微か確かに
■-2
「ぐうっ」
小さな輪を投げたが僅かに棒から逸れ、ランドが苦しげな声を上げる。
「……惜しかった」
左隣で同じく輪投げに挑戦しているヒカギが零す言葉に棘は無い。自身の出来る事と同じように、他者の出来ない事を認め始めているのだろう。
ヒカギの隣でレグレルグも挑戦しているが、失敗を重ねていた。残る輪はあと一つだ。
「うーん、こつはあるんでしょうか?」
「ある」
悩みへ応えたヒカギはレグレルグへ輪を手渡すと、自身も残っていた輪を持つ。しかしヒカギの構える姿勢は多少異なっていた。
「出した足の先は棒に向けて。輪は少しだけ手前に傾けて。手首で投げないで、押し出すみたいに、すると……」
言葉の最後で実際に投げてみせると、輪は吸い込まれるように棒へとかかる。レグレルグは助言を細かく確かめながら構え、狙いを定めた。緊張した面持ちでいるレグレルグをヒカギとランドが同じように緊張して見守る。
先程よりも整った放物線を描き、輪が飛んだ。飛んだ先で確かに棒へかかり、最高点の獲得となる。
「おおっ!」
「今の、上手かった」
ランドが歓声を上げ、ヒカギからも褒誉の言葉が零れた。
「出来ました! 有り難うございます、ヒカギ君」
顔を綻ばせて喜ぶレグレルグがヒカギには眩しく、僅かに俯かせる。だが、自身まで喜ばしくなる心地は不快ではない。
「……良かった」
照れ臭そうな笑顔にヒカギの年相応な部分が見えた。本来は素直に感情が表面化する性質なのかもしれない。
ふと、満点近い得点のヒカギが遠慮がちに提案する。
「景品、いる……?」
ランドとレグレルグの得点が景品に届いていない事を受けてのものだ。それにはレグレルグがランドへ目を遣り、ランドの促すような手振りを確認してから答えた。
「じゃあ、この一回だけ頂きます」
「一回だけ?」
何処か寂しげにヒカギが尋ねる。自身の出来る事で役に立ちたいと考えていたのだろう。
「はい。他の人も欲しいでしょうし……」
レグレルグはヒカギの手を取り、両手で包み込んだ。まだ小さな手だ。
「沢山あるのも勿論嬉しいですけど、大切な一つも嬉しいですよ」
「……うん」
今度は納得した様子でヒカギが頷く。そうして受け取った景品は紫色の装飾が輝く小さな髪飾りだ。
「綺麗だなー、ちょっと見せてくれ」
ランドに言われるが侭にレグレルグが髪飾りを渡すと、ランドはしげしげと眺めていたが、不意にレグレルグの頭へ手をやる。
「うん、やっぱり似合うな」
「えっ、あっ?」
一瞬で髪飾りを着けられた事にレグレルグが驚く横で、ヒカギが楽しげに笑っていた。
一頻り遊んでいると腹も減り、遊戯区画に点在する飲食店の屋台で軽く昼食を取る。中でも海産物の焼き物は豪勢であり、二人が食べた事の無い巨大な貝柱や高級魚に舌鼓を打った。それらを食べ慣れているであろうヒカギが特段美味そうに食べていたのは、決して味の所為だけではあるまい。
しかしふと、レグレルグが何事か考え込むように動きを止める。
「レグ、どうした?」
気付いたランドが声をかけると、レグレルグは困ったように笑った。
「ごめんなさい、ネイさんの事を考えていました」
「あー、成る程な」
「ネイ?」
納得するランドの横で、知らない名前をヒカギが尋ねる。
「はい。ネイネイエさんというセイレーンの人で、ヒカギ君より少し年上でしょうか、とても元気な人なんです」
三人で過ごした期間が色濃い事もあり、年の近いヒカギから連想したのだろう。
「此処の宿泊券を当てたのもネイでさ。ほんとは一緒に来たかったけど、ペア券だからって俺達にくれたんだよな。やんちゃが何処でそんな気の遣い方覚えたんだか」
ランドからの追加情報もヒカギは興味深そうに聞いていたが、ふと疑問を口にした。
「じゃあ、ランドとレグって、どんな関係?」
「えっ」
二人同時に驚きの声を上げ、二人して次の言葉が出てこない。
「えっと……」
「まあ、なんて言うか……」
