不愉快な自我
■-5
進み続け、特に問題も無く五日が経った。幾度か滝になった川は今や崖下にあり、手も届かない。
この日は朝早くから出発し、進む内に誰もが無言になった。理由は様々だが、目的地に到着する時を思うと緊張が走る。
そうして周囲の木々の数が少なくなり、向こう側の光が眩しくなった頃だ。
「海の匂いがするぞ!」
ネイネイエが歓声を上げて走り出す。レグレルグとランドも鼻先を掠める匂いに気付き、ネイネイエを追いかけた。やがて木々を抜けると足元は土ではなく岩となる。下から吹き上げる風は水分を含んでおり、潮の所為か重い。
レグレルグは足元に注意しながら数歩進み、一面に広がる青の煌めきを見詰めた。言葉も無く、ただ波の音だけが辺りに響くのを聞く。ランドは後方でその様子を静かに見守っていた。
「……帰ってきたぞ」
ネイネイエも崖近くで海を見詰めていたが、不意にその場へ座り込む。そして有らん限りの声で叫んだ。
「おかえりっセアねえちゃん!」
絶叫に驚いたレグレルグとランドが目を向けた瞬間、ネイネイエは糸が切れたように横に倒れる。
「ネイさん!?」
「なんだ!?」
二人で駆け寄りネイネイエの上体を抱き起こすが、その目は閉じられていた。何度か呼びかける内に身動ぎし、緩々と瞼が開く。
「……此処、は」
震えた声を出した瞬間、表情を一変させて悲鳴を上げた。セイレーン特有の攻撃でなかった事は救いだったが、明らかな異常だ。
「これは、一体」
戸惑うレグレルグを余所に、ランドはこれまでの違和感を総合し、一つ尋ねる。
「なあ。お前、誰だ?」
涙さえ滲ませ、叫びを止めてから弱々しく答えがあった。
「イセアセアラ、私は、ネイの、姉でした」
イセアセアラは今までもネイネイエを通して二人を見ていたらしい。落ち着いたイセアセアラは暗い表情で体を見遣る。
「この体の形も色も、殆どがネイのものではありません。どちらかと言えば、私に近いものです」
「ではネイさんは、イセアセアラさんを再現する為に、身体合成を……」
事態を呑み込めてきたレグレルグの言葉にランドが頷く。
「そうなるな。そんでイセアセアラ、お前はとっくに死んでるんだろ」
薄々予想していたが、的中は避けたかった。だがイセアセアラは頷く。
「はい。私は世を去った筈でした。ですが……」
言葉は徐々に涙声へ変わったが、イセアセアラは声を絞り出した。
「ネイは、私を……その体に合成したんです。そうして、魂まで合成されてしまいました」
衝撃的な事実にレグレルグとランドが苦い表情を浮かべる。
「ネイは自分の所為で私が死んだと思っています。そうではないと、私はずっと叫んでいました……。けれど、あの子を止められませんでした……」
言葉の途中から大粒の涙が次々に零れた。その顔もイセアセアラを再現したものなのだろう。
「ネイさんは今、どうなっているんですか」
レグレルグは努めて丁寧にイセアセアラへ尋ねる。
「微かにあの子の事は感じます。ですが呼びかけても、反応も何もありません……」
「眠ってる感じだな。その侭だとネイの魂が消えちまうかもしれねえ」
ランドの言葉でイセアセアラが恐怖に震えた。
「活動停止した魂は維持出来なくなって消えやすいんだよ。ネイのやつがこれを解ってたかどうかは解んねえけど……イセアセアラ、お前はネイにずっと呼びかけてた、つまり活動してたって事になる。これがわざとなら凄えよ……褒められたもんじゃねえけどな」
ランドは溜め息混じりに言い終わると、次には不満を露わにした声を張り上げる。
「ああーっもう! これだから出来のわりい赤点創造神は不便なんだ!」
それは自嘲であり、悔恨の言葉だった。ランドなりに手立てを考えた結果、無力を悟るしか出来ない現実に腹を立てるしかない。
レグレルグも思案する。そして自らの経験から手繰り寄せられる細い糸を見付けた。何処に繋がっているかは解らないが、最早それに縋るしかない。
「あの世界……」
呟きに二人の視線が注がれる。
「僕の体を換えた世界……。其処なら、或いは――」
瞬間、目の前の光景が一気に書き換わる。
「呼んだか、元死にたがり」
レグレルグが掴んだ微かな希望は、突如としてその先へ導いた。
気付けば三人で光る床に立っていた。果てしない空間を本棚の群れが泳ぎ、頭上は輝きで満たされている。
「此処って……」
ランドが呟くと、何処からともなく光の帯が空間を縫うように伸びてきた。帯の根元を目で追う途中で、その上を何者かが滑ってくる。
