蝶々行路


■-3 惨苦の羽音

 笑う、しかし回数は減った。
 笑う、しかし仄暗い。
 憔悴の進行と共に、幾日も過ぎた。



 私は何も出来ない侭でいる。
「悲しいよ」
 求められるが侭しか出来ないでいる。
「怖いよ」
 進展は、何も無い。
「淋しいよ」
 その涙は止められない侭だ。



 その記憶が真であるかは、我々の知る由も無い。だが確実に、鳳蝶卿の見る景色は存在している。終焉の記憶、絶望の記憶は、確実に鳳蝶卿の心を蝕んでいた。
 私はそれを知りながらも、何一つ解決出来ずにいる。解決への糸口を探すも、見付けられない侭でいる。



「ごめんね、白蝶卿」
 傍らの椅子に深く、疲れたように腰かけた鳳蝶卿が口を開いた。
「私は最近、我儘を言いすぎているよね」
 同じく椅子に腰かけている私は、鳳蝶卿にはどのような姿に見えるのだろうか。
「そのような事は無い」
「貴方は優しいから、そう言ってくれるけれど」
「鳳蝶卿」
 私は鳳蝶卿の言葉を止めようとしたが、止まらない。
「……幻に踊らされるのは、私だけでいいんだよ」
「貴方にとって幻ではないだろう。確かに見えているものだ」
「そうだろうけれど、貴方を巻き込みたくないんだよ」
 私と視線は合わせない侭だった。
 呑気を好むが、鳳蝶卿が気にかけるのは他者である事が多い。他者の為ならば愛する呑気とて容易に捨て去る人物だ。
「介入したのは私なのでな。貴方にどう言われようとも、退く気は無い」
 私が願いの侭に告げると、鳳蝶卿はやはり力無く微笑む。
「……ごめんね」
 私はただ、朗らかな笑みを取り戻したいだけだ。



 私は時間があれば、あの路地裏へと足を運ぶ。鳳蝶卿が記憶を見付けた場所へ。
 来たからと、何が出来る訳でもない。それでも此処へと来てしまうのは、一縷の希望へ縋りたい、ただそれだけだ。希望があるかも解らないというのに。
 地を見て、空を見て、隅を見て、陰を見て、今回も何も見付けられずに立ち去る。



 泣き声が微かに響いている。
 この行為は何より恐ろしいものであろう。だが最早、奥底まで求めなければ、間近に感じなければ、壊れてしまうのだ。
 鳳蝶卿は縋り付く。私にしか縋れないのだと聞いた。だが私は何も為していない。成していない。
 全てが歯痒いものだった。



「白蝶卿」
 朧げな意識に呼びかけが届いた。恐らくは漸くだろう。
「ロゼリーニ」
「少々お休みください……根を詰めるも悪うございます」
 侍従長の表情には苦渋の色があった。
 鳳蝶卿の件は子細こそ伏せているが、その変貌はこの地でも知るものとなっている。そして私が夜更けになろうと、文献を漁り続け眠らなくなった事も。
「出来る限りの事はしておきたい。時間は進む一方だ」
 侍従長は迷ったのか、少し間を置いて告げる。
「……ロゼッティーニから聞き及んだものではありますが、鳳蝶卿は白蝶卿をとても心配しておられるそうです」
 思わず溜め息が零れた。その余裕も最早無いだろうに。



 路地裏には相変わらず何も無い。私は無意味に事を繰り返しているのだろうか。
 何か、欠片でもいい。見付けられるものはないのだろうか。
 ふと、雫が地に落ちた。先程にわか雨がやんだばかりだ。
 地に出来た点を見詰めていると、急に辺りが暗くなる。雲が出たかと思った。しかしこれは、此処ではない。何処かのものだ。



 滴り落ちる。
 己の荒い呼吸は、常に欲望に塗れていた。
 だが今日、今は、違う。腹が熱い、痛む、気が狂う強い感覚だ。
 その恨みは己の罪を無視している。罪深いが故に、復讐を受けた。
 死の淵で求めている。生きる事を、罪を重ねる事を。
 ふと、最後にこの手が壊した少女を思い出した。あの甘美な感触を。確かに求め、そして途切れた。



 我に返った時、私は崩れ落ちていた。乱れた呼吸を整えられない。
 解らない。果たして予想通りの人物か、それとも全くの別人か。
 解らないからこそ、果てしない恐怖があった。



