ある使用人のものがたり


■-2

 初めて彼女の姿を見た時も、まだ何もかもが凍っていた。
 母を殺めた、おぞましいものをただ咎めるだけに終わらせてはつまらないと、あろう事か彼女を召し抱え、他を一斉に解雇した父もまた彼女に侵食されていたのかもしれない。そしていずれも、響く事は無かった。
 母が自害した直後に居合わせた瞬間から凍り付いたものは、眠りに就くと途端に燃え盛る。ただの悪夢と解っていても、それは現実だった。
「弱きへ、罰を」
 母は頻繁に迫り来る。火掻き棒で殴り、焼き焦がし、幾度も苦痛と恐怖に苛まれた。傷が原因で高熱を出したところにまた焼かれる事もあったが、何故か死ぬまでの事は無かった。
 今も火傷は完治には程遠い。焼かれる悪夢に魘され、恐怖と痛みに縮こまり、今夜もまた苦しい夜を過ごすしかなかった。
 苦痛に意識が朦朧として、また悪夢にも襲われそうになった時だ。額に滲んだ脂汗を誰かが優しく拭う。涙に歪む視界に見えたのは、柔らかな微笑みだった。
「おめしもの を おとりかえ し よう かと」
 血と膿に塗れた衣服は、慣れる事の無い不快感を与えてくる。
「いいよ……ぼくは……」
 断った声は潰れて無様だった。恥から彼女を直視出来ず、瞼を閉じる。しかし感覚までは遮断してくれず、頭を撫でる柔らかなものに体が跳ねる程驚いてしまった。
「すこし だけ、おじかん を ください」
「じゃあ……少し、だけ……」
 彼女の頼みに応えてしまったのは、単に限界の所為だ。
 意識が不確かな状態で服を脱がされる。瞼が潰れる寸前でも、何をされるのか怯えている自分へ彼女が告げた。
「いたみ ます が、ごしんぼう を」
「何を、する、気……」
「この くすり を ぬり ます ので」
 寝台に沈んだ目の前に差し出されたのは、彼女の指にたっぷりと付けられた軟膏だ。
「どうして」
 気付けば、己にとって当然の疑問が零れていた。
「どうして、こんな、事を」
 父が命じる事はまず無い。これまで治療などされた事が無かった。其処へ思い当たると、途端に恐怖が沸き上がる。治療は彼女の自由意志なのだ。
「駄目、だよ、父上に、何をされるか……」
 自分を勝手に治療した事で、彼女は父から仕置きを受けるのだろう。それが堪らなく卑怯に思えた。彼女を無闇に傷付ける理由とするには、あまりに軽すぎる。
「だめ、だか……ら……」
 どれ程堕ちようと許せない身勝手を抱えても、迫る暗闇には勝てなかった。