「また会ったね」
レグレルグを見て告げた姿は、ランドと同程度奇妙だった。白い頭は柔らかな印象を与え、垂れた大きな耳からは赤く長い触角が下がっている。細い体の半ばからは箒状になっているが、かなり自由に曲がるようだ。光の帯から床へ降り立ち、器用に箒の足で真っ直ぐに立った。
「貴方は、受付の……」
レグレルグの言い淀みに奇妙な人物は気付いたような声を上げる。
「あっ、あの時は自己紹介してる暇無かったもんね。僕はベンヴェヌート・ギルラーンダっていうんだ」
告げてからベンヴェヌートは訝しげなランドとイセアセアラへ目を向ける。
「初めての人もいるし、もう一回案内しなきゃいけないね」
ベンヴェヌートが片手を挙げると、周囲を泳いでいた本棚から一冊の本が蝶のように飛んでくる。本はベンヴェヌートの手へ留まると独りでにページをめくり始め、中身をページ上に投影してみせた。何かの体の部品だ。
「此処は世界夢工場。夢の手伝いをする場所、体を換えた人に可能性を探してもらう場所だよ。で、僕はその受付係」
「夢工場、聞いた事あんな……」
ランドが呟くとベンヴェヌートは首を傾げる。
「神為学は此処を馬鹿にしてなかったっけ」
「えっ、いや、それよりなんで俺が神為学のやつだって解ったんだよ」
ベンヴェヌートは悪戯っぽく微笑み、空間の一点を指差した。すると何処からともなく姿見が現れ、鏡の中に海と絶壁を映す。先程までいたカガシュカラ海だ。
「アフターケアで、此処で体を換えた人を暫くは追跡してるんだ。まあ、あんた達の抱えた問題の解決を手助けするから大目に見てよ」
ベンヴェヌートの言葉にイセアセアラの顔へ緊張が走る。
「ネイを助けられるんですかっ」
今にも詰め寄りそうなイセアセアラへ、ベンヴェヌートは肩を竦めた。
「それはあんた達次第。すぐ作業してもらうから、あんた達も早めに腹を括ったほうがいいよ」
言いながらベンヴェヌートは輝く天を仰ぐ。つられて三人が光を見上げると、黒い点が徐々に大きさを増しているさまが見えた。何かが上から降りてきている。
「ベンヴィの言う通りだろうな」
降ってきた尊大な声は世界渡航前に聞こえた声と同じものだ。そうして赤い羽に白い触手を揺らした足の無い黒猫のような姿が視認出来るようになると、ベンヴェヌートが説明する。
「こいつがフィオリトゥーラ・フォッレー。夢工場を作った科学者だよ」
フィオリトゥーラは三人を値踏みするようにねめつけた。表情には余裕があり、憎たらしささえ感じられる。
「ふむ。此度の問題はレグレルグのものとは別個だが、なかなか興味深い」
フィオリトゥーラは赤い強膜をした目を細めて楽しげに告げた。これだけの仕草がフィオリトゥーラの性格を如実に物語る。
「イセアセアラ、お前に力を貸そう」
「有り難うございますっ……!」
「それと」
頭を下げるイセアセアラを尻目にフィオリトゥーラが付け加えた。
「ランド。お前の体についても解決してやろうか」
「えっ、俺……?」
突然引き合いに出され、ランドは思わず閉口する。
「少々時間はかかりそうだが、身体構造の解析は出来そうだ。私としてもお前の身体情報には興味がある。悪い話ではあるまい」
フィオリトゥーラは身体置換を慈善で行っていない事実を示しながらランドへと告げた。ランドは目を白黒とさせたが、やがて鼻で笑う。
「ふん、ネイの件が上手くいったら何でも調べさせてやんよ」
するとフィオリトゥーラは首を傾げ、白い触手を軽く振ってみせた。
「ほう? お前達は成功させねばならんのではなかったか?」
「ははっ、確かにな」
挑発的な言葉に乗るのも悪くはなかった。
魂と身体を切り離す技術は、フィオリトゥーラが身に付けた科学技術によるものだという。もっとも独自ではないらしいが、凄まじい技術力である事は間違い無かった。
「お前達の魂をネイネイエの魂へ接続する。接続先で負傷すれば魂も損傷し、最悪死に至る。注意する事だな」
危機感が全く無いフィオリトゥーラの語調が却って落ち着きをもたらしたのか、三人は静かに頷く。
「では、始めるぞ」
フィオリトゥーラが宙に浮いた光の板を触手で操作すると、三人の足元から光の柱が伸びた。光に包まれると共に変調があり、意識が自身の感覚を遠く離れていくような心地になる。
やがて光が晴れた時、三人は夢工場とは別の空間にいた。空とは違う明るい空間が広がり、浅く水で満ちている周囲には様々な物体が固まって出来た奇妙なオブジェが幾つも柱のようにそびえ立ち、異様な威圧感を醸し出している。オブジェをよく見ると貝殻や瓶など、不要だと思われる物品で出来ていた。
