ある使用人のものがたり
■-4
「なんて美しいお名前でしょうか」
声音にありありと嘲りを乗せて、父から聞かされた名を覚える。伯爵をはじめ、複数の爵位を所持した父を持つ娘は、父をも飾りとしか思わなかった。
「そうだ、あの変人男爵如きには美しすぎる。やはり聡いな」
娘からの利用を知らずして、父が賛同した。民に目をかける価値など無いのにもかかわらず、無駄を好んでいる彼を同じように嘲笑った。
「わたくし、決めましたわ。あのかたを頂きます」
見目麗しいと評判の娘は、利益として彼を見据える。貴族として一般的な判断だ。
「そして。父上の糧となさってくださいな」
「良かろう」
身勝手は自覚も無く蠢いていた。
辺境の地に一人の伯爵と、その令嬢が訪ねてきた。伯爵の領地は遠く離れているが、噂が届いて気になったとの事だ。街並みを見たいとの希望があり、領主のアローネ自ら二人を案内する。
「妙に街路が整っておりますが」
言葉からして、伯爵の領地では荒れ果てた侭のようだ。
「整えねば通行も困難になり様々な作業効率が落ちますし、ひいては疫病が発生しますので。整備は領民の生活安定、安心に繋がります」
「領民の、安心」
伯爵は顎をつまんで笑みを浮かべる。明らかな嘲笑だった。
「流石はアローネ卿、何とも突拍子の無い事をなさる」
貴族からのこの呼称は蔑みによるものだと、先日の手紙から薄々感じていたが合っているらしい。
ふと、傍らを歩いていた令嬢が足を止める。見ると花屋の前だった。
「あら、美しいお花ですこと」
「勿体無きお言葉、有り難うございます」
花屋の主人が頭を下げようとした時、令嬢は一輪の花を抜き取る。その侭伯爵共々場を去っていこうとするのを止められず、アローネは店主へ話しかける事も出来ず二人を追った。
伯爵と令嬢は度々土地を訪れたが、決して宿泊する事は無かった。恐らく小さな邸を見窄らしいとでも思ったのだろう。二人が訪れた翌日は、不遜な行為による被害の補填に回らねばならなかった。特に窃盗を繰り返されているが、二人に自覚は些かも無いのだろう。
「どうしてアローネ卿があの方々の尻拭いをせねばならんのです」
特に令嬢から被害を受け続けている花屋の主人へ花の代金を渡そうとしたところ、受け取りを拒否されて告げられた。
「僕はあの方々より身分が下だから、どうしようもないんだ。本当にごめん」
「謝るなどおやめください、アローネ卿も苦しい思いをされているのでしょうから」
領民の目も確かなようだが、全く解決にはならず安堵は出来ない。頭が痛む思いでいると、不意に呼び声が聞こえた。
「アローネ様!」
振り向くと、まだ幼い兄妹がいた。妹の額には記憶に無い腫れがある。
「その傷、どうしたの」
屈んで腫れを見ると、中央は出来たばかりの瘡蓋になっていた。余程強い衝撃だったのだろうか。
「おんなのひとに、ぶたれた」
妹が言うのは令嬢の事だろう。兄が苦々しい顔をして付け加えた。
「妹は挨拶しにいっただけなんだ。なのにあの人、汚いから近寄るなって、物で殴ったんだよ」
「そんな事が……」
自分が思うより遥かに貴族二人は領民を蔑んでいるらしい。身勝手を振るう姿勢にはよく覚えがあり、恐怖すら蘇るが今は表に出さずにおいた。
「つらい事をごめんね、教えてくれて有り難う」
「アローネさま、へいき?」
幼い子供までアローネへの被害を懸念する辺り、脅威は全体に知れ渡るものとなったようだ。
「僕は平気だよ、有り難う。傷が綺麗に治るといいね」
やっと手にした安息を身勝手で荒らされるのは不安でしかないが、負けてもいられない。邸へ帰ると、いつものように出迎えてくれたユーズトーリュへ情報を伝える。
「何が狙いなのか解らない以上、君も気を付けてね」
「はい。です が、こちら が」
差し出された手紙の差出人を見ると、令嬢の名前がある。不安に駆られてその場で封を破り、中身を読み進める内に自身でも顔が青褪めるのが感じ取れた。
「婚姻、僕と……」
