不愉快な自我


■-4

 ネイネイエの目指す谷へと進路を変えると、周囲は森から徐々に岩肌の目立つ地形へと様変わりした。背の低い草が生い茂り、苔生した岩は水の気配を感じさせる。今まで辿っていた川とは別の水源があるらしい。
 やがて断崖の間を行くようになり、道の険しさも増す。薄暗い道中は洞窟に似て、時折見かける生物は発光器官を持っているものもいた。ランドの生成した小さな光球で足元を照らし、注意深く進む。
「あの飛んでいるもの、何でしょう」
 レグレルグが指差す先には赤い色をした明滅する小さな光が二つ飛んでいた。
「なんだなんだ?」
「何だか、ずっと付いてきているような――」
 ネイネイエへ言いかけて、レグレルグは赤い光が近付いた事に気付く。そして消えた時には咄嗟にネイネイエを突き飛ばし、降ってきた大きな何かの強烈な重みでレグレルグは体を押し潰された。
「がっ……!」
 内部まで潰されたらしく、レグレルグは口から血を吐く。果たして血液のみだっただろうか。照らし出された体は巨大な蜥蜴のもので、光の届かない天井に潜んでいたようだ。蜥蜴の大きな足で踏まれたレグレルグから徐々に血が染み出ていた。
「レグ!」
 ランドが叫ぶ中で、ネイネイエはレグレルグを前に固まっている。ネイネイエに戦闘は見込めないと判断し、ランドが蜥蜴へ混沌を伸ばした瞬間だった。
「きぃやああああぁぁぁぁっ!」
 金切り声はネイネイエのものだ。セイレーンの声で無差別に攻撃しているらしく、ランドも動きを止めて思わず頭上部の耳を塞ぐ。声は単にけたたましいだけでなく、全身に刺すような痛みを与えた。
 蜥蜴も声へ悶え始め、怯んだのか巨体に似合わない素早さで何処かへと逃げていく。蜥蜴が逃げて尚ネイネイエの絶叫は続いていた。
「ネイっやめろ! やめろって! レグまで巻き込むな!」
 有らん限りの声でランドが叫ぶと絶叫はすぐさまやんだ。息も切らさずにいるネイネイエは茫然と虚空を見詰めている。ひとまずネイネイエには構わず、ランドは倒れているレグレルグの側へ駆け付けて状態を窺った。徐々に再生しているらしく、多少潰れていた体に厚みが戻り、目は閉じられているが僅かに呼吸がある。
「レグ、おい、返事しろ!」
「う……、げほっ」
 咳き込んだが血を吐く事は無く、レグレルグは微かに目を開け、苦しげではあるがランドへ微笑んだ。
「今、回は、出来、ました」
 途切れ途切れの言葉に込められた努力の跡に、ランドは目頭が熱くなるのを感じたが耐える。今回の負傷でまた肉塊が暴走してもおかしくなかったのだ。
「ああ、よくやったよ、頑張ったな」
 ランドはレグレルグの頭を混沌で乱暴に撫でてから背後のネイネイエを振り返り、未だ固まっているネイネイエの頬を軽く叩きながら呼びかけてみる。
「こんなとこでへばっててどうすんだよ」
 だがネイネイエからは反応が無い。ランドは少し考えて、効果的だと思われる言葉を使う。
「姉ちゃんの為だろ?」
「うっ、あ……、ごめんな」
 姉を引き合いに出すとネイネイエは漸く我に返り、すぐさま頭を下げた。誰かが傷付く様子に怯えたのだとしても、出会った当初の戦いを考慮すると単純にそうだとは考えにくい。ランドは疑問を一旦思考の片隅へと追いやると、辺りを見回して安全を確認しながら提案する。
「まあなんだ、二人共消耗しちまったし、此処ら辺でちょっと休むか」
「はい……」
 ランドへ応えながらレグレルグは痛む体を起こし、俯いている侭のネイネイエへ声をかけた。
「ネイさん、有り難うございます」
「でも、おれ……」
 沈むネイネイエへレグレルグは軽くかぶりを振る。
「貴方が攻撃してくれなかったら、あの蜥蜴も逃げてはくれなかったと思います。そして誰も死なずに済みました。あの蜥蜴もです」
「……うん」
 ネイネイエが僅かに顔を上げる。瞳にはまだ恐怖が揺れ、レグレルグの様子を窺うようだった。その不安を感じ取り、レグレルグは微笑んでみせる。
「僕は大丈夫です、少し休めば治りますから」
「そうなのか……?」
