ある使用人のものがたり
■-3
破壊の跡こそ邸に残っているが、父からの仕打ちが一切無くなってからは穏やかな時を過ごす。だからこそ、成人を迎えた日に父から言い渡された言葉も気にならなかった。
「去れ」
男爵の位を一つだけ譲られ、付随する小さな領地へと追いやられた形だが、一向に構わなかった。化け物と蔑まれた彼女と共に邸を出る。
辺境の地へ続く道を早朝から馬車に揺られ、到着したのは幾日か経った後、昼の太陽が若干傾いた頃だった。町外れにある小さな邸は長い間使われていなかったようで、窓こそ無事だが生い茂る草木と汚れで不気味にしか見えない。
「よーし」
腕まくりをして気合いを入れると、背後の彼女が急いて告げた。
「あなたさま、なさらず とも」
振り返ると、やはり驚いた顔がある。最近の彼女は表情豊かで、彼女本来の意識が色濃く出ているのだろうと本人から聞いた。
「ううん、僕も掃除するよ。楽しそうだし」
「ふっふふ、それ では はじめ ましょう か」
彼女も楽しそうに笑った。
幸い、一通りの掃除用具は邸に残されていたので掃除を始めるには困らない。自分は窓を拭く事にした。進める程に、窓一つ拭き上げるにも相応の技術と労力が必要だと知る。初めての窓拭きは全く下手なものだが、少し要領を得られたと思える時もあり、透明度を取り戻した窓を見ると喜びと楽しさを感じる事が出来た。この一連が殆ど経験の無かった学びという行為なのだろう。
やっとの思いで二階の窓拭きが終わり、一階の窓の外側を拭いていると、不意に声をかけられて身が跳ねる程驚いてしまった。
「なにしてるの?」
振り向くと小さな子供がいた。手も服も泥に塗れており、遊んでいたのだろう。
「掃除してるんだ」
「なんで?」
「今日から此処に住むんだ。宜しくね」
「ふーん」
子供は納得したような、それでいて意味を理解していないような様子だったが、少し考えてから口を開く。
「みんなでてつだってあげよっか」
「えっ」
子供の向こうには友人らしき他の子供達の姿が見える。こちらを窺っているが、警戒はしていないようだ。
「みんなでしたら、はやくおわるよ」
悪意の欠片も無い提案に迷う。子供の親から反感を買わないだろうか。此処に来てまだ僅かだというのに、滞在しづらい事態にでも発展したならば、いよいよ自分達は困ってしまうだろう。真偽はともかく、様々な悪評ならば此処にも流れ着いている筈だ。
「よろしい の では?」
惑う自分へ、寝具を洗っていた彼女が声をかける。
「いいのかな」
「どうか あなたさま の おもう まま に」
彼女の微笑みに訳も無く安心してしまうが、自分が正直に生きる、第一歩なのだと悟った。子供へ向き直り、屈んでから提案へ答えた。
「じゃあ、みんなにもお願いしていいかな」
「うん!」
声をかけられた子供達が半ば押し寄せてきたが、緊張こそあれど恐怖は無かった。
小さな助けを借りて掃除を進める。途中、無遠慮な質問も多々あったが、答える事にあまり苦しみを感じなかったのは無邪気さ故なのかもしれない。
そろそろ掃除に遊びも混じってきた頃、呼び声がする。子供達が反応して駆け出したところ、どうやら親が探しに来たようだ。集まってきた大人達はこちらを訝しげにねめつけており、威圧感に思わず言葉が出た。
「ごっ、ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げ、正直な言葉を伝えるしかなかった。
「掃除を手伝ってくれるって言ってくれたのに、つい甘えてしまって。不安にさせてごめんなさい」
大人達の表情は深く下げた侭の頭の所為で見えないが、一人の声が降ってきた。
「そんなに頭を下げなさるな」
若干呆れさえ感じられる声音に恐る恐る顔を上げると、最前列の腕組みをした男が考えるように軽く唸ってから口を開く。
「閣下。貴方は我々の思うよりも、我々の事を考えてくださるようだ」
放置され、信用など失っている上に、奇怪なものまで付いてきた事で一層忌避の念を抱かれていただろう。だからこそ、彼らは悪意の有無を見抜く目を持っているのかもしれない。最初の一歩が踏み出せた証を言葉に感じてつい笑みが零れるが、隠す必要も無かった。