衝撃に呟きが漏れる。令嬢はアローネとの婚姻を決定事項のように書いており、近々この地へ再び来訪するともあった。一方的な申し出を受ける気は微塵も無いが、断ればいよいよ何をされるか解ったものではない。
「アローネさま」
戸惑いに固まっていたが、ふと呼び声で我に返る。
「ユーズトーリュ」
顔を上げると見えた変わらない微笑みに、手紙を握り潰して向き直った。
「僕は、僕のやりたい事をするよ」
「はい。しんじる みち を おすすみ ください」
身勝手への怒りの炎は、これからも二人を温めるものだ。
「可愛らしいお花ですわね」
令嬢は花壇の花を躊躇いもせず手折る。丹誠込めて育てられていたのを思うと胸が痛んだ。
「花の命を短くするものではないかと」
努めて冷静に告げたが、果たして令嬢は咎められた事に気付いていなかった。
「いいえ。哀れな花よ、この手で輝ける事を誇りに思いなさいな」
自己満足の塊が父と母を思い起こさせる。気侭に歩いていく令嬢を半ば追いかけ、気付けば林にいた。先へ進めば邸がある。
「アローネ卿」
足を止めた令嬢は、振り向かずに花を弄っていた。アローネも手前で足を止める。
「アローネ卿の想う人とは、どなたですか」
問いには確かな悪意があり、底が知れない。
「どなたも、どうしても教えてくださらなくて。どうしても……」
冷たい含みに、領民へ更なる危害を加えた事実を知る。しかし決して口を割る事は無かったのだろう。だからこそ踏み留まった。
「言えません」
言葉に令嬢は身を翻し、小首を傾げる。
「何故です、わたくしの問いにお答えくださらないのですか」
「だからこそ、言えません」
静かに厳しく告げると、令嬢は高らかに嘲笑した。
「確かに、あのような使用人と育むなど、口に出来たものではありませんものね」
外で目立つ行為はせずにおいたが、恐らく使いに邸内の覗き見でもさせていたのだろう。しかし、事実を言われて怯みもしないアローネに令嬢は笑みを消した。ただ蔑みがある。
「問わないのですか」
焦る事を期待していたのだろう、令嬢は如何にもつまらなさそうだった。
「問うべきものは何もありません。僕にとっての世界、僕にあるのはそれだけです」
令嬢は肩を震わせて、泣く仕草をした。仕草さえ嘘をついていた。
「何故なのです、わたくしの想いを裏切るおつもりですか」
胸の内が軋む。狭い視野で自分本位に考える行為へ、今ならば立ち向かえた。
「貴方の考えに則るならば、僕の行いはそうなるのでしょう。ですが、貴方は僕の心を紐解こうとすらしなかった。貴方の寂しい世界に、僕は存在しません」
令嬢は下手な泣き真似をやめ、怒りを滲ませる。
「触れ回りますわよ」
「お好きに」
最後の脅しを容易く一蹴され、令嬢は驚愕に固まった。
「貴方がそうなさるのなら、貴方は僕と、僕と共にいてくれるすべてを敵に回すだけ。どれ程矮小でも、敵を作る事は貴方にとって本意ではない筈です」
言い放つと、令嬢の凍り付いた表情へ残忍さが宿る。凶器を振るう母の表情と同じだった。
「やはり愚かなかた。わたくしの世界に、貴方など要りませんわ」
令嬢は花を捨て、手にしていたポーチから豪奢な鞘付きの小刀を取り出す。あまりに醜く見えた。
「消えてしまいなさいな!」
薙ぎ払いを後ろに跳び退って避ける。襲いかかる顔には外面の美しさも残っていなかった。令嬢の攻撃は激しいが、全てが未熟な動きで避けるのは難しくない。問題はどうすれば動きを止められるかだった。無闇に出れば令嬢を傷付けてしまうだろう。
更に一撃を避けた時、足が石を踏んでしまう。後ろに倒れ、体勢を整える前に躍りかかる令嬢の姿があった。せめて腕で受けるしかないと構えた瞬間、目の前が暗くなる。そうして体を包んだものは温かかった。
「ユーズトーリュ!」
庇った背中には深々と小刀が刺さり、令嬢が動揺に小刀から手を離さずにいたのを見て、彼女は身を捻る。途端に噴き出した血が令嬢へ盛大に飛び、顔面まで赤く染まった。
ユーズトーリュが緩慢に告げる。