 信じ難いと言いたげなネイネイエの反応も無理はなく、レグレルグは向けられる心配に応えたい自身の意思を有り難くさえ思いながら頷いた。
「はい、僕はそう出来ていますから。けれど、もう怪我しないように気を付けます。だからどうか、そんなに悲しい顔をしないでください」
「うん……、レグがそう言うなら、元気出すぞ!」
 また朗らかになったネイネイエと笑うレグレルグを見ながら、ランドはネイネイエについて思案を巡らせる。
 これまでも感じてきたが、ネイネイエは外面に反し内面は非常に幼い。それなりに長命であるセイレーン基準であっても、異常なまでの幼さだ。そして先程の恐怖は、単純に戦闘や血への恐怖ではないだろう。現に同士討ちをさせ死に至らしめた時は平然としていた。今回、過去に見た何かの光景が重なったと考えるのが妥当だろうが、そうするとネイネイエは過去に凄惨なものを見た事になる。
「ランドさん、あちらに水場があるみたいです」
 レグレルグから声をかけられ、ランドは思案を打ち切った。謎は深いが、閉ざされたものを切り開くのはあまり得策ではないのかもしれない。



 水辺で休憩を入れてから、また奥へと歩を進めた。進むにつれ足元に水が溜まり始め、足首が浸かるようになった頃には最奥へと辿り着く。半球状の地形を満たす澄んだ水に、大きく裂けた天井から差し込む陽光が煌めきを与えていた。辺りには湧き水の音だけが響いており、何の気配も感じない。
 ネイネイエは数歩前へ歩くと、大声で呼びかける。
「おーい! いるんだろっ、白くてきらきらのやつ!」
「幾ら何でも大雑把だろ……」
 ランドが呆れて呟いた瞬間、女のような声が響いた。
「私も概ね同意するぞ、奇怪なる者よ」
 言葉の終わりに一本の白い光が縦横無尽に伸び、徐々に形作る。そうして光が収まった後には、白い龍の巨体が鎮座していた。風も無くたてがみは揺らめき、尾の先に小さな水色の宝石が輝いている。そしてネイネイエの情報通り、全身の白い鱗は美しく煌めいていた。
「綺麗……」
 レグレルグが思わず零した感想へ白龍が楽しげに笑う。
「あちらは不躾かと思えば、少しは解る者もいるようだな」
 白龍の言葉でレグレルグは非礼に気付いた。白龍からすれば突如として押しかけられた形だ。
「突然ごめんなさい。こちらのネイネイエさんが、貴方の鱗を必要としているんです」
 レグレルグがネイネイエを示しつつ簡潔に述べると、ランドも混沌で挙手して話に入る。
「こっちもただでくれるとは思っちゃいねえ。可能な限り条件は呑む」
「可能な限り、か。では」
 白龍は楽しげに、しかし牙を剥いて三人を見据えた。
「その力、尽くしてみせよ!」
 言葉の後に振り下ろされた白龍の片腕を、ネイネイエは翼で飛んで避け、ランドはレグレルグの体に混沌を巻き付けて宙へと飛び上がる。離れた場所に着地したランドがレグレルグを下ろした頃、白龍の周囲を飛び続けているネイネイエが歌い出した。
「ぐっ……」
 呻いた白龍の動きが鈍ったのを見て、ネイネイエは急旋回して持っていた大袋の中身を大量にばら撒く。出てきたのは色とりどりの鉱石であり、ネイネイエは宙でそれらを捏ね始めた。鉱石は元から柔らかだったように形を変え、やがて一本の長槍に形を変える。出来上がった長槍を足で掴んだネイネイエが高く飛び上がり、急降下して白龍の脳天を突き刺そうとした瞬間、何かが弾けるような大音が白龍の体内から聞こえた。音の正体に勘付いたランドが叫ぶ。
「ネイ! 下がれ!」
 ランドの声にネイネイエが攻撃を中断し後方へ飛ぶと、ネイネイエがいた場所を白龍の口から放射された雷撃が薙いだ。その侭攻撃していれば炭にされていたかもしれない。雷撃の衝撃でネイネイエは吹き飛ばされたが宙で身を翻し、辛うじて二人の元へ着地する。
「ネイ、その槍どうやって作ったんだ」
 ランドの疑問にはすぐに答えがあった。
「合成したんだぞっ、得意なんだ!」
 またも炸裂音が聞こえ、三人それぞれがその場を離れる。走るしかないレグレルグはその後突き刺さった雷撃による衝撃で多少足を取られたが、転ぶには至らなかった。
「へえーっ、性質変化の魔力行使か、レアなもんだ」