徐々に顔を赤らめる二人をヒカギは交互に見遣ると、何かを納得したように一つ頷いた。
「ちょっと厠行ってくる」
告げるなり足早に場を去っていくヒカギの悪戯めいた笑顔に気付き、ランドは軽い溜め息交じりに笑う。
「はは、あいつもかよ」
「えっ、ええっ……!?」
遅れて気付いたレグレルグは驚きと気恥ずかしさに忙しいようだった。
舞羽々亭はヒカギにとって庭のようなものであり、一人で出歩くにも支障は無い。遊戯施設を一つ遊んだ程度で二人の元へ戻れば問題あるまいと考えながら、いずれ来る別れの時も考えてしまう。途端に淋しさに襲われ、それを振り払おうとヒカギは小さくかぶりを振った。
考えを巡らせながら歩き続けてふと横を見ると、先程までいた輪投げの屋台まで戻っていた事に気付く。輪投げには先客がおり、挑戦する男を女が見守っていた。男の投げた輪は明らかに無駄な回転や角度が付いており、呆気無く棒に弾かれる。
「あっれー、おかしいなー?」
やや調子外れに言う男の隣へ、ヒカギは勇気を振り絞り立った。そして係員に手を差し出し、察した係員が輪を渡す。無言は単に緊張からだ。
ヒカギは次々に輪を投げ、いずれも最高得点の棒へと通す。
「すっご!」
女が言葉を零し、男は唖然としてヒカギを見た。
「……あの」
ヒカギが言葉を言いかけた直後、男の表情が一変する。怒りの形相にヒカギは出しかけた言葉が喉の奥へ引くのを感じた。
「このガキっ、折角俺がっ」
悔しさが爆発したらしい。八つ当たりにヒカギが怯えながら行為の訳を必死に告げる。
「あ、あげたくて、景品」
「いらねえよ!」
「ちょっと、やめなさいよ……!」
騒ぎに周囲が驚き足を止め始め、連れの女も狼狽えるが男は止まらない。
「お客様、どうか落ち着いてください」
係員が仲裁に入るが、男に突き飛ばされて倒れた。男は続けてヒカギに向かって拳を振り下ろそうとする。恐怖にヒカギが目を固く閉じた瞬間、男の呻きが聞こえた。
「大人げねえなあ、おい?」
背後から手首を強く掴まれ、痛みに男が声を上げ身をよじる。男を押さえる人物がランドであると気付いたヒカギへレグレルグが駆け寄り、状態を確認した。
「怪我はありませんか?」
「無い、けど、なんで此処に……?」
「遅かったから探しにきたんです。無事で良かったですよ」
「うん……、有り難う」
涙を滲ませるヒカギの頬を撫で、レグレルグは背後を見遣る。ランドはまだ男の手首を解放せず、もう片腕もまとめて押さえていた。
「いでででっ離せっ」
「暴力は駄目だよな、解るよな、返事は?」
「わかっ、解りましたっ」
「じゃあ、まずはあいつに謝れるよな?」
呆れすらしているランドが無理矢理男の体をヒカギの方へ向ける。
「す、済みません、でしたっ」
其処で漸く手首を解放された男は恐る恐る女を振り返った。白けた表情でいる女は深く溜め息をつく。
「あんた出禁ね、此処も、あたしの前も」
決定打だった。女は騒ぎを聞いて駆け付けた警備員二人へ指で男を示す。脱力した男が連行される様子には目もくれず、女はランドへ頭を下げるとヒカギの前で屈んだ。
「怖かったでしょ、ごめんね」
「いいよ……」
絞り出されたヒカギの言葉に女は微笑む。先程の男とは釣り合わないような穏やかさだった。
「有り難う。貴方、とっても優しい人なのね」
敬意を込めた言い回しにヒカギも気付き、俯いたが照れた表情は隠せていない。
「……楽しんで」
小さな声だったが、ヒカギの言葉に女は一つ頷く。
「うん。貴方もね」
女は立ち上がるとレグレルグへ、そしてランドへも頭を下げた。
「有り難うございました」
女が連行された男の方角へ立ち去り、周囲は元の賑わいを取り戻したが、レグレルグは一抹の不安に呟く。
「あの人、大丈夫なんでしょうか」
気性の荒かった男から暴力を振るわれるかもしれないとの懸念だ。単純に心配する部分にレグレルグの性格が出ているのだろう。
「案外大丈夫かもしれねえな。ありゃいざって時は強えやつだ」