「あなたさま の きず なし に、ち の わけ を どう かたる の でしょう」
自傷するだけの精神力は無い令嬢の姿は、加害者である事を雄弁に語る。故意に浴びせられた血を垂らし、歯を剥くさまはさながら怪物だった。
「ぐ、うううぅぅぅ!」
小刀を引き抜いた令嬢は更に刺そうとするが、アローネが指し示して『命令』した。
「止まりなさい」
アローネの指先からは揺らめく赤い刃が伸びている。其処から伝わった感情はユーズトーリュのものであり、アローネを確かに支えた。
血の刃で令嬢の首元を捉え、宣告する。
「これ以上僕の大切なものを傷付けるならば、容赦せぬと閣下へお伝えください」
令嬢はわななき、本性の全てを込めて天へ絶叫した。
「大いなる呪いを!」
身を翻し逃げ去る背を見据える瞳には確かな光が宿る。身勝手からの重荷は、最早歩みを止める力も無かった。
「父上、お助けくださいまし」
血塗れの娘に伯爵は一瞬凍り付き、次には怒りの形相を広げた。
「馬鹿な真似を! 愚か者が!」
平手で弾き飛ばされ、倒れた娘は去る背中を忌々しげに見詰める。
「おのれ……こうなれば」
復讐を口にしようとしたが、急に周囲が暗くなる。口の中には血の味が広がり、不快感に思わず嗚咽するが一向に薄くならなかった。
「これは、一体」
言葉は声にならず、代わりに口からは血が溢れてくる。耳にはいつの間にか囁き声が聞こえていたが、ある時から声が大きくなり、聞き取れるものとなった。幼子の声だった。
『ひどいじゃまをしたね』
『いまはゆるしてあげる』
言葉をせせら笑おうとしたが、首に生温かなものを宛がわれた事で先程の恐怖が蘇り、凍り付いた。
『でもつぎは』
『ぜったいにゆるさないよ』
「あう、あ」
言葉の後は全てが夢のように消え去ったが、全ては過去として生々しく残る。恐怖はいつまでも心臓を掴み離さなかった。
すぐさま邸に戻り、ユーズトーリュの背中を見る。傷は再生力が勝って塞がったが痛ましい姿なのは変わらず、ひとまず血を拭う。布巾は赤々と染まり、出血量の多さを物語っていた。
「ごめんね、僕が弱いばかりに」
「いいえ。あのかた をも はいりょ なさった の です から」
「うん……。有り難う」
あの場で令嬢を逃がさずに潰す事ならば出来ただろうが、潰す事への嫌悪感も手伝って出来なかった己にアローネは弱さを感じていた。しかしユーズトーリュは其処に強さを、以前聞いた言葉を思い出しながら感じる。
「君も子供達も、苦しかったよね……」
深手は苦痛もかなりのものであり、再生させるとなると生命力も多く使っただろう。沈んだ声音は先程の不安が残っている事を物語っていた。
服を整えてからユーズトーリュの背に耳を押し当てる。聞こえてくる落ち着いた心音は、少しだけ安堵をくれた。
「ありがとう、ユーズトーリュ。子供達も、ありがとう」
子供達の喜ぶ声と、安らかな感覚を確かに感じながら、ユーズトーリュは想いにもう少し甘える事にした。
回ってきた噂によれば、伯爵は急にこの地を避けるよう触れ回ったらしい。元々興味の無かった多くの貴族が聞き流したとも伝わってきた。噂を伝えた領民も心底安堵している様子であり、領地はまた閉じられて平穏を取り戻す。
作業に向けていた集中も疲労に緩んだのか、蝋板へ文字を刻む尖筆が幾らか止まるようになった事へ気付いてアローネは大きく伸びをした。忙しくあるのは領地が機能している証だが、負担が増しているのも事実である。
席を立ち、掃き出し窓の側に立つ。窓の外はそろそろ寒空に変わりつつあり、しかし差し込む日は暖かだ。光の中は心地良く、時折近くの林で遊んでいるらしい子供の歓声が聞こえてくる。平穏を守り通した実感に軽く息をついた頃、背後から声がした。
「アローネさま」
呼ばれて漸くユーズトーリュが傍らまで来ていたと気付き、アローネは自身の疲労がかなり濃いと知る。振り返ったところに差し出されていたのは湯気をくゆらせるティーカップだった。
「どうぞ」
「有り難う」
