繰り返さないだろうと信じて。
 静まる部屋で、ユリシーズはただアキリーズを見詰めていた。



 アキリーズの傷こそ完治出来たが、顔色は一向に良くならない。昏々と眠り続けている。
 あれから頻繁にシーシアスは何処かへ出かけている。生活の為の依頼はパーシアス達がこなしてはいたが、充足感は得られなかった。
 そして七日が過ぎた。



 乱暴にドアを開けて入ってきたのはシーシアスだった。夜更けに叩き起こされ、言われるが侭に武装してアキリーズの眠る別室に移動する。
 武装した四人を見てユリシーズが、警戒よりも怯えた表情を見せた。
「おまえたち……」
「ユリシーズ、お前も武器を持て」
「なんで」
 強い口調に淡々と答えるユリシーズへ、シーシアスは右手に持っていた小瓶を突き出す。瓶の中には、指で摘まむ程度の大きさをした丸薬が幾つか入っていた。
「本当は夢魔を退治する為のやつだ。精神の深みに行く為のもんだから、これで何とかいけるかもしれねえ」
 意識が支配する世界には、元々其処にある物を意識したほうが持ち込み易いのだという。武装しろと言ったのはその為だ。
「シーシアスは毎日、これを探して回ってたんだ」
 パーシアスが一応言ってみる。人の苦労などユリシーズは意識する事も無いだろうが、シーシアスの誠実さを伝えてはおきたかった。
「おまえたち」
 やはり感情の無い声だった。
「なんで其処までする? 強いから? 便利だから?」
「それもある」
 シーシアスがはっきりと答える。ユリシーズは大人しく言葉の続きを待った。
「あとは、お前達二人が面白えからさ。一緒にいて楽しい。ユリシーズ、お前だってそうじゃねえのか? お前はアキリーズといて楽しいから、自分の事を解ってくれたから側にいるんじゃねえのか?」
「たのしい……」
 思い返す。共に過ごした日々の充実。出会う前の寂寥。世界の狭さ、其処にいた彼。
「お前が俺達を信じようと信じまいと、俺達はお前達を失くしたくねえ。お前達が俺達を虫けらと思ってたっていいさ。これが上手くいったら、あとはお前達の好きなように生きろ。死ぬな」
 ユリシーズはただ茫然とシーシアス達を見詰め、一筋涙を零して言った。
「いきていい……?」
 四人の頷きが、ユリシーズを奮い立たせた。



 薬は脳にも作用するらしく、精神世界での死は脳の死、現実の死に直結するという。
 まずは色の違う丸薬一粒をアキリーズの口に含ませる。少しして、その体が薄闇に包まれた。干渉出来るようになった証を見て、各々が丸薬を口にした。すると急激な目眩に襲われ、座っていた体が次々に床へ倒れる。それぞれの体を包んだ薄闇は、頼りない糸のようなものをアキリーズへ伸ばす。そうして現で闇が繋がった時、五人は目を覚ましていた。
 確かに武器を持っている事を確認してから立ち上がり、辺りを見回すと奇妙な場所だと一目で解った。闇に色とりどりの絵の具を乱暴に撒いたような色の空間は、あちこちが蠢動し、淡く明滅している。幸い互いの姿ははっきりと見えるようだ。
「一応みんな無事、だな」
 パーシアスの声は何処かくぐもっているが、聞き取る分には支障なかった。
「おうよ。さっすが魔女謹製の薬だけあるぜ」
「魔女!?」
 シーシアスの言葉にジェイスンが頓狂な声を上げる。魔女はその個人にとって重要なものを対価として要求してくるという噂があるからだ。
「安心しろ、金だけで済んだそうだ。……金だけでな」
 ハーキュリーズの補足にジェイスンが胸を撫で下ろすが、事態はそれ以上に深刻だと語尾を濁す。その続きをシーシアスが軽々と代弁した。
「魔女でも保証が出来ねえって事さな」
 会話を意識の片隅で聞きながら、ユリシーズはじっと空間を見詰めていた。
 この混沌しか道は無い。無いからこそ、歩む事を選んだのだ。覚悟など出来なかった。それさえ出来ない程に自分達は脆弱で、瀕死だった。
 だが、確かに生きている。まだ。
「……行くよ」
 それは誰に向けてだったのか解らなかった。しかし誰でも良かった。