ランドの見立てに涙を腕で拭ったヒカギが付け加えた。
「あの人、すぐ謝れたから、きっと強いと思う」
言い訳をせずに非を認める事には多少なりとも勇気が必要になる。その事実を知ったヒカギの言葉は重かった。
夕刻になり、そろそろ二人は夕食の為にも部屋へ戻らねばならない。
ランドとレグレルグの間を歩くヒカギは、旅館の日程を知るからこそ淋しげに俯いていたが、不意に響いた呼び声で顔を上げ足を止めた。
「ヒカギ!」
旅館の制服でも特に上等なものと解る着物に身を包んだ男が駆け寄ってくる。
「お父さん……」
ヒカギが言葉を漏らすが、半開きで止まった口はそれ以上を言えなくなったらしい。男はヒカギの様子を見た後、ランドとレグレルグへ頭を下げた。どうやら根回しも滞りなかったようだ。
「ご迷惑をおかけし、申し訳無い事でございます」
「いえ、僕達も楽しかったですから。それより、ヒカギ君の言葉を聞いてあげてください」
「ご配慮、痛み入ります」
レグレルグの言葉に頭を上げ、男はヒカギの前で屈む。
「これまで、お前の言葉を聞かなさすぎたのだろう。済まなかった。お前の思う事を言ってみなさい」
ヒカギは相手と初めて向き合ったような心地になり、やがて少しずつ思いを打ち明けた。
「忙しいのは、解ってる。だから、淋しいのも、ちょっとは我慢出来る。けど……」
歪む声を絞り出しながら、ヒカギは男の腕を強く掴む。今だけは離したくなかった。
「ずっとは、つらい……!」
初めて伝えられた本音に詰まったヒカギの勇気へ応え、男はヒカギを抱き締める。そうしてヒカギの手を取って立ち上がり、ランドとレグレルグへ改めて頭を下げた。
「有り難うございました」
ランドが安堵の表情で二人を見遣る。もうヒカギへ極端に淋しい思いを強いる事はするまい。
「元気でやれよ、ヒカギも、あんたも」
「はい。もうこの子を悲しませぬよう、最善を尽くします」
「ランドとレグも、元気でね」
涙こそ残るが、ヒカギの表情は晴れやかだった。これからは胸の内を確かに伝えられるのだろう。
「おう! じゃあな!」
「有り難うございました!」
手を振りながら二人は背を向ける。手を振り返し、二人の姿が見えなくなってから親子もまた歩き出した。
宛がわれた続き部屋へ戻るとすぐに夕食の配膳となった。次々に並べられる肉や魚介類の豪勢な料理に気圧される心地になる。係員が退室してから恐る恐る食べてみると、味わった事の無い旨みが口内に広がった。美味さに箸も軽快に進むが、ふとランドは箸で摘まんだ刺身を見詰めて動きを止める。
「ランドさん?」
「ん、ああ、済まん」
レグレルグに呼ばれてランドは我に返り、停止の訳を口にした。
「ネイとウリュガさんにも食わせてやりてえなって思ってさ」
「そうですね……、こんなに美味しいんですからね」
二人きりの場には第三者を持ち出さないほうが良いのかもしれないが、ランドもレグレルグも性格上出来ず、それが互いに惹かれた優しさでもある。
食事を終える頃には夜になり、閉めていた引き戸を開けて露台から外を見てみると、提灯の灯りが眼下一面に広がっていた。見慣れた筈の光も今は幻想的に映り、レグレルグが小さく声を上げる。
「わあ……」
同じく夜景を見ていたランドはふと隣のレグレルグを見遣った。時折吹くそよ風が髪を揺らし、背後からの明かりで輝く髪色を微妙に変化させる。レグレルグの髪色はよくよく見ると玉虫色のようで、明るい緑色に暗色が混在していた。其処まで見て、思えばまじまじと見た事が無かったと気付く。
まだレグレルグに関して知らない事柄は多いのかもしれない。それを知りたいと思う理由を抱えながら、ランドは目線を夜景へ戻した。
「はあー……」
心地良い湯の温かさにランドが声を上げると、レグレルグが楽しげに笑いを零す。
「ふふ、お疲れ様でした」
「ん、お前もな」
羅々街で湯を張れる風呂を個人宅に持つ事は然程珍しくないが、広さは無い。水を汲み上げる技術はあるが、この露天風呂のように湯を直接汲み上げる機能の付いたものは殆ど無く、特殊性が窺えた。