受け取って茶を一口飲むと、鼻に抜ける清涼感で僅かではあるが目が冴える。アローネの蓄積した疲労と削れぬ作業への配慮からこの茶を選んだのだろう。
「おわり は みえ ました か?」
ユーズトーリュの微笑みには僅かな不安が見えた。その機微は彼女自身の意思がさせるものであり、昨今では珍しくないものだ。
「うん。少し遠いけれど、何とか出来そうだよ」
多少の無理をするのもユーズトーリュと共に過ごす日々の為と思えば苦しくはない。ただ彼女と平穏に過ごしたい、極めて身勝手な願いの対価とすれば安いものだとさえ思える。
外へ目を戻してもう一口茶を飲もうとした時、子供達が邸へ走ってくるさまが見えた。窓の側にいるアローネを見付けると手を振りながら玄関へと向かっていく。
「どうしたのかな。行ってみよう」
「はい」
茶器を机に置いてユーズトーリュと共に階下へ向かうと、ドアノッカーの音と子供達の呼び声が響いてきた。アローネが扉を開けると子供達が我先に声を上げ、宥めようとしたアローネへ一人が両手を差し出す。
「アローネ様! これ!」
手の中には小型の毛玉が乗っており、アローネが覗き込もうとした瞬間それが動いた。解りにくいが小さな口があるようだ。
「たっ、たすけてぇ」
人型以外が人語を使用するのは珍しくないが、この辺りでは見た事の無い生物にアローネは目を丸くする。しかし不穏な言葉を聞いてすぐに表情を引き締めた。
「何があったんだい」
「ひがしのもりで、とってもおおきなとかげが、あばれてるよぉ」
「大きな蜥蜴?」
東の森は狩りの領域でもあり、そのような存在がいれば発見されている確率が高い。そして大蜥蜴のような生物も近辺では確認されておらず、ともすれば他世界の生物が迷い込んで来たのだろうかと推測する。世界渡航の手段である時空の歪みの突発的な出現は、稀にだがこの世界でも事例があった。
「とってもこわいよぉ、どうかたおしてよぉ」
「アローネ様、この子を助けてあげて」
「お願いします!」
毛玉が身を震わせて訴え、子供達も一様にアローネへ懇願する。子供達の頼みこそ断れないが、毛玉の素性が不明である以上油断は出来ない。
「案内してくれるかい」
「はぁい、あんないするよぉ」
其処で背後に控えていたユーズトーリュから提案があった。
「アローネさま。ユーズトーリュ を おつれ ください」
単なる手助けの他に、ともすれば何かに勘付いているのかもしれない。そして彼女程に心強い味方もおらず、アローネは頷く。そうして子供達へ向き直り、毛玉へ手を差し出した。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「いってらっしゃい!」
「気を付けてね!」
掌へ飛び乗った毛玉へではなく、アローネとユーズトーリュへ子供達が歓声を上げた。
東の森には徒歩で向かうしかなく、多少時間がかかる。跳ねながら道を行く毛玉に従って歩くアローネの腰には水の入った小瓶が揺れていた。最近の出来事から考えて持ち歩き始めたものだ。
「このへんなんだよぉ」
言うなり毛玉はその場で跳ねるだけになる。辺りは少々開けており身動きは取りやすいが、こちらの姿を茂みに隠れた相手から見付けるのも容易いだろう。
アローネが微かな物音を聞いた直後、ユーズトーリュからそっと告げられた。
「アローネさま。よろしい です ね?」
「うん、お願い」
言葉にユーズトーリュが一礼し、瞬間その体から白く巨大な腕を生やす。いつか見たユーズトーリュに宿る子供達の具現化だ。
二本が二人を優しく包み込み、一本が太い木の枝を掴むと振り子のように二人を猛然と運んだ。直後に二人のいた場所へ紫色の鱗が撃ち込まれ、地面を抉りながら突き刺さる。
「あれだね」
僅かだが姿を捉えてアローネが言葉を零した。その体躯は人間四人分程度あるだろうか、輝く紫色の鱗を逆立てた大蜥蜴からは鱗の擦れる音がする。音の涼やかな印象が鋭さを感じさせ、先制の一撃を見ずとも脅威は伝わっただろう。