 叫びを上げて悪夢から覚めれば、窓から見える空は赤かった。意識を失い、日中も眠り続けていたらしい。
 体を起こすと、温い濡れ布巾が額から落ちてきた。衣服は新しいものに替わっており、見てみると包帯まで巻いてある。傷は幾分か痛みが緩み、久々に安堵の溜め息をついた。しかしすぐに彼女のその後が気になる。無事であるといい、本来ならば思う必要も無いのだろうが、不要だと思えばそれこそ卑怯だと感じた。
 不意に、控えめに扉を叩く音が聞こえる。受け答えも出来ずに開く扉を見詰めていると、やはり彼女の姿が見えた。
「きぶん は どう です か?」
「少し、良くなった、かな……」
 答えながら密やかに確認する。彼女の体に傷は見られなかったが、髪は何故か濡れていた。気にしたところで尋ねる勇気は無い。
「おとり かえ しましょう。どうか、らく に」
 彼女に促され、包帯を取り替えられる。傷は相変わらず痛んだが、傷付けられる時のものよりは遥かにましだ。
「あの」
 治療しようとする彼女の胸中は解らないが、それでも枯れ果てた勇気を絞り出す理由にはなった。
「有り難う……」
 すると彼女の手が止まり、次には笑う。
「ふっふふ、おやさしい の です ね」
 再び手際良く処置を進める彼女から、気付けば目が離せないでいた。そうして気が緩んでいたのだろう、言葉をつい零してしまった。
「優しいだけじゃ、駄目だよ」
 彼女は黙って処置を続けている。続きを待ってくれているのかもしれなかった。
「優しくたって、力が無ければ潰されるだけだよ。ぼくは誰かを潰す事はしたくないけれど、そう出来るくらいの力が無いと……何も守れないよ」
 自分すら守れなかった弱さは、自分が一番よく知っていた。弱い侭でいる情けなさや憤りを抱えるしか出来ない事こそ、弱さでしかない。不幸中の幸いは、守りたいものが無い事だった。
 やがて処置を終えた彼女は、そっと腕を伸ばす。その侭体を抱かれて、目を白黒とさせるしかなかった。
「よろしい の です よ」
 耳元での囁きは、非常に穏やかなものだった。
「あなたさま の こころ の すべて、うけとめ ましょう」
 驚くばかりだったが、凍っていた心はどろどろと溶けていく。溶けた後、灼熱に晒される心地だった。止まらない憤りと不安、恐怖が身を焦がす。これらは確実に彼女も巻き込んでしまうだろうに、求めずにはいられなかった。
「……いいの?」
 歪んだ言葉は彼女への問いなのか、自問なのか、よく解らなかった。
「誰も、ぼくを見なかったのに、それなのに」
 所詮その程度でしかない自分は、彼女を犠牲にしてまで保つ必要のあるものなのだろうか。考えると悔しく、惨めになる。
 彼女は優しく頭を撫で、やはり微笑んでいた。
「あなたさま。ここ に います よ」
 言葉は一撃となり、迷う心を潰す。醜い残骸に塗れた侭、体験した事の無い温もりに縋るしか出来なかった。
「ごめんね、ユーズトーリュ、ごめんね……」
 これまでとこれからに泣きじゃくる。どれ程赦されなくとも、悔いる事だけは忘れたくなかった。



 彼女の看護の甲斐あって傷は治り、痕を残すだけで痛みも無くなった。初めてかもしれない。相変わらず悪夢には苛まれるが、目覚めた傍らにはいつも彼女がいてくれた。どんな時間でも平然と起きており、寝ている様子がまるで無い。今夜も不思議に思って遂に尋ねてみると、彼女の体は睡眠を必要としないのだと答えがあった。
「本当に、一度も?」
「うまれて から、ずっと です」
 聞いて気付く。自分は彼女の事をまだ何も知らない。そして彼女のこれまでに、触れてみたいと希う自分がいる。隠しきれない禍々しいものを薄く感じてはいるが、彼女は決して自分を傷付けようとはするまい。でなければ主に逆らい、身を挺して治療し続ける事も無かっただろう。そしてまずは其処からだった。
「ユーズトーリュ」
「はい」
「父上に逆らったのは……ぼくを看病してくれたのは、どうして」
 答えの想像はとても付かないが、嘘を言う姿だけは想像出来ない。彼女に愚かな理想を見ているのかもしれないが、おぞましいと形容された彼女に人の道理を当て嵌める事も難しかった。
 彼女の紫色の瞳は相変わらずこちらを見詰めている。
「あなたさま にも ユーズトーリュ を つかって ほしかった の です」
「使う……きみを?」
「はい。ユーズトーリュ は、その ため に うみ だされ つくられた の です」
 語る彼女は、おぞましい存在となった事にも疑念は無いのだろう。その事実で胸の内に靄がかかったような心地を覚える。
「もしも、きみが大丈夫なら……、少しずつでも、きみの事を教えて。きみのこれまでを、ぼくは知りたい」
 彼女は特徴的に笑い、頷く。
「ふっふふ。では、おはなし しましょう」
 胸が高鳴るのは、期待と不安の所為なのか。