「有り難う。これから精一杯頑張るから、どうか見ていて」
告げると、男は再度軽く唸る。
「ふむ。見ているだけも何ですから、掃除でもしましょうか」
「えっ!?」
今度こそ提案へ大いに驚いてしまうが、大人達の行動は早い。手早く役割分担を決めてしまうと、用具を取りに戻る者と取りかかる者とに分かれて作業を始める。
慌てて自分も窓拭きを再開する様子を見て、彼女が笑っていた。
掃除が終わった頃、太陽は赤みを帯び始めていた。家路へ就く領民に礼を告げると共に、一人へ一つ頼み事をしたところ快諾があり、すぐさま彼女と二人で準備を済ませる。
買い出しから戻った彼女はすぐに夕餉を作ってくれた。空腹から一気に平らげてしまったが、料理の美味さを改めて感じたかもしれない。
雑事を終え、洗い立てのシーツへ沈む。心地良さと疲労で途端に眠気が強くなった。
「つかれ ました か」
「うん、かなり……」
傍らに控えた彼女をうつ伏せの侭見遣るが、瞼は既に潰れかけている。明日からは領地の現状確認、そして激務が待っているだろう。
「これから、頑張るから……」
「はい」
何とか言葉を絞り出すと、彼女は優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
そうして眠りに落ちると、見えたのは母の姿だった。記憶だけの筈が、恐怖と激痛は常に真新しいものとなって襲いかかる。何も思考を許さず、ただ怯えるしか出来ない。
悲鳴と共に目覚めると、不意に頬へ温かさを感じる。混濁した意識がやや明瞭になった頃、やはり彼女の手が涙を拭っていたのだと知った。
「ごめん……」
体を起こして窓を見るとまだ深夜らしく、青白い月が煌々と光っていた。彼女は腕を伸ばし、慰めるように抱く。
幾度と無く彼女の温もりに救われ、その度に増していた思いがあった。つい前までは名付けられなかった思いを、口にしても良いのだろうか。先程とは違う恐怖と罪悪感に襲われるが、思いは最早堰き止めておく力さえ超えてしまう。
腕の中で、恐怖とは違う意味を持つ涙が滲んだ。
「ユーズトーリュ……」
彼女は果たして、これから告げる事を察しているのだろうか。どちらにせよ、もう止められない。
「僕は、君に、愛していると、伝えては、いけないのかな」
迷いに言葉が途切れかけるが、これが精一杯だった。
主が使用人へ一心に愛情を注ぐなど前代未聞だろう。周囲からは勿論、彼女本人さえも許してくれないのかもしれない。だが、自分に嘘をつく事も出来なかった。
「あなたさま」
顔を上げると酷く悲しげな彼女が見えたが、彼女は目を逸らさずにいた。
「おんな は みな、たまご を もって います。です が、この からだ には、もう たまご は あり ません。すべて が こどもたち と なり ました」
言葉で思い出す。彼女は幾度も子を成す条件を満たしていたが、妊娠した事実は一度も聞いた事が無い。条件を満たす度に、宿る子供達が食らい尽くしたのだ。だが、彼女は子供達を恨むまい。自分とて恨めなかった。
「ユーズトーリュ は、あなたさま を うけとり、かたち に する こと が でき ません……」
世継ぎが残せない事は、この世界では無価値だった。故に、彼女と育みたいものの全ては、どう足掻いても一蹴されてしまうだろう。
そんな事実は、自分の心を何も変えなかった。
「それでも、僕は君を求めたい」
彼女の背に腕を回す。守られてきたが、今度はこの温もりを守りたいと強く願う。
「あなたさま……」
歪んだ声も愛しく、酷く我儘になっている自分を認めながら、彼女へと願った。
「ユーズトーリュ。お願い、僕だけを呼んで」
彼女は驚き、息を呑んだ。これまで誰の名も呼ばなかったのは、執着する事を恐れていたのかもしれない。そしてただの執着になる事へ、怯えていたのかもしれない。
一つ零れた涙が頬に落ちてきた時、震える唇がやっと紡いだ。
「アローネさま」
たった一言の後に溢れ出した涙は、彼女の誰にも見せられなかった弱さの形だ。彼女の抱える全てを求めてしまいたい心の侭に、そっと口付ける。