手の中から二人で着地するとユーズトーリュは両手を差し出し、掌から更なる腕を伸ばす。次々に飛んでくる鱗を弾き、時に掴んで止めた。
「がんばれ、がんばれぇ」
何故か追い付いている毛玉が叫ぶ中で、鱗の一つが空中で動きを止める。
「……やっぱりね」
アローネの呟きの後、鱗は毛玉へと一直線に飛んだ。
「うげっ」
毛玉は短く声を上げてその場から大きく跳び上がり、その隙にアローネは大蜥蜴へ叫ぶ。
「僕達は君の敵じゃない! 君の敵はこの毛玉だね!」
大蜥蜴へ言葉は通じなかっただろうが、鱗からの音が消えて攻撃がやんだ。毛玉は宙で静止しており、憎々しげに口元を動かしている。
先程鱗から伝わった感情は言語としては解らなかったものの、明らかな敵意と恐怖が入り交じったものだった。アローネ自身の過去にその覚えはある。こちらへ迫る母への感情によく似ていたのだ。
アローネは腰の小瓶の栓を開けて自らの手に水を垂らしながら毛玉を見据える。
「君は何かな、生き物ではないね」
毛玉はやがて口を開かずに声を発した。
「ちっ、めんどくせえ事になりやがったなぁ、共倒れのとこを両方頂きって寸法だったのによぉ」
苛立つ毛玉へユーズトーリュは静かに指摘する。
「それ は こえ の うけぐち。その せかい は シャンデ・グリ・アラ です ね」
「けっ、至高の使用人よぉ、お察し良すぎるてめえはともかくだぁ。変態男爵様はどういうこったぁ?」
毛玉がこちらの素性を知っている事にはあまり驚かなかったが、ユーズトーリュの口にした世界名にアローネは危機感を覚えた。高文明と魔力の織り成す煌びやかな理想郷を名の由来とする世界は、その蓋を開ければ欲望の坩堝であるといつか聞いたのだ。
「君を拾った子の感情が伝わったからね。嘘つきは疑うよ」
アローネの魔力行使の特性上、少なくとも意思ある生物であればそのような事は起こらない。
「はぁー、魂の無い無機物だからかぁ……。凡ミスしちまったなぁ!」
言い放った毛玉は槍状に体を伸ばしたが、すかさずアローネは地に落ちていた水を浮かせて薄く広げる。浮かせた場所から動くなとの『命令』に従い、水は堅固な盾となって槍を止めた。衝突して弾かれた槍をユーズトーリュの伸ばした白い腕が掴み、引かせる間も許さず次々と巨大な手が毛玉を包み込む。
「ぎゃは、バァカ!」
毛玉は白い手を幾多の針で引き裂いて脱出するが、一瞬の目隠しで充分だった。重々しく落ちる白色の向こうから飛んできた幾つもの紫色に包み込まれ、毛玉は思わず悲鳴を上げる。
「ぎゃっ!?」
「狙っているんなら、さぞ丈夫だろうね」
落ちていた大蜥蜴の鱗からは、飛んできた際に弾いた子供達の感情が伝わった。
『きを、つけて、やっつけて』
これには笑みすら零れそうになる。そうして鱗が毛玉を潰しにかかり、抵抗して伸ばした針は間に入り込んだ水が折った。
「くそぉっなんでこんなぁっ、下等な奴らにぃっ」
憎々しげに言葉を垂れ流す毛玉へ、アローネは堂々と言い放つ。
「君も下等なだけだよ」
「お、うお……、ちくしょおおぉぉ――」
何かを千切るような音と共に、硬いものの砕ける音がした。
鱗の中から出てきた毛玉は見た事の無い素材と仕組みを晒しており、あれ以来喋りもしないので破壊には成功したのだろう。事が済んだと確かめてアローネはユーズトーリュを振り返る。
「ユーズトーリュ、子供達も大丈夫?」
白い腕を引き裂かれた事で多少なりとも害はあったかもしれないと心配するアローネへ、ユーズトーリュは緩やかに首を横に振った。
「へいき だ そう です。ありがとう ござい ます」
「良かった……」
アローネは胸を撫で下ろしながら、疲労を滲ませて言葉を零す。
「シャンデ・グリ・アラ……、また襲ってくるのかな」
それにはユーズトーリュから否定が返った。
「あの せかい の ひとびと は しっぱい の じじつ を きらい ます。ふくしゅう より も かくす でしょう」
「それで諦めてくれるなら助かるけれど……」