 彼女の話は包み隠さないものだったのだろう。底知れぬ人の欲望を有りの侭に語り、その全てに平然としているさまは不気味だったが、同時に空虚なものを感じた。世界の欠片たる人々に使われる中で、彼女の意思を感じる事がどうしても出来なかった為だ。彼女の表面に都合良く作られたものの奥底に、彼女自身が隠されているのかは定かではなく、ともすれば彼女の意思など最初から存在しないのかもしれない。
 だが、欲望が形を成しただけの存在であっても、たった一人の存在を信じたくなる。酷い身勝手であると解っていても、彼女は日々を生きる支えになっていたからだ。
 夜半、まだ眠りには恐ろしくて就けなかった頃だ。微かに聞こえた物音で、寝ていた筈の父が寝室を出た事を知る。最初こそ些末な理由と思ったが、足音は複数だった。今日は客人を招いてもいないので、間違い無く一つは彼女のものだ。
 胸騒ぎを覚えて、密やかに自分も寝室を出る。角からそっと窺うと、やはり父と、灯りを持った彼女の姿があった。二階から一階へ、そして地下室へ向かう。地下室は物置の他に小規模の獄があり、これからに恐怖が沸き上がるが、足は引き返そうとしてくれなかった。
 恐る恐る地下へ下りた時に、最奥から激しい打撃音がする。震える手を壁にかけて覗き見ると、鎖に繋がれた彼女の裸身を父が続けざまに鞭打っているさまが見えた。肉が弾け飛び、血が撒き散らされる。
「よくも続けるものだ」
 父の顔は見えないが、声は楽しそうに上擦っていた。
「我が息子を誘いでもしているのか? あの愚か者を」
 蔑みには疑問も無いが、予想通り彼女が自分に構った行為を咎めた事に悪寒が走る。鞭を止めた父は静かに彼女を問い質した。
「何が目的だ」
 彼女は微笑みを絶やさずにいる。奥底を見透かす紫色の瞳が、暗い光を宿したように見えた。
「しんぱい です か?」
 勿論そのようには思ってもいない事を見透かしての言葉に、父はせせら笑って彼女の体を鞭でなぞる。白い体には幾つもの傷痕があるが、いつか聞いた身体改造の跡だろうか。
「図に乗るな、使用人風情めが」
 怒りに再び鞭を振るおうとした手が止まる。
「いや、化け物風情か。やはり再生しおって」
 彼女の過剰な生命力は、深手すら容易く治してしまうらしい。父は桶を掴むと、入っていた水を彼女へ乱暴にかける。彼女の髪が度々濡れていたのはこの為なのだろう。
 父の息はいつの間にか荒くなっていた。
 呼吸と同じく滾る体で、彼女を一気に突き上げると同時に声が上がり、鎖が喧しく鳴る。耐えきれずその場を逃げ出そうとした時、ふと彼女の目が明らかにこちらを見た。そして父に悟られる事無く一瞬だけ微笑む。
 微笑みは逃げ出す事を咎めず、注がれて流れ落ちるものと共に消えた。



 悪夢から目を覚ましたが、一頻り泣くしか出来ず気絶したその侭で、再び強烈な自己嫌悪に襲われた。
 彼女を犠牲にしてまで平穏を求める事に価値があるとは考えたくもなかったが、平穏が与えた安息は柔らかで心地良く、失う事は恐怖だ。葛藤は徹底的に己を苛む。
「ごめんね、ごめんね……」
 愚者にしかなれない自分は、死ぬ事も出来ない。



