有漏路の幽鬼


■-24

「ねえ、一つ気になるんですけれど、貴方は空中に出来る染みの事知ってますか?」
「しみ……?」
 よく解らない、といった声音で化け物が返す。ええと、と彼は言葉を考える。解らないものを説明する事は難しいが、言葉が通じるという事は何と考え甲斐があるのだろう。
「空中に、俺は黒いものを見たんですけれど、染みが出来て。其処から、見た事無い生き物が飛び出してきたんです……生き物はすぐ死んじゃいましたけど」
 化け物は何回かまばたきをしてから声を出した。
「しみ……、それは、じくうの、ゆがみ……」
「じくう? 時とか空間とかの、時空ですか?」
 いきなりファンタジーな単語を出されたが、彼に解りやすく説明するにはこの言葉が一番なのだろう。化け物は話を続ける。
「ここは、とじたせかいだった……、あかない、あけられないせかいだった……、いまは、せかいがこわれて、とじていたものも、こわれた……」
「閉じた世界? 何か特別だったんですか、此処」
 世界を基準にしている辺り、此処以外にも世界というものがあるのだろう。
「とじたせかいは、あまりない……」
 聞いて思わず呆れた声が零れる。
「なーんだ、人間ってやっぱり小さかったんですね」
 閉鎖されているとも知らず、それが全てと思っていた。人間はやはり傲慢だったのだ。そして、此処以外に世界があると知った途端、此処の全てがつまらなくなった。
「にんげんは、たくさんいる……。すこしちがう、にんげんもいる……」
 化け物のこの知識は、恐らく迷い込んだ生き物から情報を読み取ったのだろう。見たように、体験したように言う。
「このせかいと、よくにたせかいもある……、だけど、にせものじゃ、ない……」
「どうせ、どっちも自分の世界が本物だって思ってるんじゃないですか?」
 触手の一本を撫でながら軽い予想を言うと、肯定の言葉が返ってきた。人間はやはり愚かだ。
「嘘の世界なんて、本当は無いんですね」
 何も知らない上での言葉だが、何か大きなものを知っての言葉でもあった。化け物はそれを解ってくれたようだ。
「すべては、そんざいしている……、うまれることも、きえることも、すべて……」
 生まれた事実と消える事実。誰に知られなくとも、それは小さな物質から世界まで、共通のサイクルであり記録なのだろう。
 ふと思う。
「あの染み、時空の歪みは、入ったら向こうの世界に行けたりするんですか?」
「むこうがわは、せかいとつながっている……、とおれば、そちらにいける……」
「それなら!」
 勢い良く立ち上がり、化け物へ笑顔を向けた。
「こんなところさっさと捨てて、行きましょうよ! 根っこもどうにかして切り離して!」
 つまらない世界に化け物を閉じ込めておくのは惨い仕打ちだ。きれいないきものを、どうして汚い世界の為に縛らなければいけないのか。
 化け物は、彼を三つの瞳でじっと見詰めている。
「それは、できない……」
「どうしてですか、こんな世界、壊れたっていいでしょう!」
「わたしは、このせかい、そのもの……、はなれることは、できない……」
「そんな」
 顔を歪めると、触手が一本伸びてきた。それを腕に抱く。
「酷すぎますよ……!」
 惨いにも程があった。本当にこの世界は人間の勝手に似すぎている。自身の為なら平気で他人を利用する。
 化け物は、紫色の瞳を動かさず、そっと言った。
「それに、ここは、あなたのふるさとだから……」
「そんな事、どうだっていい……」
 化け物の目が濡れるのを見て、言いかけた言葉を止めてしまう。
「ここは……、あなたをうんだせかい、あなたをころしたせかい、だから……」
 生まれた事実と、消えた事実。
 崩れ落ちる。この感情は久々だ。寂しい。悲しい。憎い。嬉しい。
「どうだって……いいんですよ……」
 ちっぽけな自分を、世界は認めてくれていた。



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