その頃


■-5

 メレネーと別れ、夕方に住まいへと辿り着くなり明日の依頼が入ってきた。留守中に子供達の相手をしてほしいとの内容であり、最早馴染みすらある依頼者である。
「うちの子ら、お二人さんをすっかりお気に入りでね」
 お転婆な姉はヴィンコロへ、引っ込み思案な弟はイングラートへよく懐いていた。
「そりゃあ光栄だね。あんたも忙しいようだし、無理すんなよ」
 ヴィンコロが労うと依頼者は困ったように笑う。その目の下には疲れからか隈が出来ていた。
「有り難うね。それじゃ」
「二人に宜しくな」
 去る背中へ手を振るヴィンコロは、仕事だと理解しつつも僅かな割り切れなさがあった。母親一人で二人の子を育てるのは楽ではなく、実際に依頼者は製織場で遅くまで働いている。今日は早めに終わったのだろう。子供達に少しでも淋しい思いをさせないようにと、短時間ではあるが二人に依頼をしたのを始めとする付き合いだった。
 依頼者の背が見えなくなってからヴィンコロは手を下ろし、気分を仕切り直すように伸びをする。一連にイングラートは相変わらずの素直さを感じながら、何と無しにヴィンコロの頭を撫でた。七年間でその背もかなり伸びたが、まだ頭を見下ろせる位置にある。
「いきなり何だい」
「いいや。さて、軽く晩飯にするかね」
 ある程度満たされた腹をさすりながら、イングラートはヴィンコロと共に住まいの玄関を開けた。
 食事含む雑事を済ませた後、外に出たヴィンコロは一人で修練に励む。襲い来る相手を想定し、宙を薙ぎ払う足は風切り音を立てんばかりに速度があった。
 七年が気付けば過ぎたように、二十年は思うより短い。イングラートの力が失われた後も戦えるようにするには、今の内に鍛錬を積む必要がある。身体に動きを叩き込み、精神から恐れを取り除かねば、正確な攻撃を自在には出来ないだろう。
 イングラートは修練の立てる物音を聞きながら、凶行に走った女との会話を思い出していた。幸福の訪れは確かに罪を問わないが、それを許さない人々は罪過を背負う者を時に死の淵へ追い込む。その行為が本質的には凶行と同じものだとは些かも理解せず、石を投げ罵倒する事で正義を語るのだ。しかしそのような正義こそが秩序の源であるのもまた事実だった。
 悪事へと手を染めたイングラートもまた、罪過を背負うべきであると自身で思う。復讐を遂げたいと願う者も多々いるだろう。その復讐を止める権利は何処にも無い。だが、少なくとも今は易々と命を差し出せなかった。力の限り抵抗し、その上で訪れる結果だけを受け入れたいと願う。ただ、その願いは頼りない。
「あにさん」
 ヴィンコロの呼び声でイングラートは思案から我に返った。ヴィンコロの表情は何故か固く、手には紙を持っている。
「どうした」
「今配ってた。声が聞こえなかったかい」
「済まんな、聞き逃したようだ」
 答えながらヴィンコロから差し出された紙を受け取り、文面を見てイングラートは思わず溜め息をつく。赤インクまで使われた紙には、十年に一度行われる遺伝子検査の知らせが書かれていた。