触れるだけを終えて、力無く寝台へ倒れ込んだ。此処から先へ踏み込んでしまいたい衝動とは裏腹に、現実が強い憂鬱を連れてくる。不明瞭な感情を都合良く利用して、邪悪の所行を繰り返す愚行ではないのか。身勝手に弄ばれる彼女の姿がちらついた。
彼女の手が頬に触れると、やはり温かい。
「アローネさま……」
覚えたての言葉のように、確かめるように呼ぶ。彼女もまた、怯えているのかもしれない。
「ユーズトーリュ、僕は……」
互いに怯えながら、最後に残ったものは耐え難い淋しさだった。
「許されたく、ないよ」
許されざるものとして裁きの鉄槌に潰されたとしても、本望だった。中から溢れたもの、汚らしい内容物こそが自分の本性だ。
「ゆるし ません」
そして彼女は、その汚れを抱いてしまう。
「もとめ て しまい たい の です から……」
それこそを抱いてしまいたいと言う。
いつかの時から、ただ疼きを静める為だけの行為すら、恐怖と嫌悪感で出来なくなった。不能になったのだろうと思ったのだが、いつの間にか反応している体を見て驚くしかない。彼女の体液の作用で感覚はかなり鋭敏になっているが、深く口付けただけで強く作用してしまうとまでは考えが及ばなかった。
抑えの利かない衝動に苦しさすら覚え始めた頃、彼女がまた呼んだ。怯えながら、彼女も求めるしか出来ないでいる。出来る事は応えるしかなく、体を寄せた。
律動の中で、声を作り替えられた喉元の傷痕へ唇で触れ、中身を抜かれた胸元を撫でる。奥深くも作り替えられ、彼女たる体は果たしてどれ程残ったのだろうか。しかし、今此処に居てくれるのは間違い無く彼女だった。
やがて限界を迎えたのだが、体は全く収まらずにいる。いよいよ暴虐達と同類かと自身に失望した矢先、彼女の声が聞こえた。
「この からだ も こころ も、いやしく あり ます……」
彼女は汗も無く紅潮も無いが、吐息は熱を覚えて乱れている。濡れた紫色の瞳は、今はただ自分しか映していない。
「どう、して」
自分の荒い呼吸がいやに耳に付く。
「もとめる こと を とめられ ない の です……」
彼女も同じような感覚に襲われ、疼きへの苦悶があるのだろう。苦悶を少しでも癒せるのならば、卑しくとも応えていたかった。
ユーズトーリュは初めて夢を見た。眠りの中ではなく直向きな心に見た夢は、非常に恐ろしく、途方も無く優しいものだ。
子供達はあれから静かな侭だ。妬み恨む事をやめて、腕の中で眠るように安らかでいる。きっと同じ夢を見ているのだろう。
今だけでも温もりの中にいたい、願う先は儚いものだが、決して弱くない。
「アローネさま……あいして います……」
過去をも救ってくれたただひとりの光へ包まれながら、二人で深淵へ堕ちていった。
いつの間に意識を手放してしまったのか、おぼろげな記憶を漁るが、答えは見付からない。しかし代わりに、初めて悪夢を見なかった事に気付いた。
「もう すこし ねむり ます か?」
傍らの彼女は白い肌が朝の日差しに溶けてしまいそうで、一抹の不安さえ覚える。
「ううん、もう起きるよ」
身を起こすと、改めて自身の惨めな体が目に付いた。無数の火傷の痕は、これからも自分を解放しないと語るかのように残っている。だが、彼女を守ろうと動けるのもこの体だけだ。自分都合だけには使っていられない。
「今日は沢山やりたい事があるし、頑張らないとね」
「ふっふふ、そう です ね」
現状把握の為に残された資料の収集や視察をせねばならず、彼女のほうも足りない生活用品を買い出しに行かねばならない。二人して多忙なのだが、全てを自主行動として言えるのは昨日の出来事の為だろう。
手早く身支度を終えて、彼女が用意してくれた軽食程度の朝餉を食べると、早速邸に残された資料を探しに書斎へ向かった。本棚は書斎とは名ばかりの隙間が目立ち、現状を知る為の資料も雑に保管されており、全てがどれ程放置されていたのか見当も付かない程に傷みが激しい。現状把握には殆ど役に立たないものばかりで結局視察頼りとなったが、実際に見たほうが早いのだろう。