 私が見た記憶を、真実ではないと否定するにはあまりに生々しい。
 ともすると、鳳蝶卿はその感触に耐え続けている事となる。
 私以上に苦しい記憶を耐えているのだ。



 気晴らしの回数は増えた。
 我々の体こそ無事だが、服は無事では済まない。いっそ裸でやれと侍従の者から苦情が来ないだろうか。
 鳳蝶卿の剣が何処か迷いがちに振るわれる。私はそれを受け流す。受け流す事しか出来なかった。
 やがて鳳蝶卿は動きを止めた。私も動きを止める。
「……どうした」
「白蝶卿こそ、どうしたの」
 剣は素直だ。互いに迷いが表れる。この迷いは、答えを聞かなければ晴れないのだろうか。
 だからこそ、迷いへ問いを投げ付ける事にした。
「鳳蝶卿」
「何かな」
「その手に持つは、青色の兎か」
 鳳蝶卿は目を見開いた。声を止めた侭でいる。
「その髪は、藍色か。髪を飾るは、萌葱色の帯か。その瞳は、菫色か」
 私は取り返しの付かぬ事をしているのだろう。
「その時は、昼か」
 鳳蝶卿は絶叫した。そして剣を突いた。
 だが、私は痛みを感じなかった。あと少しだというのに。
「何故止めた」
「だって……だって!」
 表情が歪むのは何の為か。鳳蝶卿は剣を下ろす。あまりに見たくない光景だ。
 私は歩を進めた。
「鳳蝶卿」
 鳳蝶卿の体を腕の中へ引き寄せる。
「私を恨め」
 耳元で囁き、離した体を一息に貫いた。
 剣を引き抜いた胸元からの出血が互いを汚す。鳳蝶卿はよろめいたが、私の腕を掴んで立っていた。腕を掴む力は強い。握り潰さんとするようだった。
「……終わりにしろ。それで貴方は全てを果たす」
 私は掴んでくる腕を斬り落とした。そして鳳蝶卿へ背を向ける。
 一歩進みきらない内に、脳天から衝撃を受けた。私は縦二つに割れて倒れた。
 動けない私へ、苦しげな鳳蝶卿の言葉が降ってくる。
「こうでもしないと、貴方は行ってしまうんだから……!」
 予想外の言葉に驚き、視界のみを動かして私が見たものは、酷く淋しげな顔だった。



 体を修復させたが、多大なる疲労感で互いにその場で寝転がっていた。風も吹かず、周囲は静かだ。
「どんな人だったの、貴方の見た人は」
 鳳蝶卿も私も、青々とした空を見詰めている。
「醜悪な輩だ。何処までも欲望に塗れていた。復讐を受け、死の淵に立って尚、欲望を捨てなかった」
 私は一つの仮説を続けた。
「私は、貴方への欲望を此処に繋げたのかもしれない」
 何処までも追う貪欲さが鳳蝶卿を縛っているのなら、終わらせたかった。
 私の考えを見透かしたのか、鳳蝶卿は小さな溜め息を言葉に混ぜる。
「ロー。仮にそうだとしたら、終わらせろ、なんて私には言わないよ」
「……事実は其処にあるかもしれない」
「でもね、もう終わってしまった事なんだよ。此処にいるのは、私と貴方じゃあないのかな」
 私は閉口するしかなかった。過去に囚われるとはこの事なのだろうか。
「私もなかなか吹っ切れられなかったから、言えた義理じゃあないのかもしれない……。それでも、今此処にいる貴方との関係にまで及ぶのは、悲しいよ」
 鳳蝶卿は手を伸ばし、私の手に触れた。
「だから、全てを見ようと思うんだ。過去を、現在を、未来を」
「……出来るのか」
 それは、私に。
「きっと出来るよ。一緒だから」



 求めずにはいられなかった。
 互いを求め、感覚に耽る事の何と幸福な事だろうか。記憶が暴れているが、あまり苦しくはない。今がある、今此処に居るからだ。
「私は、漸く此処に、居るのかも、しれないな」
 互いに奥底まで求められ、受け入れる。だが満たされない。
「私も、一緒だよ。私達は、やっと私達に、なったのかも、ね」
 この欲求は我々のものだと、いつまでも確かめていた。



 気晴らしをする事はごく稀になった。その代わりなのだろうか、増えた事がある。
「今月のも美味しそうだねぇ、飾りも可愛いなぁ」
 今回は鳳蝶卿が私の邸へ訪れている。出された小型のタルトケーキに目を輝かせていた。
「今月も自信作だそうだ。早速食べるとしよう」
 互いに、仕える料理人が月替わりの菓子を出すようになった。そして相変わらず街に出た時も菓子を食べに行く。鳳蝶卿も私も甘味好きなのだろう。
 始まりはいつだったか、私が二人分を料理人へ頼んだ時からだ。自分から注文を付けるという行動は私らしからぬ事だったようで、大層驚かれた記憶がある。
「それじゃあ、いただきます!」
「いただきます」
 食べる前の挨拶も、自然に出てくるようになった。
「んんーっ美味しい、ふんわり優しい甘さが堪らないねぇ」
「しつこくなく食べやすいな。これも美味い」
「作った人に宜しくねぇ、白蝶卿」
「しかと伝えておく」
 其処でふと、鳳蝶卿が小さく笑った。
「どうした」
「白蝶卿は、よく笑うようになったね」
「そうだろうか」
「此処の人達も言ってたよぉ、表情が豊かになったって」
「……そうか」
 少々照れ臭い気はするが、悪い気はしない。
「私としても嬉しいなぁ。色々な貴方が見られるから」
 臆面も無く告げられる。
「……正直者は時に狡いな」
 こんなにも追い詰めるのだから。



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