「ああぁっああぁぁああっ……!」
 悪夢に泣き叫ぶ自分を彼女に抱き留められるのも何回目だろうか。縋り付いてしまうのも全く愚かな行為なのだろう。
 彼女は慰めるように背を撫でながら囁く。
「いま も ある の です ね」
 言葉には弱々しくだがかぶりを振った。現実だけはある。
「ううん……、だって、母上は……」
「ユーズトーリュ が あやめ ました」
 彼女の告げた続きに本来ならば怒りを燃やすところなのだろうが、自分には土台無理なものだ。
「だから、だから、もう、母上は、いない、のに」
 自害した直後に居合わせて、血溜まりの中で最初に過ったのは安心だった。加害者の突然死に喜ぶしか出来なかった。
「くるしい の です ね、いま も とても」
 現実は未だ自分を逃がしてはくれず、此処にある。
「お願いだから、怒らないで……」
 言葉を誰に言えば良いかも解らず、理不尽だけがあった。



 起き抜けに彼女から髪を梳かれる。悪夢で寝覚めは悪いが、最近は身支度の時間が非常に穏やかなもので、安心感すらあった。そう長く続いてはくれないが、穏やかさが存在するだけで今までとは全く異なるものだ。
 だからこそ、長らく張り詰めていた気が緩んでしまう。
「前はね、色のある髪の毛だったんだ」
 彼女へ話す必要性も無かったのだが、単に聞いてもらいたかったのだろうと自身で思う。
「でも、いつの間にか無くなっちゃった」
 過剰な恐怖と苦痛が色を奪い去った事で、命まで奪われてしまう現実が間近にまで感じられた。首に刃を宛がわれたような危機感の中から出してくれた彼女へ、自分は単に依存しているのだろう。
 彼女を鏡台越しに見ていると、ふと彼女が髪の一房を手に取った。
「まよい を てらす、ひかり の いろ です ね」
 告げてから髪へ口付けるさまが見えて、途端に胸中が熱を持つ。何の熱なのかは解らなかったが、緊張感には似ていた。動揺を自分でも理解し、隠す為に何故か苦笑が浮かぶ。
「そんな事言われたの、初めてだよ」
 言葉が嬉しかったのだと結論を出すまでに、かなり時間をかけてから振り返った。
「ありがとう、ユーズトーリュ」
 振り向いた先、彼女の微笑みに少しだけ別のものが見えたのは、果たして気の所為なのだろうか。



 水面の浮子を見ながら、意識は全く別にあった。少し体調が良い時は釣りに出かけ、痛みも遠くに追いやって一人の時間に浸っていたが、全く痛みが無いのは初めてだ。
 考える事柄から、彼女への依存も自覚している。依存の結果、自分も他のように彼女を都合良く使うのだろうか。しかしそれを酷く嫌う自分もいる。彼女としては残念にしか思わないのだろうが、彼女をぞんざいに扱う理由としては身勝手が過ぎる。確かに彼女は、人の身勝手が固まって出来上がっている。身勝手を受ける為に作られたものだ。しかし自分の持つ幾許かの反抗心が、その現実から彼女を出してほしいと願っている。良心とはとても言えない、これもまた身勝手なのだと自覚して。
 浮子が動いていたが、気にならなかった。
「あなたさま」
 今や聞き慣れた呼び声に驚いて振り向くと、買い物帰りなのだろう、多くの食材を持った彼女が背後に立っていた。今までの考えを隠すように言葉を探し、釣りを思い出した。
「ごめん、かかってたのに気付かなかったよ」
 焦りから彼女から顔を背け、釣り針を手元へ戻すと次の仕掛けを施す。
「あなたさま」
 振り向かないでおこうとしたが、いつもと違う声音に思わず振り向いてしまう。微笑みこそ消えていないが、落胆のような、寂しさのような、彼女らしからぬ沈んだ声音だった。
「なぜ、おやさしい の です か」
 直接的ではない言葉が胸に刺さり、痛む。痛みがあるからこそ、彼女からの初めての問いには答えたかった。
「ぼくはただ、きみに側にいてほしくて……。理由になっていないかもしれないけれど、本当にそれだけなんだ……」
 今答えられる頼り無い全てを告げると、彼女は小さく笑う。
「ふっふふ。もとめ られる とは、はじめて です」
 彼女の瞳の中に、自分だけがいた。