不意に近付く物音へ二人が振り返ると、大蜥蜴がゆっくりと歩み寄ってきている。逆立っていた鱗も今は落ち着いており、敵意は無いようだ。目の前まで来ると大蜥蜴は頭を下げ、口を開く。
「――」
やはり別の言語のようで聞き取れず、アローネはユーズトーリュに合図して手帳を受け取ると開いた中身を大蜥蜴へ見せる。書かれているものを大蜥蜴は暫く見詰め、再び言葉を発した。
「……助かった」
言葉が今度はこちらの言語に変換される。手帳は魔力による翻訳の力が込められたものだが、相手が意思疎通を望まねば発動しないものだ。
「こちらこそ。怪我は無い?」
「多少あるが大丈夫だ。この侭帰りたいところだが、歪みが開くのは少々先のようだ」
歪みを察知する能力はあれど開く力は無いらしい。アローネは少し考えた後に提案する。
「良かったら、歪みが開くまで此処に住んでみる? この辺りは狩りの森だから、食べ物は木の実や獣ならあるけれど、足りないかな」
「食す量は人間の六倍程、それで困らないだろうか」
「それなら大丈夫。予想より少なかったくらいだよ」
「そうか。では、暫く厄介になろう」
大蜥蜴は喜びを声に滲ませ、アローネも満足げに一つ頷く。
「この事は領地のみんなにも知らせて、狩りに巻き込まれないようにするから。……けれど一つ、お願いがあるんだ」
「何だろうか」
「子供達が遊びたがるかもしれないから、付き合ってくれると助かるよ」
「成る程、心得た」
笑い混じりの快諾が安心を呼び、アローネも礼を述べながら笑った。
「ああ、自己紹介をしていなかったな。名をラーギュムという」
「僕はアローネ、彼女はユーズトーリュ。困ったら此処から西にある僕の邸を訪ねてね」
頷いたラーギュムによると一月もすれば歪みが開き、元いた世界へ帰還出来るらしい。その頃にまた様子を見に来ると約束し、二人は帰路に就いた。
森を抜けたところで気が緩んだアローネは膝を折り、倒れる寸前でユーズトーリュに支えられる。
「ごめん……、ちょっと、目眩がして」
「ちから を つかい すぎ ました か」
此処までの長い間、そして複数の目標へアローネが魔力行使したのはユーズトーリュも見た事が無い。魔力行使は個々人の許容を過ぎれば心身への負担をもたらす。死に至った例までは無いが、それ以前に行使不能、ともすれば行動不能になるものだ。
「うん……。もっと鍛えないとね……」
鍛錬によって許容や威力が増す例は多い。アローネは疲れた息を吐きながら言葉を零す。
「もう僕は負けてはいけない。勝てなくてもいけない。勝たなければいけないんだ」
以前では考えられない固い決意だった。ユーズトーリュを守りたい、ただ一心に願う望みには障害も多々存在する。だからこそまず、自身が死ぬ訳にはいかない。二人で過ごす時の為に今を二人で生きなければならないのだ。
「アローネさま。きっと その おもい は、のぞみ を まもる ちから を つける でしょう」
想いがもたらした成長と力は、ユーズトーリュへ儚くも確かな強さを持った温もりを与えていた。
狭い領地故か領民が大蜥蜴ラーギュムの存在を知るのも早く、ラーギュムが狩りを手伝うと大層感謝された。普段は狩りの領域から離れた森の入り口付近におり、次第に果実などの土産を持った子供が遊びにやってくるようにもなった。
今日も周囲には子供達がおり、思い思いに遊んでいる。一人がラーギュムの背によじ登り、鱗をまじまじと見ていた。
「ラーギュムさんのうろこ、ぴかぴかだねー」
「そうか?」
「うん、きれいー」
「……嬉しいものだな」
悪意の欠片も無い無垢な言葉に有り難みを感じつつ、ラーギュムは引き続き日向を楽しむ事にした。その侭転寝に入ろうかというところで聞き覚えのある声が響き渡り、声の主に気付いた子供達が一斉にその方向へ走る。
「アローネ様! ユーズトーリュさん!」
「あはは、みんな元気そうだね」
ユーズトーリュは子供達へ丁寧に一礼した。子供達に半ば揉まれながらアローネとユーズトーリュはラーギュムの前まで歩み寄り、二人で頭を下げる。
「狩りを手伝ってくれて有り難う、色々助けられているよ」