彼女は既に買い出しへ出かけているので、戸締まりに注意して邸を出る。ふと振り返ると、初めて見た時とは全く印象の違う、小綺麗でこぢんまりとした外観が見えた。まだ不慣れだが、既にこの邸を好いている自分がいた。
今日も晴れており、暫く歩くと薄く汗が滲む程度には暖かい。間にある林を抜けて街へと辿り着くと、天候とは対照的に沈んだ雰囲気が気になった。原因を探ろうと辺りを見ると、文明が発達していないこの世界基準でもあまり衛生的ではないさまが見て取れる。
「レイル卿?」
こちらに気付いて声をかけたのは、昨日腕組みをしていた男だった。今日は大きな麻袋を担いでいる。
「昨日は有り難う。今日は視察に来たんだ、資料を見ても現状が解らなくて」
「丁度良うございました、わたくしが大体の事は統括しております」
聞けば、やはり領主の管理は全く行き届いていないらしい。自身の生活もある男一人の力では管理に限界があり、荒れ果ててしまったのだという。
「あと、もしかしてだけど……病気の人が多いんじゃないかな」
「その通りです、しかし何故お解りに」
「前に、不衛生だと病気が流行りやすいって聞いた事があるんだ。病気のもとが発生しやすいんだって」
彼女から聞いた話だとは言わずにおいたが、その程度がすぐには解らない文明しか此処には無い。
「ふむ……、汚さが原因とあらば、わたくし共は何としましょうか」
「まずは、色々な廃棄物の処分場を設けて、道端には捨てないようにしてほしいんだ。あとは面倒でも、こまめに水で手を洗って」
この世界からすれば随分風変わりな事を言っている自覚はあるが、実際には最低限でもある。
「効果はゆっくりで不安になるかもしれないけれど、放っておけばもっと悪くなるから、どうか耐えてほしいんだ」
男は考えるように唸り、一つ頷く。
「承知致しました。広く伝えるようにも致しましょう」
「有り難う。これについては後で布告も出すよ。絶対に乗り越えられるように、僕も力を尽くすから」
決意を込めて告げると、男は初めて笑顔を見せた。
視察を終えるとすぐに邸へ戻り、息つく暇も無く執務に取りかかる。先程の話を書面として残し、布告する為の書類を書き上げると、続けて処理場の工事の発注をまとめる。財は案の定少ないので、常に最善を尽くさねば行き詰まってしまうだろう。
忙しさに目の回る思いで別の事柄の書類に目を通していると、玄関先の音に気付く。急ぎ一階に下りて扉越しに来訪者へ呼びかけた。
「レイル卿ご注文のお品物をお届けに参りました」
呼称は正しいものだが、家との関係に嫌気が差していたのもあり、名前で呼んでほしい旨を布告に付け加えようと考えながら扉を開ける。
「レイル卿!?」
まさか領主自らが出迎えるとは思わず、仕立屋の主人は頓狂な声を上げた。
「驚かせてごめん、ユーズトーリュがまだ帰っていなかったから」
「左様でございましたか……」
悪い事をした気分になり申し訳無さが募るが、気を取り直して本題に入る。
「あっ、それが頼んでたもの?」
「はい、幾つかご覧になられますか?」
手に持っているのは二人の為に作られた服だ。持ち込んだものしか着るものが無く、特に彼女には悪趣味な服しか与えられていなかったので、せめて一般的な使用人の服を着てほしいと考えていた。
「ごめん、今はちょっと忙しいから、後の楽しみに取っておくよ」
ひとまず置き場所を指定し、服を無事に受け取ると仕立屋を見送る。
「有り難う! 大事にするよ!」
手を振る自分はどう映ったのか、何にせよ悪いものではないと見送られる表情が語っていた。
再び執務に戻って少し経った頃、扉が閉まる音の後に彼女の声が聞き取れた。
「ただいま もどり ました」
書類を散らしそうになりながら階下へと走り、大荷物を持った彼女を出迎える。待ち遠しさの何たるかを知った気分だった。
「おかえり、そっちの持つよ」
「おねがい します」
本来ならば彼女も遠慮するべきなのだろうが、少しでも対等でいたい自分の我儘を聞く形で頼ってくれた。荷物整理が落ち着いてから彼女に服を手渡すと、彼女は自分にも着替えてほしいと告げる。
「見せ合いっこ?」
「はい」
まるで悪戯っ子のような彼女を見て同じように嬉しくなり、心躍らせて手近な部屋へと入った。