 進むにあたってはユリシーズが頼りだった。アキリーズに分け与えた風の力を微かに感じるのだという。一見して行き止まりでも触れてみれば開く壁の存在もあり、まるで生物の体内にいるかのようだった。此処を形作るものが死の記憶なのだと考えれば、それも不思議ではないのかもしれない。
 洞穴のような場所を抜けてみると、複雑な地形に出た。よくよく見ると城内のような造形をしている事に思い当たり、アキリーズが以前は一国の主であった事を思い出す。此処は彼の記憶を元にした場所なのだろう。
 不意に、五人の前に何かが落ちる。それが鮮やかな赤色を床に咲かせたと認識した瞬間、赤色は一気に広がり床を満たす。同時ににおいが充満し、一面が血の海になった。その頃には混沌色の壁に飛び散った肉片も見える。
「奴さん、歓迎ムードで有り難いねえ」
 冗談めかしてシーシアスが呟くが、惨状の再現に表情はやや引き攣っていた。
 階段を上り、廊下を進む。足元では血が音を立てて跳ねており、戦いともなればそのぬめりに細心の注意を払わねばならないだろう。
 ユリシーズが手をかけた壁が扉のように開き、その向こうに見えたもので全員が息を呑む。寝台を模したような地形の上に、少年が眠っていた。ただしその体はほぼ壊れており、殆ど肉塊だといってもいいだろう。
 そして、恐らくそれはアキリーズだ。
「来たね、ね、ね」
 複数の声、死の記憶達が少年の口を動かした。途端に肉塊はざわめき、裂かれ、ゆらゆらと空中を漂い始める。
「一緒になろうぅぅううう」
 聞き心地の悪い声と共に、壁から混沌が弾丸のように射出された。それが四方八方だと逸早く気付いたハーキュリーズが魔力の防護壁を張る。
「これじゃ近付けないぞ……!」
 防護壁の中でジェイスンが苦々しく言うが、ハーキュリーズはそれに微笑を寄越した。
「これを止めたら行けるか?」
 その言葉にはパーシアスが応える。
「考えはある」
「そうか。……構えろ」
 告げるや否や、防護壁が輝きを放って広がる。射出される弾丸を焼き尽くし、壁をも焦がしていくそれは、内側を守り外側を攻撃するものらしい。
「あぁ……ああぁ」
 肉塊が怯むような動きを見せ、声に若干歪みが生じる。其処にパーシアスが結晶で出来た剣を払うと、その軌跡から数本の雷が飛んだ。剣は彼の手の甲から形作られており、召喚術の一種らしい。
「んやああぁぁああっ」
 雷に打たれた肉塊は今度こそ苦しげに声を張り上げた。同時に肉塊が落ち始め、死の記憶が其処から少し剥がれた事を教える。
「つまりだ。こっちが攻撃したいと思ったものにだけ当たるんだな」
 ハーキュリーズの攻撃が肉塊を傷付けなかったのもその為なのだろう。
「ほおー、精神世界さまさまってとこだな」
 茶化すように言った次の瞬間、シーシアスの表情に厳しいものが宿った。
「――然らば」
 先程の雷に負けない程の瞬発力で突進し、刀と呼ばれる剣で払い抜ける。肉塊は更に落ち、耳をつんざく絶叫が聞こえた。
「成る程ねえ、意志の力に比例する、と」
 当たるか否か、迷いが無ければ全力で的確に攻撃出来るようだ。
 残る肉塊が覆い被さろうとするが、シーシアスは身を翻すとそれをいなして元の位置に戻る。
「……ジェイスン少年よ」
「なっ、何だよこんな時に」
 シーシアスにまたいつもの軽口で呼ばれたジェイスンは一瞬どきりとするが、顎で示された方向を見て表情を引き締める。其処には膨大な風の魔力を凝縮し続けているユリシーズがいた。
「俺達が潰れりゃぶっ放せねえぞ、気張れよ!」
 肉塊は殆ど浮かんでいないが、先程傷付けた壁が蠢く。空間が崩れ、漆黒と真紅の中に混沌色が集まって巨大な姿を作り出し、丁度多頭の蛇のように変形する。蛇は大口を開けると肉塊を呑み込み、笑い声を上げた。
 その光景を見てジェイスンが呟く。
「そんな事言われたらやるしか……」
「何だい、隠し玉でも……ってえ!?」
 言葉の後にジェイスンの体が変形するさまを見て、シーシアスが驚愕の声を上げた。その下半身は人ならざるものとなり、金髪に混ざっていた朱色は鳥の羽根に変わる。手にした剣の刀身は白く輝きを放っていた。
 瞬く間に変形を完了して、若干浮いたところからシーシアスの疑問に答える。
「これすると明日ポンコツなんだよ」
 ユリシーズの種族を尋ねた際に微妙な言い回しをしていた事を、ハーキュリーズは一人思い出す。あれは自身も人ならざるものだったかららしい。
 蛇が頭を槌のように振り下ろしてきたのを避けつつ、パーシアスがさらりと告げた。
「明日があれば充分だろ」
「同感だ」
 応えたハーキュリーズが頭を上げる前の蛇へ黒い刃を振り下ろす。指先の変形したそれは劇毒をまとっており、斬撃と溶解での攻撃に蛇はその頭を落とされ、落ちた頭は煙を上げて腐敗臭を放った。