 翌日の午前中、留守番をしている子供達の元を尋ねる。出迎えた姉の後ろで弟が遠慮がちにしているのも見慣れた光景だ。
 昼食を作る事も依頼されており、姉がヴィンコロへ野菜を手渡す。部分的に若干の傷みが来ており、なるべく使用してほしいと事前に親から頼まれていたのだろう。その他は少量ずつ幾つかの野菜を使い、煮込み料理を作る事にした。姉は興味深そうに調理を見ていたが、やがて手伝いを申し出て聞かなくなる。刃物や火を任せる訳にはいかず、鍋へ材料を入れるだけをさせると姉は再び調理を見守るに戻った。手伝った事実が重要らしい。
 料理の香りが漂い始めると、イングラートに凭れて本を読む弟の腹が鳴る。読書を好む弟は偶にしか口を開かないが、話す時は嬉しそうにイングラートへ本の内容を伝えていた。
「お腹の虫って、いい虫なの? 悪い虫なの?」
 丁度虫が登場する物語を読んでいた弟がイングラートを見上げて尋ねる。
「俺はいい虫だと思うがなあ。腹が減って倒れちまう前に教えてくれるしな」
「そっかあ」
 無邪気な笑みを家族以外へ見せるのも滅多に無いといつか聞いた事があり、その繊細さに好かれたのは有り難いとさえ思えた。
 しかし不意に脳裏を過るのは遺伝子検査の件だ。年頃からしてこの姉弟は検査の経験が無いだろう。果たして無事に済んでくれるのかと考えたところで何を解決出来る訳でも無く、我が身とて危ういのだと思い出させた。他者の心配をしている暇も無い。
「出来たぞ」
 ヴィンコロの声で思案を打ち切り、イングラートは弟を抱き上げて食卓へ向かった。姉弟は着席するなりヴィンコロの作った昼食を食べ始める。
「美味しい!」
 姉が言葉を零し、弟は夢中で食べていた。その様子を見ながら二人は持参したパンに齧り付く。メレネーの働く店で買ったものだが、肉野菜詰めパンではなく味付けの無い安価なパンだ。
「あにさん」
 ヴィンコロに呼ばれて振り向くと自身の眉間を指差すさまが見える。イングラートは表情を緩めて小さくかぶりを振った。これは焼きが回ったとでもいうのだろうか、思う時点で既にそうなのだろう。



 三日が過ぎ、早朝に国の役人が数人住まいを訪れた。仮面と手袋、分厚いローブに身を包んだ姿は人物像すら判断出来ず、かといって役人以外が成り済ますには刺繍や装飾品が豪奢なので難しいだろう。
 左手親指へ針を刺し、滲み出た血を何の変哲も無い紙片へ押し付けた。紙片が血の情報を読み取り全てを判断するというが、国民にとっては不信感しか無い。しかし逆らえば即座に国外追放となる為、検査を受ける国民が多数だった。
 もし不合格ならば、噂では紙片が燃え尽きるという。紙片を血の持ち主の左掌に乗せ、ほんの僅かな間を置いて役人が告げる。
「お二人共、おめでとうございます」
 抑揚の無い言葉だったが、結果としては充分だった。役人達は一礼すると早々と去り、静かになったところでヴィンコロが大きく伸びをして緊張をほぐす。
「いつやっても身の凍るもんだな」
 イングラートが溜め息混じりに言葉を零した。血の情報が若返ったイングラートを見抜いたのか否かは解らないが、紙片は合格を出したようだ。
 検査期間である昼まで動ける国民は少なく、依頼も午後から入っている。本を読んで空き時間を過ごすヴィンコロは、段々と頁をめくる手が鈍り、つと本を閉じると速い足取りで玄関へ向かった。
「散歩してくる」
「ああ」
 落ち着きの無いヴィンコロにイングラートは無力を噛み締める。膨れ上がった不安をどうしてやる事も出来ないのであれば、己の力など小さすぎるものだった。
 そうして閉まった玄関を見詰めていると、其処に突如として暗闇色の染みが現れる。小さな歪みからはやはりあの異形が姿を現した。
「そうそう、普通、思い通りはそうそうありゃしないよ」
「観察中が何の用かね。それとも飽きてくれたか」
 イングラートが寝台へ腰かけながら低い声で問うと、異形は舌を出して答える。
「しししし。あんたが死ぬまであたしは見てるよ。面白いのはこれからってもんで」
「未来予知でも出来るってのか」
 異形は否定を示して舌を横に動かした。
「いやいや、其処までのものは無いさね。ただ、あたしは観察者。今もあんたに関する全部を見てるって寸法よ」
 言葉にイングラートの眼差しが鋭く冷たいものとなり、それを見て異形が耳障りな笑い声を上げる。
「ひっひっ、どうぞ必死に過ごしておくれ」
 異形は宙返りして歪みへと消え、歪みそのものも閉じた。