 彼女の髪はいつからか濡れなくなったが、代わりに父は客人を遅くまで招く事が多くなった。酒盛りでもしているのかとも思ったが、比較的平和な行為で彼女への拷問をやめる訳も無いと容易に想像出来る。
 いつものように悪夢に苦しめられていた頃、急に頭が痛み、浮く。目を覚ますと眼前には父がおり、髪を乱暴に掴み上げていた。
 父の顔は嗜虐に染まっている。
「来い」
 逆らえずに寝間着と裸足で、父の後ろに付いて廊下を歩く。母からは傷を負わされたが、今まで父からは何もされた事が無かった。母の行為を見て何もしなかった分、父への信頼も全く無い。
 着いたのは客間の前であり、中から微かに聞こえる音や声で事態を悟ると、一気に嫌悪感と絶望が駆け巡った。
「入れ」
 命じながら乱暴に開けた扉の向こうへ突き飛ばされ、改めて現状を知る。
 裸身の彼女は、一体どれ程時間が経ったのか、全身が白濁に塗れていた。周囲には父の招いた貴族がおり、誰もが彼女を蹂躙している。目の前に転がる器具の数々にも使われた跡があった。
 不意に父から胸元を掴まれ、投げ飛ばされる。光景に心身が凍り付き、壁に背を打ち付けた後はずり落ちるしか出来なかった。
「如何ですかな、具合は」
 父の問いに貴族の一人が笑った。
「良いものをお持ちですな、足りぬものを補って余りある」
 目眩すら覚えて気を失いそうになったが、頭上から声が降ってくる。
「よく見ておけ。目を逸らすな」
 父からの命令が杭となって思考に刺さった。逆らえば自分はおろか、彼女さえも父は徹底的に潰しにかかるだろう。身動きが取れなくなり、体すらろくに動かせなかった。
「う、ううっ」
 苦悶に頭を鷲掴み、眼前の光景を見詰めるしか出来ない貧弱さが恨めしい。力無き者は潰されるしかない現実を理解はしても、理不尽への納得は何一つ出来なかった。
 ふと、一人が下卑た笑みを浮かべる。彼女を後ろから抱え込むと間近に寄り、裸身の全てを見せ付けた。
「これも嗜み、楽しみにせねばなりませんぞ」
 粘っこく告げてから、いきり立つ体で彼女を再び突いた。律動の音に悪寒がする。生々しい肉の繋がりがいっそ猟奇的だった。
 恐怖と狂乱の中で、彼女は自分を一切目に映さないでいる。一瞥もせず、瞼を閉じて、仮初めの不在をくれるかのようだった。
 唯一の救いへ縋る思いで耐えていると、父が歩み寄る。不機嫌な表情を見上げた瞬間に蹴られた事までは解ったが、それまでだった。



 悪夢は何処までも追ってくるらしい。激しい痛みの記憶からやっと抜け出して目覚めた。いつの間にか自分の寝台におり、誰が此処まで運んだかは見当が付く。思わず顔を覆って溜め息をつくと、見計らったよう扉が開いた。
「おはよう ござい ます」
 手を離し、いつもと変わらない彼女の姿を見ると、安心より昨夜の恐怖が沸き上がる。
「大丈夫、なんて、言えないよね」
 横たわった侭で絞り出すような声しか出ず、酷く情けなかった。彼女は歩み寄ると、ゆっくりと首を横に振って告げる。
「おつかい に なった まで です」
 彼女にとっては何の問題も無く、これまでもそうされてきただけの事なのだろう。だが、そうしてきた幾多の人々に倣いたくないと思ってしまう。思うしか出来ない。
「でも、あんな事……、なのにぼくは、何も出来なくて……」
 悔やむしか出来ないでいると、彼女の手が優しく頭を撫でた。
「あなたさま。いま は ただ、あす へ」
 これは彼女の願いなのだろうか。仮にそうであって、自分はどうしたいのだろう。