自分のものは華美にならないようにとの注文を付けたが、上手く叶えてくれたように見える。ベストの留め具には光で模様の変わる石が使用されており、ワンポイントになっているようだ。最後に無地のジャボを首に着けて、着替え終わる。落ち着いた色合いの格好は前のものよりずっと好むところだった。
彼女は着替え終わっただろうか。廊下に出てみると、丁度隣の扉が開くさまが見えた。出てくる彼女を見て、扉が半開きの侭で止まってしまう。
ごく一般的なワンピースは薄い緑色で、自分と同じく落ち着いた色合いだ。襟や袖、腰のエプロンのみ白い。首元には前に着けていた紫色のブローチがあったが、寧ろ調和が取れていた。
見詰めた侭で固まっている自分をどう見たのか、彼女は小首を傾げる仕草をして、また感情へ拍車をかけた。
「あ……えっと、怒らないでね?」
顔が熱くなる。もしや自分は、照れているのだろうか。
「凄く、可愛い……」
消え入りそうな声に小さく笑った彼女は、俯いていた自分を優しく抱き留める。宥めるように背を撫でる彼女の手に勝てず、何故か悔しくなってしがみ付くように抱き付いてしまった。しかしいつの間にか煩くなった胸の鼓動は彼女に伝わってしまう。
「ふっふふ、とても りりしい です よ」
どうやら彼女がずっと上手のようだ。
根気強く衛生面に気を配り続けた結果、病に罹る領民は激減した。健康な領民が増えた事で、生産業への本格的な注力が可能になる。辺境の土地故に交易にはまず頼れないので、自給自足を逸早く強化した。これまで折れた鍬などの道具をろくに修理出来ない侭で使っていたが、此処を改善したところ作業効率が目に見えて上がる。そうしていつの間にか、国全体を見ても良好な土地となっていた。
変貌を遂げた環境は穏やかなもので、だからこそ話題に上る事がある。
「アローネ卿も、良い人を娶ると宜しいのに」
毎回悩ましいが、決まり文句のように同じ言葉を返していた。
「心に決めた人ならいるけれど……」
「おや、一体どなたで?」
「言えない、これで解ってくれると助かるよ」
意味を悟り、間違い無く異常なものだと領民も理解していたが、咎める事は無かった。領地の平穏と引き替えに多大なる異常性を隠す、一種の取引なのだろう。そして言葉では幾らでも隠せる事を隠さない実直さを、また評価していた。
夕方、玄関から扉を叩く音が聞こえたが、待ち人との違いが解った。呼びかけるとやはり違う声がする。
「アローネ卿をお連れしました」
「おまち ください」
悪意が無い事を聞き取ってから扉を開けると、待ち人が力無く背負われている姿が見えた。顔は赤く、呼吸も荒い。そして漂ってくる独特のにおいがある。
「よって います ね?」
「良い酒が出来たので皆が試飲をお頼みしたら、つい過ぎてしまいまして。申し訳無い事でございます」
酒蔵への視察は予定に無かったので突発的なものだろう。試飲は実際に飲み込むものではないが、回数と不慣れとが災いしたようだ。
「いいんだよ……美味しかった、から……」
試飲の際、懸命に味の傾向や料理との相性を分析する姿を見た事もあり、今の言葉も正直な感想だと確信出来る。礼を告げて気遣いながら下ろすと、倒れかかる体を彼女が受け止めた。
「有り難うございました。それでは、これにて失礼致します」
「ありがとう ござい ます」
そっと去るのは、邪魔をするまいと考えての事だろうか。
ふらつく足を彼女に支えられながら二階の寝室へ向かう。やっとの思いで寝台へ辿り着くとすぐさま倒れ込んだ。
「みず は のめ ます か?」
「うん……欲しい……」
退室する彼女を見遣る事も出来ず、揺り動かされて戻ったのを知る。何とか体を起こしてグラスの水を受け取るが、飲みながら落としてしまいそうになるところ相当な酩酊状態らしい。飲み終えると少しだけ落ち着いた感覚が戻る。
「きょう は もう おやすみ ください」
「そう、するよ……」
一言の返事の後に毛布をかけると、既に意識が無かった。夕餉の為に起こすのは却って負担だろう。