 早足が行く先はヴィンコロ自身も解らない。ただ動いていたかった。頭を掻き毟りたい程に思考が喧しく、胸騒ぎが胸元を食い破ってしまいそうな感覚がする。大丈夫だと言い聞かせて己を落ち着かせようとしたが、根拠の無さは言葉を軽々と蹴り飛ばした。
 足だけでも止めようとして、漸く止まった時には口から短く憤りが漏れる。
「くそっ」
 吐き捨てて俯くと己の足が見えた。何をやっているのかと自身で呆れる。溜め息をついて顔を上げたヴィンコロの目に、不安の塊がこちらに向かって歩いているさまが見えた。相手もヴィンコロへ気付き、足を止めると見た事の無い虚ろな瞳を向ける。
「ヴィンコロ」
 呟いたその口が歪む。幼い頃ですらしなかった、深い絶望だった。
 ヴィンコロが駆け寄ると精気を失った瞳に大粒の涙が浮かび、物語る結果を震える声が改めて紡ぐ。
「検査、駄目だった」
 絞り出されたメレネーの声は消え入りそうだった。目の前にある現実へヴィンコロは怒りを覚える。支えや大切なものを失って尚も懸命に生きてきた事実を知っているからこそ、その激しさを増した。そうして無意識に作った拳は堪えきれず震えているが、此処で怒りを爆発させてしまえば感情が無力である事実を語ってしまう。行き場の無いものが体中をうねる感覚は耐え難い苦痛だった。
 ヴィンコロの様子にメレネーが無理矢理に笑う。
「ごめん、困るよね」
「メレネー」
 乱暴に涙を拭うメレネーへかける言葉をヴィンコロは必死に探した。探す程度しか出来ない。
「まだ死んだ訳じゃない」
 考えた末に綺麗事しか出てこなかったが、思考へ浮かぶ言葉を無理矢理に絞り出す。これではないと否定する暇も無かった。
「出来る事の全部を見失わないでくれ。限界まで足掻いてくれ。生きてくれ」
 ヴィンコロの苦悩が滲む言葉にメレネーは強く頷く。無力故に出来る事は少なかったが、少ないなりに出来る限りを尽くしていたかった。



 住まいに戻ったヴィンコロの暗い表情を見て、イングラートは一つだけ問う事にした。
「お前の選択を聞かせてくれんかね」
 国外追放者と共に出国する事は禁じられていない。イングラートはヴィンコロとの契約の破棄も視野に入れていた。メレネーの身を案じるならば、ヴィンコロが付いていく事も出来る。
 意図を汲んだヴィンコロは一旦目を丸くしたが、次には苦笑した。
「俺は此処にいるよ。契約は契約で、俺の信念だから」
 答えて、放っていた本を手に取ると元の場所へしまう。最近は科学の本をよく読んでいるが、中身の一部は国により捏造されているかもしれなかった。
「あにさん」
 ヴィンコロは一瞬続ける言葉に悩んでから、振り向いてまた口を開く。
「有り難う」
 イングラートは一つ頷きを返した。向けられた悲しげな微笑みに迷いは無い。迷ってはいけないのだ。



 一週間の後、国外追放者の出立の日になると出入国口に人が詰めかけた。望まぬ出立を涙で見送る者もいれば、幼い子供が対象になった為に一家で出立する者もおり、垣間見える様々な事情のいずれにも明るさは無い。昔は追放者が近くに作った町も幾つかあったらしいが、全て帝国によって滅ぼされたという。
 ヴィンコロは案の定メレネーの見送りをする余裕が無かったが、不安はもう無かった。メレネーは歩みを止めず、進む。それを両者共に解っているからこそ、寂しくもない。
 迷い無く、また一歩を踏み出した。



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