 父から釣りに行く事を禁じられ、実質の幽閉となったがあまり堪えなかった自分がいた。目的を思い出せば釣りを禁じられる事は重苦の筈だが、最近は高くなかった頻度が更に激減しているのを思い出すと、釣りよりも遥かに彼女の話が気になっているのだと思い当たる。
 幽閉状態となってからは、部屋に彼女がいる時間が長くなった。大抵、世話に来た彼女を呼び止めて話を聞いている。父から更なる反感を買うと解っていても、彼女を求めてしまう心が止められなかった。ともすれば彼女へ甘えているのだろう。
 彼女は世界渡航した事があり、この世界の文明が遅れた部類である事実も知っている。この世界で出来うる限りの最善を知っているからこそ、生死を彷徨っていた自分に適切な治療を施す事も出来たのだろう。
 彼女の語る他世界の事情は不思議であり、殆どが羨むものだった。しかしその中で、彼女の身体を仕上げた者の住まう世界については恐怖すら覚えた。高水準の文明を持つ其処は技術への探求心のあまり、善悪をほぼ考慮しないのだという。だからこそ身体改造に何の弊害も無かったのだろう。
 今日も興味深い話を聞く事が出来た。世界の理、運命を知ろうとする世界が幾つかあるらしい。彼らは新たに世界を作っては破壊しており、同時に生み出した住まうものの事情など考えていないのだという。
「じゃあ、みんな悪い人なの?」
「かれら の きめごと では、つみ に なり ません。どちら とも いえ ません」
 どの視点に立つかで善悪など簡単に意味を成さなくなるのは、この世界でも蔓延している貧富の差が物語っているのだろう。善悪だけで生きてはいけない現実は自分も身を以て知った。
「其処だけは、何処も一緒なんだね……」
 溜め息混じりに言った時、彼女が目を伏せた。
「すみ ません、すこし だし ます」
「うん」
 彼女は予め持ち込んでいた桶と小刀を用意すると、上着を脱ぐ。申し訳程度の格好になると小刀を取り、躊躇い無く腕を大きく切り裂いた。瀉血が治療としての意味を成さないとは近年解った事だが、彼女の場合は大きな意味があった。彼女の内で増殖し続ける『子供達』の生み出す、無尽蔵な生命力を削る為だ。さもなくば彼女という器を壊してしまうといつかの話で聞いた。
 桶に流れ落ちる血は赤く、自分と何も変わらない。
 もしも彼女の奥深く、『子供達』へ触れられたならば、彼らの語るものを聞いてみたいと思い当たる。母がそうして死に至り、自分にも命の保証は無いのだが、何故か恐怖心が生まれなかった。
「ねえ、ユーズトーリュ」
「はい」
「それを此処に置いてみて」
 小刀とナイトテーブルとを指し示すと、彼女は血の絡み付く小刀を置いた。自分のしようとする事は見抜かれていないのかもしれない。
「ユーズトーリュ」
 小刀に触れる前に何を言い残そうか、考えて一つしか思い付かなかった。
「ありがとう」
 彼女の表情を確認する事無く、小刀へ触れる。
 知ったきっかけは覚えていない。自分が魔力を行使すると、誰かが手放した物体を通して感情を読み取る力が発動した。己の感情が勝れば、感情の残滓を動力として物体を一定時間自在に動かす事も出来る。母の血を引いたと思うと落胆するものだが、今この時に初めて有り難いと思えた。
 一瞬で目の前が暗くなり、音も聞こえなくなる。浮くような感覚の中、目を凝らすと暗闇は仄かに明滅していた。そして次第に何かが聞こえ出す。段々と大きくなるそれは赤子の笑い声であり、やがて声量だけでなく数も増した。割れんばかりの大音響に、聞き取れてしまう呪詛が混じる。
『し、し、しししし、しししし』
『いっしょいっしょいっしょにいっしょ』
『ちょうだい、ちょうだ、ちょうだ、だだだだ』
 多重になった生への呪詛が体を締め上げるような苦しみを与えてくるが、それでも構わなかった。
「きみたちは……」
 言いかけたところで千切れるような音を聞く。気付けば息が上がっており、現に戻されたと知った。体が少々苦しいのは、彼女が強く抱き締めている為だ。小刀が床に落ちているが、自分か彼女が離したのだろうか。
「あなたさま」
 いつになく急いた声音が聞こえるが、表情は見えなかった。
「こどもたち に ふれ ました ね」
 接触を試みたのは彼女にも伝わったようだ。交信が切れたのも彼女によるものだろう。
「ごめん……、勝手な事をされて、気持ち悪かったよね」
 すると彼女は一呼吸置いてから、小さく溜め息をつく。
「ふしぎ な もの です」
 それ以上を語らず、彼女は暫く離れなかった。