側に控えて思いを巡らせる。領民の確かな信頼を得ているのは、変えさせた呼称一つ取っても解るものだ。下の位の呼称など通常では畏れ多くて呼べたものではない。そして二人の異常な関係を知って尚も信頼関係が揺らがず、強固なのを物語っている。領地全体が異常なのだと言えばそれまでだが、異常を受け入れるにも相応の負担があるだろう。関係を大々的に晒す事は出来ず、密やかに育んでいくしかあるまいが、それでも幸福だった。
穏やかに月が輝き、夜が訪れて暫くした頃だろうか。
「う……ううっ」
眠りに苦悶の表情を見付けてすぐに肩を揺さぶる。まだ解放してくれない悪夢から抜け出し、飛び起きた表情は疲労に染まっていた。
「アローネさま」
「うう……まただ……」
滲んでいた涙を拭うと、深い溜め息が零れる。
「ごめん……。いつまでもこんなのじゃ、いけないね……」
己へ失望した言葉に、彼女は首を横に振った。
「たたかい つづけて いる の です」
「戦い……、そうだけど、負けてばかりで……」
彼女の言葉通り、戦う事で苦しみ続け、目的があるからこそ戦う道を選んだ。弱さだけでは到底辿り着けない決意だが、勝てない以上力は全く足りていない。
無力な両手を見詰めながら、彼女へ告げた。
「僕は君を守りたい。だから、こんなものに負けていられないんだ」
拳を作り、決意を改めて固める。力無き自分の願いは酷く頼り無いが、貫き通さねば全てを失ってしまうだろう。たとえどれ程無様でも、目的の為ならば構わなかった。
「アローネさま……」
呼びかけに彼女を見て驚いた。茫然としていると、堪らない様子で彼女は腕を伸ばす。温かな腕の中で、やがて嗚咽が聞こえ始めた。
「はじめて でした」
歪みきった声は弱々しいが、確かな生きる力があった。
「すべて の ことば は、とおい もの でした。そして、のぞまぬ もの でした」
都合良く使われてきた彼女は、彼女への言葉を受け取った事が無いのだろう。まして彼女を想う言葉など、彼女自身ですらあり得ないと考えていた。温かな言葉に触れる事は恐ろしく、弱くしながら、喜びを教える。正しさが無くとも、紛れもない幸福を与えた。
「アローネさま……。ただ ひとつ を、くださった の です……」
今も求めてはいけないのかもしれない。だが、求める心を止めようとするものまで丁寧に解いてくれたただ一人は、彼女が見付けた光だった。目映い光から焼かれて尽きたとしても、手を伸ばした事に何も後悔は無いだろう。
「ねえ、ユーズトーリュ」
降ってくる涙さえも守りたいと思える。もし逃げ出してしまえるならば、躊躇い無くこの世界を二人で出ていただろう。此処よりも便利で安全な世界もあったかもしれない。しかしそうしなかったのは、彼女を利用し続けた人々への憎しみ、憎しみを持ってしまう弱い心があるからだ。
「絶対に此処で幸せになってやろう。君を利用した全ての人が悔いるくらいに」
「はい、かならず……」
憎しみは復讐心を呼ぶが、怒りさえ彼女にとっては代え難いものだった。
釣り糸を垂らして、何を考えるでもなく浮子を見遣る。以前と違うのは、傍らに彼女がいる事だ。長々とした時間に付き合わせるのは悪いと思うものの、穏やかな時を彼女と過ごしたいとも思い、誘惑に容易く負けてしまった。
しかし気になって隣に座る彼女を見ると、浮子を見詰めて何処か楽しげな表情でいる。もしかすると同じような気持ちなのかもしれない。ふと、彼女の横顔をあまり見た事が無いと気付き、胸が高鳴るような心地を覚えた。
「アローネさま」
急に呼ばれ、もう少しで体が跳ねそうな程驚いてしまった。彼女は浮子を見た侭で続ける。
「みて おらず とも、そこ に いる と わかる のは、しあわせ です」
思い返せば、彼女は常に自分を見ていてくれた。ともすれば、確かめる為に見ていたのかもしれない。片時も目を離せない状況で、常に緊張していたのだろうか。
「うん。とても……」
浮子に視線を戻す。魚は全く釣れないが、気紛れ程度にしか浮子を動かさない為だ。これで釣り好きとは言えたものではないのかもしれないが、穏やかな時を得る手段としては丁度良かった。
何度目かの凪の時に、ふと思い出して彼女へ尋ねてみる。
「そういえば最近、子供達は元気?」
「はい。まいにち たのしい よう です」