 再度振り下ろされた腕を混沌で弾き返しつつランドが感心する。鱗まで消滅してしまうのを避ける為に腕は使えずにいた。
 ネイネイエが飛びながら再び歌う。白龍の動きこそ鈍るが、やはり完全には止まらなかった。それでも隙が出来たのを見逃さずにランドが混沌で白龍の胴に斬りかかったが、僅かに傷が付く程度で終わる。混沌の物理干渉も万能ではないらしい。
 レグレルグは戦いの光景を見ながら、自身に出来る事を探していた。何もせずにはいられないが、何が出来るのかが見付からない。現に白龍ですらレグレルグには目もくれず、敵としての頭数に入れていないのだろう。その現実は悔しさを呼ぶが、いつかのランドの言葉がレグレルグに冷静さを与えていた。
「何事も鍛錬ってやつだし、焦ったり諦めたりすんのはまだ早えんじゃねえかな」
 幸い、今のレグレルグには貫きたい意思がある。蜥蜴に襲われた時に自らを制したのも、己を見失った兵器の侭では出来なかった事だろう。
 レグレルグは目を凝らして白龍を観察する。ふと、雷撃の瞬間には尾の先にある宝石が若干光を増している事に気付いた。雷撃の発生源は宝石なのかもしれない。だがこの事を大声で伝えてしまえば白龍に警戒されるかもしれず、そうなればランドの混沌も弾く鱗で守られてしまうだろう。
 レグレルグは自身の掌を見詰める。あらゆるものを吸収してきた肉塊ならば、望みがあるかもしれない。覚悟に手を握り締め、水を跳ね上げて走り出した。
 白龍のやや後方に来たところでその瞳に捉えられる。
「……小賢しい」
 白龍がレグレルグへ頭を向けようとした瞬間、その口元をランドの混沌が大いに引っぱたいて向きを変え、衝撃で開いた口から雷撃が放たれた。その間を縫ったネイネイエが長槍で白龍の目を突くが、突如膜を張られ体ごと弾き返されてしまい、歌も途切れる。だが、その時間さえあれば充分だった。
 レグレルグはあと僅かのところにある白龍の尾へ手を伸ばす。その手先が肉塊へと変わり、長く形成された。肉塊で出来た剣は尾へと到達すると瞬時に鱗を溶解し始め、同時に枝分かれして尾へ巻き付き、触れた箇所を素早く溶かしていく。
「ああぁぁああ!」
 白龍が絶叫を上げ、暴れようとした頃には尾と共に宝石が千切れた。すると白龍が力を失ったように地へ倒れ伏し、水飛沫が上がる。
「えっ?」
 尾を落としただけでこうなるとは思わず、ランドやネイネイエ、レグレルグですら呆気に取られていると、あの女のような声が響いた。
「いやはや、こうも早く落とされるとは」
 声は落ちた尾の宝石から聞こえる。三人が宝石へ恐る恐る近付くと、宝石の中に何かが動いているさまが見えた。やがて宝石が独りでに宙へ浮かび上がり、輝きを増す。そうして宝石が割れ、中からは白く輝く小さな魚のようなものが現れた。鰭は長く、優雅に宙で揺れ動いている。
「あの龍は紛い物。これこそが真の私だ」
 すると背後で白龍の体が輝き始め、振り向くと光の粒となって消えていくさまが見えた。
「じゃあ、鱗ってのは……」
 ランドの言葉に魚は頷くように体を揺らす。
「この体のものだな」
「そうだよな……。ネイがどんくらいいるって言うか……」
 ランドの不安にネイネイエが首を傾げた。
「一枚でいいぞ?」
「そうなのかよ!」
 驚くランドへレグレルグは苦笑しつつ、魚へ尋ねる。
「取ってしまって大丈夫なんですか?」
「案ずるな、また生える」
「そうでしたか、良かった……」
 安堵するレグレルグへ魚は頷き、ネイネイエへ体を向けた。
「だが流石に自身では取れなくてな。何処でも良いので取るがいい」
「おう、ありがとな」
 ネイネイエは丁寧に魚の鱗を一枚取り、色を確かめるように様々な方向から見る。
「……おっし、これだ」
 言うなり、ネイネイエは鱗を口の中へ放り込んだ。レグレルグとランド、魚までも驚きの声を上げるが、ネイネイエは構わずに呑み込む。
 程無くしてネイネイエの脚部、魚鱗部分に変化が起きる。赤色が抜け、煌めく白色へと変色した。さながら今し方呑み込んだ鱗のそれだ。
「自分の体に合成したのか……」
 ランドの疲れた呟きを聞きながら、レグレルグは再度苦笑する。