レグレルグは辺りを見回し、白い靄を二つ見付ける。目を凝らすと二つはそれぞれランドとイセアセアラの形をしていた。
「其処にいんの、レグか?」
ランドの声に間違い無く、レグレルグは安堵を覚えながら応える。己の手を見てもやはり殆ど白い靄になっており、よく見なければ判別出来ない。
「はい。イセアセアラさんも大丈夫ですか?」
「何ともありません、有り難うございます」
無事を確認し終えたところで改めて周囲を見てみるとオブジェに規則性を見付けた。ある方向へ行くにつれて高さが増しており、イセアセアラが懐かしそうに言う。
「ネイは物を合成してオブジェを作るのが好きだったんです。どんどん大きく高くしていました」
「ではこれは、ネイさんの心象風景なんでしょうか」
レグレルグの予想にランドも頷いた。
「だろうな。時系列からすると高くなってる方にネイがいるかもしれねえ」
ランドの予想に従い、高くなるオブジェを辿る。色とりどりの物で出来ているオブジェはさながら子供の積み木遊びのようで、事実そうなのだろう。
ふと、前方にあるオブジェの一つから声が聞こえ始めた。最初こそ聞き取れない程小さかったが、次第に音量が大きくなる。
「あいつ、変!」
子供の声だ。別のオブジェからも聞こえ始める。
「何それ、気持ち悪ーい」
子供の明らかな罵倒の声は次々に増え始め、やがて純粋な悪意の合唱に変貌した。耳をつんざく程ではないが、聞いていて気分の良いものではない。
これはネイネイエの経験なのだろう。周囲に馴染めずにいた事は想像に難くなかった。
「こら! やめなさい!」
耐えかねたように突如イセアセアラが叫ぶ。途端に声はやみ、辺りは静けさを取り戻した。
「……それが日常茶飯事だった訳か」
ランドの言葉にイセアセアラは悲しげに笑う。逃げていく子供達の姿が瞼の裏に見えるようだった。
「溺愛だと言われても、私には弟を守るしか出来ませんでした。両親を先の戦で亡くして、あの子も私も独りぼっちになる事が怖かったんでしょう」
自嘲に満ちたイセアセアラの言葉へ、レグレルグは迷い無く口を開く。
「イセアセアラさん。ネイさんはいつか、貴方に会えない事がとても淋しいと言っていました。だから自分が頑張らなければいけないのだとも。ネイさんは、貴方の事が大好きで、誇りなんだと思います」
「そう、でしたか……」
イセアセアラの声は歪んだが、涙は必死に堪えているようだ。この先を思うと耐えるしかなかったのだろう。
オブジェ群を辿り続け、遂に最も高いものを発見した。その表面には他に見られない血液らしき赤が付着しており、根元は巨大な硝子で出来ている。硝子は中に薄く白い光が見えるが、歪な為か明確には解らない。
「これは……間違いありません、私が潰されたオブジェです」
苦々しく事実を述べたイセアセアラがオブジェに触れようとした瞬間、根元の光が微かに揺らいだ。すると光は強さを増し、三人の視界を白く塗り替える。やがて白の中に見えたものは海の景色だった。海岸に巨大なオブジェが一つそびえ立っている。
「出来た!」
聞いた事のある声の主は何処にもいなかったが、視界が勝手に動いた。これは誰かの記憶らしい。
「ネイったら、また大きなものを作ったのね」
初めて聞く声のほうへ視界が向くと、岩場に座ったセイレーンを捉える。イセアセアラの姿だった。
「うん、何処までいけっかなってやってみた!」
嬉しそうに話す声と映る視界こそがネイネイエなのだろう。ネイネイエはオブジェを見上げ、ふと傍らにあった青い瓶に目を遣る。
「忘れてた、これもっ」
青い瓶へネイネイエが近付いた瞬間だった。
「ネイ!」
視界が勢い良く回り、すぐ側で轟音が響く。そうして倒れ伏していたネイネイエはゆっくりと身を起こすと、背後を振り返った。
倒れたオブジェの下に鮮血とそれ以外、頭の部品が散っている。其処まで映し、視界は元に戻った。
「今のが……」
レグレルグの呟きにイセアセアラが頷く。硝子の中の光は縮こまるように微かな光でしかない。
「おれは、いいよ」
硝子から弱々しく聞こえた声はネイネイエのものだ。多少くぐもっている。
「ネイさん……」
レグレルグの呼びかけにネイネイエは応えなかった。
「だって、ねえちゃんは優しいし、歌も上手いし」
声が告げた次には、光が弱くなっていく。
「おれはちっともいい子じゃねえし」