湯へ沈みそうになりながらランドが呟く。
「あっという間だったなー……」
「色々ありましたからね」
「ああ、いや、今日もだけどさ」
ランドは自身の両手を見ながら続けた。
「此処まで来るのに凄え時間かかってる筈なのに、過ぎてみりゃあっという間なんだなって」
特にランドは創造神として生物の進化を見守った程である。遥かな時を過ごした筈だが、その時間より此処二年は遥かに色濃く刻まれている心地がした。それは得たものによる意識の違いでもあるのだろう。
「酷え事して、悲しい事もあって、ほんとは生きてちゃ駄目なんだろうけどさ。それでも生きてえって自分の思いに嘘つかねえで此処まで来て、良かったって思っちまう」
レグレルグにも当て嵌まるランドの言葉は苦々しさと喜びとが混じり合い、生きる事への苦悩を物語った。
「どんなに苦しくても、僕達は自分の行いを忘れずに生きていくしか出来ないんだと思います。それが願いだったんですから」
「そうだな……、そういう生き方しか、出来ねえよな」
死すら願われるであろう身で生きる道は業苦に満ちているが、それでも希うしか出来ない。
風呂から上がるといつの間にか食器を片付けられており、寝室には二組の布団を敷かれていた。触ると柔らかな感触が返り、質の良さを感じさせる。
ふとランドが横を見ると、手触りの良さに眠りへ落ちかけているレグレルグに気付いた。その頭を軽く撫でてやるとレグレルグが薄く目を開ける。
「ランドさん……」
レグレルグの手が重なり、ランドは思わず手を動かしたが、引けない。それにレグレルグが微笑み、動揺するランドを宥めるように手を撫でた。
「ランドさん、やっぱり優しいですね」
告げられた言葉へ反射的に口が開く。
「違えよ」
引き返せなくなったランドの顔に笑みが浮かぶ。自嘲だった。
「二年前、お前が病気になった時だな。初めて、何かじゃなくて、誰かを失くす事が怖えって思った時にさ」
言葉を聞くレグレルグの表情は変わらず穏やかだが、胸の内は見えない。
「こりゃただの独占欲だって、駄々捏ねてんのと変わんねえって気付いた。おまけに優劣まで付けやがって、ほんと嫌になっちまう」
「優劣、ですか?」
レグレルグの問いにランドは抵抗を諦め、静かに告げる。
「もし、ネイやウリュガさんと、お前の中で一人だけ選べって言われたら、俺は迷わずお前を取る」
切り捨てる覚悟をさせた感情の暴走を止められず、責め立てられるような感覚に襲われるが、最大の我儘をランド自身でもどうする事も出来なかった。
レグレルグはその我儘の正体に気付いているのか、やがて照れたようにランドの手を弄る。
「ランドさん、狡いです」
「な、なんで……」
レグレルグの指がランドの指に絡むと、熱を持つような感覚がランドの全身を襲った。
「ランドさんだけだとは、思わないでください」
レグレルグが身を起こしたまではランドも解ったが、抱き締められるまでは思考が追い付かない。暫くは固まっていたが温かな心地に堪らなくなり、やがてランドはレグレルグを掻き抱いた。それでもランドは身勝手を責める。責めるのは誰が為なのだろう。
「いいのかよ」
レグレルグが耳元で囁く。それだけの事がランドの身を震わせた。
「独占といえば、僕、ランドさんの事、食べてるんですよ? これが特別に思えなくてどうします」
レグレルグが病に罹った際、ランドの髪に生っていた実を食べさせたのは事実であるが、緊急事態の当時はそのように思う暇が無かった。今聞かされた途端にランドも意識するようになり、同時にレグレルグが抱えていた感情を知る。
レグレルグの背に回したランドの手に力が入った。そうして拗ねる。
「何だよ……そういう……」
「そういう事です」
肩口に顔をうずめるレグレルグの体温が、一際熱く感じられた。
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