今は瀉血の必要も無く、基本的には彼女の内で安らかでいるらしい。
「もう一度、会う事って出来るのかな。眠っていたら無理に起こさなくていいからね」
「すこし おまち ください」
彼女が目を伏せたのも僅かな間で、次には片手を差し出す。釣り竿を置いて掌を見ると、やがて小さく波紋が生まれ、小さな手が姿を現した。白い腕は蛇のように長くしなやかだ。
「久し振り、になるのかな」
声をかけると、小さな手で頬を撫でてくる。伝わる温かさは命たる証なのだろう。
「ふふ、元気そうで良かったよ」
手を重ねてみると、あまりのか弱さが彼らの当時を思わせる。ほんの数瞬で切り落とされた彼らの歩む筈だった道は、今は彼女に、そして自分に託されているのだ。
だが己の弱さ故に、多くの不安が付きまとう。確証の無いものを信じる強さは備わっていなかった。
「僕はもしかしたら、君達と彼女を充分に幸せには出来ないのかもしれない」
正直に告げて、小さすぎる手を恭しく取る。
「それでも願う事を、どうか……」
懇願を込めて掌に口付けると手は離れ、小さく手を振りながら彼女の掌へ吸い込まれて消えた。瞬間、彼女から勢い良く抱き締められる。
「わっ、ユーズトーリュ?」
彼女らしからぬ行動に驚くが、不安にはならなかった。
「こどもたち は わらって います……。はじめて きく こえ です……」
囁きには安堵がある。彼女も子供達も、日々に不安はあるのだろう。それでも自分と共に歩む事を選んでくれた。彼女達の覚悟を受け取って、歩む為の強さとせねばならないのだ。
「そっか……」
ひと時の休息の中で、想いは募る。
酒場の活気も前とは大違いだった。酒の力で口が緩むこの場には情報収集の為に足を運んでいるのだが、事務的な目的だけでもない。新たな情報は刺激にもなり、誰かとの交流も好むところだ。
決まって一番の安酒を頼むが、品質を見る為だ。最低限の品における質の向上や安定は、生活水準を知る手がかりとなっていた。加えて高額なものの数も把握し、贅沢品を購入出来る人口が増えているかを確かめる。
「アローネ卿!」
豪快な声に呼ばれて振り向くと、体格の良い男が手を振っていた。
「やあ、どうしたの?」
「おいっ、やめろって……うああ」
歩み寄る途中で別の男が焦り、怯えた目でこちらを見る。彼に何かしたかと尋ねようとしたが、間に合わなかった。
「こいつは絵描きでしてね」
焦っていた男、画家を半ば締め上げて指差す。締められた画家は限界を訴えて腕を叩いたが、加害者は全く気にしない様子だったので取り敢えず話を進める事にした。
「絵描き? どんな絵を描いてるの?」
「それがなんと」
締めた所為ではなく画家が青褪めたが、言葉はやはり止められなかった。
「お二方を題材にしているんですよ」
「二人……って、まさか、僕と……」
「もっ申し訳無い事でございますっ」
締め上げから抜け出した画家の必死な言葉からも、彼女の存在が窺える。
「その、表には出しておりません、ので……、いや、そういう事でも、ありませんか……」
焦りのあまり言葉に迷う画家へ、とどめになるのではと思ったが正直に伝える事にした。
「それ、見せてもらいたいな……」
遠慮がちな言葉に画家は最早観念するしかなかったのだろう。酒もそこそこに切り上げ、画廊へと案内を頼む。
やがて見えた小さな画廊へと入ると、薬品のような絵具独特のにおいがした。壁には様々な絵が飾られており、自然や人々の生活が描かれている。
「稚拙なものばかりですが……」
まだ怯えの抜けない画家の言葉に驚きながら、思う事をその侭伝えてみる。
「どれも綺麗だと思うなあ。それに、何かを作る事はやっぱり尊いよ」
言葉が意外すぎたのか、茫然としている画家へそっと尋ねてみた。
「でもどうして、僕と……彼女を?」
すると画家は居住まいを正す。彼なりの誠意なのだろう。
「最初は、青色の絵の具で何を描くか、探していたのです」
聞けば、絵画の世界で青色とは非常に作成が困難であり、貴重であるという。
「青を使うに相応しいものを探せば探す程、お二方しかあり得ないと。気付けば筆を取っておりました」
「そんな貴重なものを……」
「だからこそ、です」