光がやがて闇へと変わり、硝子内を満たしていった。
「ねえちゃんのほうがいいだろ?」
言葉の終わりに水を跳ね上げる大音が聞こえ、レグレルグとイセアセアラは背後を振り向く。ランドが地面を混沌で強く叩いたらしい。
「ふざけんなよ……」
明瞭に見えたならばランドの腕は震えていたのだろう。怒りを露わにして、ランドは吼えるように叫んだ。
「だからわりい子だって!? んなもんどうだっていい! 俺は今までお前といて楽しかったんだ! イセアセアラじゃねえ、お前だ!」
「でも……でも、おれは、ねえちゃんを」
足元の水が濁り、明るかった空間が暗く淀む。
「殺しちまったんだ」
言葉はネイネイエ自身に言い聞かせるようだったのを、レグレルグは聞き逃さなかった。
「ネイさん。あの事故を貴方の所為だとすればする程に、貴方は消えてはいけないんです」
「……なんで」
ネイネイエの声は消えかかっているが、まだ反応を示す意思はあるらしい。
「イセアセアラさんは貴方を庇って亡くなりました。貴方に生きてほしかったからです。貴方がイセアセアラさんの願いを背負って生きなければ、それは無駄になってしまいます。貴方が消えてしまえば、貴方の大好きな人を傷付ける事にもなるんです」
「おれは……、ねえちゃん……」
ネイネイエに迷いが生じる。レグレルグは自身の体験を重ね、それに応える為にも言葉を続けた。
「そうして生きる事は正しくないのかもしれませんが、それは誰にも解らないものです。僕にも、正しい生き方も、正しい死に方も解りません。けれど、今此処に誰が生きてるかくらいは解ります」
硝子の中の闇は蠢く。苦しげに藻掻いているようだった。
「僕も、ランドさんも、イセアセアラさんも、みんなネイさんの事を待っています」
「うう……」
闇の中に光が戻り始め、僅かに輝き始める。だが次には闇が再び広がりをみせ、中から悲鳴が聞こえた。
「ネイ! ネイっ!」
イセアセアラが硝子を叩くが返答は無い。焦燥感が募ったその時に声が聞こえた。
「みんな聞こえるっ?」
声はベンヴェヌートのものだ。多少慌てている。
「この侭だとネイネイエの魂の損傷に巻き込まれるよ」
「損傷!? なんでだよ!」
ランドの疑問には素早く解答があった。
「無理矢理自己凍結したのがいけなかったみたい」
「何か手立ては無いんですか」
尋ねるレグレルグにベンヴェヌートはまたすぐに答える。
「別の魂で補強すれば可能性はあるよ。けど、出し合うなんてしたら全滅する事もあるし、どのみち一人は絶対に消えるって思って」
声音に苦々しさが滲むのは、他人事であるベンヴェヌートとて良い気分ではないのだろう。
「……解りました」
応えたイセアセアラの声音には覚悟があり、続けてレグレルグとランドへ告げる。
「私がネイの魂を補強します」
「けど、ネイはお前を……」
ランドの言葉をイセアセアラは小さくかぶりを振って制し、困ったように微笑んだ。
「弟にこんなにも良くしてくれた人達を失ったら、私がお父さんとお母さんに叱られてしまいますよ」
冗談めかした言葉は本気でもある。イセアセアラは二人へ深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
イセアセアラの揺るぎない決意へ、最早止める言葉も無かった。
「まあ、振り回されんのも楽しいってもんだ」
「ふふ、そうですね」
ランドとレグレルグが応えてから、イセアセアラは頭を上げてベンヴェヌートへ語りかける。
「お願いします」
「解った」
ベンヴェヌートが一呼吸置いて付け加えた。
「可能性を信じてあげて」
イセアセアラの体がより形を崩し、硝子へと吸い込まれていく。やがて硝子内で光が急速に強くなり、辺り一面を染め上げた。
誰かの腕の中にいる。長い間気を失っていたような感覚だった。
「ねえちゃん……」
覚えのある羽毛に包まれ、ネイネイエは目を覚ます。
「ネイ」
優しい声に、今まで凍っていたものを溶かされる気分だった。溶けた中からネイネイエの本心が顔を出す。
「おれ……ひとりになりたくねえよ……」
言葉と共に大粒の涙が零れ落ちたが、イセアセアラはそれを拭えなかった。体が徐々に光へ溶ける。
「大丈夫。貴方はもう、ひとりじゃないんだから」
不思議そうなネイネイエの顔も見えなくなるが、遠いとは思わない。これまでで最も近いところにあった。
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