 悪夢から目覚めて落ち着いた頃、彼女の内に宿る子供達について考える。彼らは生を妬み、恨むものだ。故にこちらを引き込んで同じものとして、新たな子供達として増殖を続けようとするのだろう。
 だが、それだけを見てはいけない気がする。非情な目的があったとはいえ、元は彼らも一人の人として生を受けたのだ。妬み恨むのは、彼らとて生きて、此処にいたかったからではないだろうか。気付いてしまえば簡単な事でしかない。
 では、どうすればいいのだろうか。
 其処まで考えてふと、普段ならば昼前には既に来ている彼女が一向に現れない事に気付く。着替えながら嫌な想像をしてしまうが、そうでない事を願うしかない。
 胸騒ぎを抑えられない侭、廊下に出る。すると小さな物音に気付いた。耳を澄ますと誰かの苦しげな呼吸の音だと解り、思わず駆け出していた。
 此処二階の一室を目指し、辿り着いた扉を乱暴に開けて見付けたのは、身を折って荒い呼吸を繰り返す彼女の姿だった。足元には瀉血用の小刀が落ちている。
「ユーズトーリュ!」
 近寄ってみると、彼女の顔には初めて見る苦悶が広がり、こちらを見るのも目のみが精一杯のようだった。
「どうしたの、何があったの」
 彼女の唇が震えた声を絞り出す。
「こどもたち が、うつわ を あふれ でます」
 言葉に驚き、小刀を拾おうとしたが彼女は首を横に振った。
「あなたさま、ユーズトーリュ の わがまま を、おゆるし ください」
 彼女の腕が胸に伸びてくる。そっと添えられた瞬間、強く突き飛ばされた。
「どうか いきて」
 後ろへ転んだ体で見たものは、彼女から噴き出す肉の塊だった。瞬く間に彼女を、室内を覆う純白の肉から逃れると、邸中へ退避を叫ぶしか出来なかった。