「礼を言うのはこちらのほうだ。こうして静かに過ごせたのも、貴方がたの助力あってこそだからな」
ラーギュムの言い回しに気付き、頭を上げたアローネは確認を込めて尋ねた。
「それって……もうすぐ歪みが開くの?」
「その通りだ。今まで世話になったな」
其処で子供達が口々に声を上げる。
「ラーギュムさん、帰っちゃうんだ……」
「もっとあそびたかったあー」
其処で子供達の一人がユーズトーリュの服を掴んで問いかけた。
「もう会えないの……?」
「あなたさま の のぞみ の ちから で、また おあい できる かも しれ ません」
ユーズトーリュに頭を優しく撫でられ、子供は涙を滲ませながら頷く。子供達にとってこの一月は大きな変化をもたらしたようだ。
「もしそれがかなえば歓迎しよう」
涙ぐむ子供への言葉は冗談ではない。この辺境の地を出て普遍的な世界渡航を出来るようになる可能性はかなり低いが無いとはいえず、ラーギュムも子供達を気に入ったからこその言葉である。
「アローネ、ユーズトーリュ」
ラーギュムは二人へ向き直り、畏まって告げた。
「貴方がたがいるこの地の人々はとても優しく強い。民は主を映す鏡、此処は恵まれているな」
「みんなの頑張りがそう見えたなら僕も嬉しいよ。有り難う」
ラーギュムの言葉はこれまでの努力が実った証なのかもしれない。そして実りの後をまた努力してこそ、その好循環は続くのだろう。アローネは実感と共にまた気を引き締めた。
ふとラーギュムは背後を見るように首を動かす。
「……そろそろ開くようだ。子供達も下がっていてくれ」
下がったアローネとユーズトーリュの周りへ子供達も集まったのを確認し、ラーギュムは体ごと後ろを向いた。鼻先にある空間へ、徐々に音も無く暗闇色が滲み出す。そうしてラーギュムを認識したのか、大きさをその体躯に合わせるように広がった。
「あの向こうに、他の世界が……」
歪みを初めて目にしたアローネの呟きが、驚きであり憧憬である事をユーズトーリュだけが知る。向こうへと渡れば今より幸福になれるかもしれない。だが、此処での僅かな幸福を二人で選び取った事実は何よりの支えだった。ユーズトーリュは大いなる悲しみを閉じた瞼の裏にしまい込み、再び前を見据える。前にしか望みは無い。
ラーギュムは手を振る子供達へ尾を振り返す。
「皆、壮健でな」
「ラーギュムも元気でね!」
アローネの声に軽い笑いを残したラーギュムの姿が闇色へと呑まれ、やがて歪みも消え去った。
夜が来ると一層冷え込んだ。アローネはユーズトーリュが暖炉へ火を入れるさまを見詰める。これまで恐れから火気には近付く事すら出来なかったが、今は挑む心が芽生えていた。
「どう です か?」
燃え上がった炎から離れ、アローネの側に控えながらユーズトーリュが問いかける。赤みを帯びた光に照らされたアローネは固まっていたが、それだけだった。
「……こんな」
言いかけて唇を噛む。気付けば涙が零れていた。
「こんな温かなものが、恐ろしいものであってはいけないんだよ」
暖炉からの熱気は心地良く、冷えた指先を温める。それだけの事が本来の用途であり、その在り方なのだと知らしめた途端に過去の理不尽への怒りが溢れてくる。もう恐怖だけではなかった。
「アローネさま」
ユーズトーリュがそっと腕を伸ばし、アローネを抱く。彼女の与える温もりの中では、熱を失う前の涙さえ冷たく感じた。
「つよく なられ ました ね。おおく の こんなん に であい、それら を こえる ちから を もち ました ね」
未だ困難は多く、様々な形で襲いかかるだろう。それらを越える力をアローネは望み、懸命に向き合い、遂に身に付けたのだ。しかしそうなればなる程に、越えられないただ一つの困難を悲しむしか出来ない。
ユーズトーリュは淋しげに微笑む。それでも、歩みは未来にしか続かないのだ。
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