 猛攻に危機感を覚えたのか、蛇は一斉に首を伸ばしてくる。ジェイスンが指揮者のように剣を振るうと、四本の蛇の頭が虚空の一点に吸い込まれていく。その吸引力は蛇の頭を圧縮して潰してしまう程だった。
 パーシアスには二本の首が襲いかかる。二本は頭を花のように開き、中から無数の牙が生えた触手を何本も吐き出した。それに退くそぶりも見せず、パーシアスは結晶の剣を一薙ぎする。それだけで終わった動作を嘲笑うように触手が迫った瞬間、幾重となった雷光と斬撃が首をまとめて吹き飛ばした。
「ああ、あぁあ、どうして、どうしてぇえ」
 舞うような身のこなしで次々に蛇の首を斬り落としたシーシアスは、動揺した声に喉奥で笑う。落ちた首はいずれも凍り付いており、刃に冷気を乗せていた証だった。
「死に生がすぐ負けるんなら、この世に生き物はいねえっつんだ」
 ユリシーズに迫る首をハーキュリーズが横から割り込んで斬り飛ばした頃、静かに声がする。
「離れろ」
 合図で全員がユリシーズの背後に回る。それを確認してから、ユリシーズは凝縮した風の弾を撃ち出した。一瞬で蛇の根元へ着弾し、間を置かずに炸裂する。蛇は塵も残さずに消し飛び、風逆巻く中で空間の一箇所が大きく斬り裂かれた。裂かれた其処からは、先程蛇に呑まれた肉塊が落ちてくる。
「アキさん、解る? だから来てよ」
 ユリシーズは肉塊に告げてから、腹を撫でる。清らかな水で出来た体内を、あの時の侭で揺蕩う彼は此処にあるのだ。呼応するように肉塊が動き始め、歩くような動作を見せると同時に形作られていった。程無くして出来上がったところにユリシーズが舌を差し入れると、それはぴたりと嵌め込まれる。
「此処にいるよ。いいんだよ」
 ユリシーズの言葉に少年は両目をしばたたかせ、一つ納得したように頷いた。
 少年から強い光が放たれる。それは目を焼くものではなく空間を染め上げ、光が収まった頃には白い空間に黒い球体が数個浮かんでいるだけになっていた。そしてそれを見据える彼には、やはり片目が無い。
「散々振り回してくれたね」
 笑い混じりに言葉を零す。弱かった少年時代ではなく、いつも通りの姿に変化したのも、意識の主導権が戻りつつある証拠だろう。
 黒い球体が次々に言葉を紡ぐ。
「わたしたちは支配する」
「わたしたちは逃さない」
「わたしたちは其処にいる」
「わたしたちは増え続ける」
「わたしたちは滅ばない」
「わたしたちはおそろしい!」
 球体から棘が伸びてアキリーズへ襲いかかるが、彼は動かない。そうして棘がアキリーズの体に触れた途端、砂となって崩れていく。それに怯んで引いていく棘へ、穏やかに告げられた。
「確か、茨に何度も貫かれたストムディだね」
 黒い球体が次に放ったのは鞭だった。しかしそれも、アキリーズを打ち据える直前で砂になる。
「薬で気絶も出来なかった、鞭打ちの刑のボビルドが代表的かな」
 攻撃を平気で解説してみせるアキリーズを脅威だと認識し始めたのか、黒い球体は迷うように揺れ動いた。
「ははーん、さてはちいとばかし慣れたな?」
 死の記憶を圧倒しているアキリーズは、シーシアスの言葉に小さく笑う。
「時間はかかったし、量が膨大で助けも必要だったけれどね」
「ん、まあ重労働だろうしなあ」
 意外な単語が出た事にシーシアスは一瞬面食らい、次にからからと笑った。
 死の記憶は身を寄せ合うように集まり、小さな一つになる。アキリーズはそれに向かって歩き出した。
「君達はずっと孤独が怖かったんだ。苦しんで死んだ自分を、誰もが忘れてゆき、覚えていてくれない事が、寂しくて堪らなかったんだ」
 言葉に黒い球体が微かに震える。そして攻撃をしないところ、動揺しているらしい。
「僕は君達に、一つ感謝をしたい」
 そうして黒い球体を両手で包む。あまりに冷たい球体だった。
「君達がいなければ、きっと僕はあの子と出逢っていなかった。だから、そのお礼をしたい」
 あの瞬間、確かにアキリーズの生は色付いた。それがたとえ苦痛でも、絶望でも、無かったものが生まれた感覚は喜びだった。
 ユリシーズでさえ何もせずに見守っている。それを解り、アキリーズは振り向かなかった。
 球体へ、アキリーズは穏やかに微笑みかける。
「おいで。おやすみよ」
 言葉を聞いた黒い球体は、徐々に灰へと色を変えて崩れていく。
 彼らの意識は無理矢理に起こされた侭、繰り返されてきた。それを消すのではなく、眠らせてやる事を選んだアキリーズは、灰となって空間に消えた彼らの声を確かに聞いた。
「わたしたちは……わたしたちも……ここにいた……」



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