 肉塊が肥大を続けている。声に気付いた父と共に逃げ出し、周囲の住民も逃げ惑っている。誰かが炎を撃ち込む様子も見えたが、ものともせず白の質量は増え続けていた。
 逃げながら思う。自分のしたかった事は、これで終わらせてしまえばいいのだろうか。本当にしたかった事は、こうではない。
 次第に足が止まり、背後を振り返る。
「何をしている!」
 父が声をかけるが、心はもう震え上がらなかった。
「父上、わたくしは」
 押し付けられた偽りを捨てるように言い放つ。
「ぼくは、戻ります」
「何!? あのような化け物、捨て置け!」
 吐き捨てた父に向き直ると、怯えるような表情を見せた。初めて怒りをぶつけられた所為だろう。
「誰が何と言おうと、ぼくにとってあのひとは……!」
 きびすを返して走り出した背中に、悔しさの混じった怒声が届く。
「おのれ! 愚か者めが!」
 振り返らずに走った。真に愚かなのは、今まで彼女を使い倒した人々なのだ。その人々が生み出したものが、妬み恨むしか出来ない命達であり、彼女の見せた悲しみなのだろう。思う程に怒りと、それ以上の淋しさが込み上げてくる。自分とて愚かだが、彼女と子供達を捨て置く事だけはどうしても出来なかった。
 蠢動していた白の塊から不意に巨大な腕が伸びる。恐らく子供達のものだろう。蛇のようにこちらへ狙いを定めると、しならせて地面へ平手を叩き付けた。一撃目を避け、二撃目を避けた時に振動で空足を踏む。姿勢を崩したところへ二本の腕が襲いかかるさまが見えた。
 やはり力無き自分では駄目なのか、彼女達を守れないのか。無念が広がる中で見たのは、横から別の白い腕が襲いかかる腕を掴み、その侭握り潰す光景だった。同士討ちに見えたが、腕に傷痕を見付けて正体を知る。間違い無く彼女がまだ存在する事の表れだった。
「ユーズトーリュ!」
 呼びかけると、彼女の腕が一瞬指差した。その先にあるのは肥大化した白でしかないが、来てほしいのだろうか。彼女の腕は再び他の腕の攻撃を阻止するように動き、それ以上は語れない様子だった。
 彼女の助けを借りながら再び全力で白に向かう。次々に千切られる腕からは白い液体が撒き散らされるが、それを浴びても濡れた感触が無かった。彼女とて子供達を傷付けるのは本意ではない事を思うと、足は脅威にも負けず直向きに走り続けてくれた。
 漸く目の前に迫った肉塊をよく見ると、一部がおぼろげに揺らいでいるのを見付ける。近付くと揺らぎはざわめき、波打つと招くように体を包んだ。
 気付くと暗く温かな場所に浮かんでいた。感覚には覚えがあるが、あの時とは違って眼前には巨大な白の肉があった。
 大きく脈打つ白から小さな声が聞こえる。嘲るような笑い声だった。
『いやだよ、いや、いやだ、よ』
『ずるいずるいずるるるるるるい』
『ちょうだい!』
 声が一斉に叫ぶと共に、肉塊から幾多の腕を伸ばされる。腕は全身に絡み付き、あちこちが千切れてしまいそうな激痛を寄越したが、それでも口は開けた。
「子供達、聞こえるかい」
 首を締め上げられているので、実際に声が出ているかは疑わしかった。
「ぼくは、きみたちの事を、知ったよ」
 遠のきそうな意識を手繰り寄せて続ける。せめて伝えておきたかった。
「きみたちの事を、ぼくは、忘れないから。ずっと、ぼくが無くなったとしても、忘れないよ」
 子供達は、ただ此処に存在していたかっただけだ。誰からも望まれずに砕けた命を、僅かでも想ってほしかったのだ。でなければ妬み恨む事も無かっただろう。
 唐突に苦しみから解放されたと思うと、腕は離れて花弁のように並んで揺れていた。
『わたしたちは、ずっと』
 声と共に肉塊が広がり、中身を見せる。腕を伸ばし、ゆっくりと落ちてきた体を抱き留めた。
「ぼくにとって、きみだけがぼくの……」
 彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。



 温かな感覚に目を覚ますと、冷たくない雨が降っていた。後で聞くと、肉塊は突然弾けて無くなり、雨となって降り注いだのだという。
 地面に横たわっていたが、起き上がるには体が疲労を訴えている。彼女の腕の中でもう少し休んでいたいと悠長に考える自分は、もう咎められる事も怖くないらしい。
「むちゃ を なさる」
 呆れた声は、今までよりも感情の篭もった声音だった。
「どう なって も しり ません よ?」
「えへへ、ぼくも知らないや」
 顔を上げると、困ったようで楽しそうな彼女の笑顔がある。これも初めて見たものだ。
「ふっふふ、それ で こそ あなたさま です」
 空を見ると、雨が太陽に反射して輝いている。雨音は喜ぶ声にも聞こえた。
 彼女の瞳の中にいる自分を見ていると、優しく告げられる。
「ゆき ましょう、せかい よ……」
 狭すぎるものを、二人で歩き始めた瞬間だった。





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