「まあ、無事に済みましたし……。ネイさんも良かったですね」
「おう! やっと出来たぞ!」
 狙いの体があったらしく、これで完成したのだろう。ネイネイエは満足そうに笑った。



「息災でな」
 魚に見送られて谷を抜け、カガシュカラ海域へ続く川沿いの道へと戻る。あと五日も進めば目的地に着くとはネイネイエの弁だ。今日は日も傾いてきており、早めに食料を調達しようと三人は辺りの探索を試みた。
「おっ、これ美味いやつだぞっ」
 言いながらネイネイエが野草を摘み取ると、食欲をそそる香りが漂う。香草の一種らしい。
 その近くでレグレルグは落ちている大きな果実を見付け、上を見る。頭上に枝葉を広げる木には多数の実が生っているが、自身では届きそうにない。
「どうした?」
 多数の小さな木の実を持ったランドがつられて上を見ると、事を理解したらしく納得の声を上げた。
「ああー。落とすから受け取ってくれ」
「はい」
 ランドが混沌を上方へ伸ばし、合図と共に茎を切る。レグレルグが受け取った果実は拳二つ分はある大きさをしており、硬い表面をしていた。振ると液体のような音が聞こえ、果汁が詰まっているのかもしれない。三個取ったところでその場を引き揚げ、三人で川の近くに戻ると調理を始める。
 ネイネイエの案で大きく分厚い葉に塩と香草、皮を剥いた木の実を包み、火の中へと入れた。その出来上がりを待つ間、レグレルグが見付けた果実に穴を開けて中の液体を少しだけ飲んでみる。甘い味と香りが広がり、それぞれが美味に言葉を零した。
「うめえーっ! こりゃ当たりだな!」
 特に夢中で飲み続けていたランドがやっと口を離す。余程好みだったようだ。
「レグのお陰だなっ」
 ネイネイエから真っ直ぐに褒められ、レグレルグは素直に受け取っておく事にした。
「ふふ、有り難うございます」
 甘い味が何処か幸福を呼び、自然と笑顔になる。果汁を飲み終わった頃には芳ばしい香りも漂っていた。
「多分出来てるぞっ」
 ネイネイエが木の枝を使って火の中から包みを取り出し、葉を開いていく。中の木の実はかなり柔らかくなっており、指で潰せる程だった。
「んー、どっかなー」
 ネイネイエが味見に一粒食べてみる。滑らかな繊維質が口の中で溶けるようにほどけた。
「美味いぞ!」
 ネイネイエの感想で二人も木の実を口にしてみると、まろやかな塩味と優しく芳ばしい香りが口の中に広がる。
「美味しい……!」
「ほくほくしてんな、これもうめえなー」
 表情の緩む二人に、ふとネイネイエが食べる手を止めて小さく呟いた。
「二人共、もっともっと美味いもん食ってくれよな」
「えっ」
 レグレルグの多少驚いた声にネイネイエは答えず、また快活に笑う。
「だって、美味いもんはまだまだ沢山あるからな!」
「そうですね、そうしたいです」
 告げながらレグレルグがランドを横目で見ると、ランドもまた何か考えているようだった。ネイネイエへの一抹の不安は同じらしい。



 深夜になり、ランドは身を起こすと火の番をする。元々は形を持たない精神体であるからなのか、偶像を得た今も睡眠をあまり必要とはしなかった。しかし殆どが寝静まる夜にする事も特に無く、眠らないだけで横になっている事が多い。
 火は朝まで点いているように調整してあるが、今夜は落ち着いて横になれない。ふとした瞬間にネイネイエの言葉が思考に引っかかる。
「あれじゃ、まるで……」
 考えがつい声に出てしまうが、続きは言えなかった。
 カガシュカラ海に着いた時、何が起こるというのか。そうして考えは別の事柄へ辿り着く。
 カガシュカラ海に着いて、それからどうするのだろうか。
 親しみすら感じている二人のどちらか、或いは両方と別れなければならないのだろうか。ランドの奇妙な体ではあまり人前に出られず、二人の行動に支障をきたす事は目に見えている。
「難しいな……難しすぎだ……」
 ランドは溜め息をつく。溜め息しか出なかった。



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