確かな自信で告げられ、思わず気圧されそうになる。価値を見出された事へ重い責任感を覚えると共に限りない感謝の念を抱き、自分のしてきた事の成果を知った。
「有り難う。その絵を見てもいいかな」
「はい。何枚かございます」
画家は部屋の隅にあった布を取り去る。布の下からは大小様々な絵が現れた。手に取ると思ったよりも重量がある。描かれている自分は果たして絵と同じような凛々しさが出せるのか疑問だったが、彼女の姿を見付けると喜びが込み上げた。そうしてある一つに目が留まる。手に取った絵では、二人で手を繋いで街中を歩いていた。
「アローネ卿」
呼ばれて、零れ落ちていた涙に気付く。小さく息をついて、丁寧に絵を戻した手は微かに強張っていた。
「僕達は、たったこれだけが、出来ないんだ」
主と使用人という身分違いは、想い合う事にすら不自由を強いられる。出来る限りを彼女に経験してもらいたいが、どう足掻いても堂々とはいかない。
涙を乱暴に拭うと、画家へ頭を下げる。
「僕達は、此処でやっと出来たんだ。ありがとう」
画家は一瞬茫然としたが、表情を引き締めて告げた。
「お二方の幸を、力及ばずとも、わたくし達も願っております」
自分達を認める事は恐ろしいだろう。だが直向きに生きるしかない姿を、彼らも責められなかったのかもしれない。
画家へもう一度礼を告げてから帰路に就く。道を行く足は次第に走り出し、邸に着いた時には息が上がっていた。いつ気付いたのか、扉を叩く前に彼女が鍵を開ける。
「どう され ました か」
不安そうな言葉には首を横に振った。
「悪い事じゃ、ないよ」
中へ入り、扉を閉めた時にはもう耐えられなかった。腕は彼女を抱き寄せて離さない。
「アローネさま」
驚きを含む声へ、息を整えながら答えた。
「今日、画家の人に会ったんだ。絵の中には僕達がいて……、街で、手を繋いで、笑い合って……」
伝える程に思い出して苦しくなるのを、彼女も解ったらしい。彼女の腕はきつく抱き返してくる。
「君に、たったそれだけさえ、出来ないなんて」
仮に運命があれば呪いたい心地だったが、もし一つでも狂ったならば自分はおろか、彼女も此処に存在しない可能性もある。事象の組み合わせで出逢えた喜びの裏には、常に埋めようの無い淋しさがあった。
「アローネさま……。かなしみ さえ いとしい いま を、うしない たく あり ません……」
違う形で出逢っても、それは自分ではなく、彼女ではない。自分と彼女は、今此処にしかいないのだ。一つを失う事は、全ての消失を意味する。
凍える淋しさを埋めるには、何処までも求めてしまうしかなかった。求め方はやはり異常な激しさだが、異常で良かったのかもしれない。激情たる想いは満たされない侭で続くのだろう。
彼女が泣いているが、泣かないでくれとは言えない。自分の悲しみまで引き受けているようだった。
深奥までも求め、二人で堕ちる感覚はやはり酷く甘かった。
起きてから暫くして、抜けるような青空の下で彼女が洗濯物を干している様子を、少し離れた場所で見ていた。ただ穏やかにいられるのも、間違い無く幸福な瞬間だと噛み締める。
しかしそろそろ執務を片付けねばと立ち上がった時、一陣の風が吹く。音を立てて布がはためく中、一枚のシーツが飛ばされた。彼女と一緒になって行方を探すと、木の枝の先に引っかかっているのを見付ける。背の高い彼女が竿上げを使うが、なかなか取れない。背伸びをして無理な体勢になりながら竿上げを振ると、当たった拍子に一気に落下した。
「わあっ」
二人の頭上へ被さったシーツに思わず目を閉じてしまう。ゆっくりと目を開けてみると、思考が飛んだ。
白の中で小首を傾げて微笑む姿に、叶わない筈の花の幻を見る。
「ユーズトーリュ」
決して存在出来ない花の姿へ手を伸ばさずにはいられなかった。頬に触れ、打ち震えるような喜びに突き動かされる。
「如何なる時も、共に歩む事を、誓うよ」
彼女は甘えるように目を伏せる。
「ちかい ます……」
互いだけの誓いを交わし、ひと時の幻を封じ込めた。
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