有漏路の幽鬼
■-25
出会ってから、化け物の側を離れなかった。
面白いから。楽しいから。だが、それだけではないような気がする。離れたくない、この感情は何なのだろう。
痛みを感じた。空から死の雨が降ってくる。化け物が触手を屋根のように広げてくれた。その下で雨宿りする。化け物に、痛くないか、と尋ねると、痛くも痒くも無いのだと答えられた。しかし、こんな雨に晒すのはあまりにも酷い仕打ちだと思う。
この死の雨に適応した生き物が、現在のこの星の生き物だ。やはり自分は変化も生きもしない『ばけもの』に過ぎない。変化させた体と、今の人型の体、どちらが今の自分にとって正しい姿なのだろう。それすら曖昧になってきた事実が、お前は『ばけもの』だと告げているように思えた。
喋る時もあれば、一言も話さずに寄り添っている時もあった。人間を見付けた時はあんなに会話に飢えたというのに。化け物といると、側にいるだけでも安らいだ。
染みが時々、見える場所に現れる。あの向こうへ行けたら。二人で行けたらいいのに。何度も考える。
「どうしたの……?」
雨降りの中、化け物が訊いてくる。
「かなしい、かおを、している……」
触手にも感知能力があるのだろうか、化け物の目は此処から見えない。
「そうですね……」
他人事のように言ったのは、自覚が無かったからだ。素直に他人の印象を受け入れるのは、初めてかもしれない。
雨は降り続ける。足や尻が少し痛むのは、地面に滲みた雨の所為だろう。
「こんなところ、いたくないです……」
それが、一緒にいたい、という意味だという事は、化け物に伝わるだろうか。
化け物はそっと言う。
「あなたは……、ここにいるべきじゃ、ない……」
この化け物ならばこう言ってくれるのだろう。予想は付いていた。だが言葉は続く。
「けれど……、わたしは、あなたと、いっしょにいたい……」
悲しさだけが身を襲う。化け物の感情を受け取ると苦しくなる。膝に顔をうずめて、表情を悟られないようにした。
「だから……、すこし、まっていて……」
言葉に顔をゆっくりと上げる。雨はやんできていた。
「待てば……待てば、いいんですね……?」
雨がやみ、屋根の外へ出る。化け物と対峙して、三つの瞳を見詰めた。
「まっていて……」
その声の弱々しさに込められた感情は、あまりにも強かった。
彼は頷く。
「待ちます、待ってます……貴方の事を、待ってますから」
会話は殆ど無くなった。ひたすらに待っていた。大丈夫か、その確認だけ気を付けて、化け物の邪魔をしないよう、待ち続けた。
化け物の触手は、屋根の形を作った侭動いていない。集中の邪魔はしたくないと訴えたが、化け物は譲らなかった。
雨を凌ぎ、染みを見遣り、ただひたすらに待った。どうしてこんな退屈な事を自分は出来ているのだろう。いや、今は退屈とは感じない。化け物が無事かどうか、それだけを考えていた。
そして、後に解る事だが、一年半が過ぎた。
「すこし、はなれて……」
久々の声に、そっと立ち上がる。目を逸らさずに化け物から距離を取ると、触手を地面に垂らした化け物は少し震えた。それから目を閉じる。
すると、触手の間から何かが吐き出された。青い液と透明な液に塗れたそれは、震える手足を使って懸命に立ち上がり、覚束無い足取りでこちらに歩いてくる。動けなかった。その産まれたばかりの歩みを見ていたかった。
産まれたものは、一人の少女だった。背は自分と同じ程度の、小柄な人型の少女だった。瞳は紫色、うねる長い髪は虹色をしている。
少女は目の前まで来ると、そっと体を抱き締めた。
温かい。腕から生きている力を感じる。それが今、自分にだけ与えられている。自分の為だけに、この優しさがある。
「う、う、う」
この温もりを、受け取っていいのだ。
「うっ、あ、うああ」
過去の何処を探しても、こんなものは無い。その事実が、怒りを、悲しみを、一気に溢れさせた。
「うえええっうわああああんっうあああっああああっ」
泣き叫んでいた。泣き方も解らずに泣いた。この感情で泣くなど、これまで一度も経験した覚えが無かった。
少女に縋り付く。弱々しく煩い自分を、少女は抱いていてくれた。化け物は二人を見て泣いている。
暗く汚い恨み。惨めで寒い寂しさ。そんなものさえ、拒まなかった。自分でも解らない感情が駆け巡る。貪欲に求めてしまう。体を、心を、存在を、全てを。
そして、全てを、受け入れてくれた。
泣きじゃくり、身を離して少女の顔を見る。少女もまた泣いていた。それに嗚咽しか出ない。少女は口を開く。化け物と同じ、あのか細い声だった。
「わたしの……なまえは、セメンツァ……」
記憶の底にあった名前。星の再生計画。末裔計画。現地の言葉では、プロジェット・セメンツァ。
この星の生贄の名前であり、この星の、人間の末裔の名前だ。
再び少女をきつく抱いて泣きじゃくる。
人間め、この結果はどうだ。愚かなお前は、全てを、醜い感情を、たった一人にのしかからせた。このか弱い存在達に。
少女は耳元で囁くように言う。
「あなたの……なまえを、おしえて……」
愚図りながら遠い昔の記憶を漁り、人でなくなった自分の名前を見付けて伝えた。
少女が身を離し、じっとこちら見詰めて言った。
「まっていてくれて、ありがとう……フレイアルト……」
愚かな『ばけもの』を、セメンツァは受け入れてくれた。
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