私雨奇譚


■-3 慈雨

 わたくしはとある研究者のかたと出会いました。道端で壊れかけていたわたくしを拾ってくださったのです。
 わたくしを手早く修理し、側に置いてくださいました。其処は研究者のかたと、一家が共に暮らしていらっしゃいました。
 お子とは血の繋がりは無いとの事でしたが、それはまさしく家族でした。夫妻と、今まさに生まれようとしているお子との間には、確かに温かな情がありました。
 研究者のかたと一家の間にも、確かな情がありました。
 わたくしには手に出来ないものでした。



「行かないと……」
『宛てがあるのですか』
 わたくしの呟きに一家の旦那様が告げました。旦那様、そして奥様には、姿形がありません。身振り手振りは人形を代わりとして、言葉はインクを宙に操った筆談でお話しされていました。
「ありません」
『では、どうして』
「わたくしは、災いしか呼びません」
 黒インクは一旦雫になり、それからまた文字になりました。
『その災いとは戦わないのですか』
「戦う?」
 すると白インクと、もう一つの人形が宙を流れてきました。奥様です。
『折角の困難、挑戦してみては如何?』
 奥様の言葉に、旦那様の人形がうんうんと頷きました。そして黒インクが語りかけます。
『困難へ挑みかかる事は苦しくもあります。しかし困難を越えて達成した時に、誰もが変化と成果を掴み取るものです』
「わたくしは……変わる事が出来るのでしょうか、何かを得る事が出来るのでしょうか」
 奥様の人形が、わたくしの肩を軽く叩きました。
『貴方は此処に居るのよ。その体と心は飾りかしら?』
 わたくしは認められたのでしょうか。
 いいえ、わたくしが認めていなかっただけなのです。わたくし自身を。



 それは、研究者のかたから定期検診を受けている時でした。
「うん、だいぶん解ってきた」
 特殊な眼鏡を外し、研究者のかたは続けます。
「君は、君自身についてどれくらい知っているの?」
「何も知らないに等しいと思います」
「そっか。これまで調べた事から、君の構成要素がだいぶん解ったよ。材質から、その性質まで。知りたくないなら話さないけれど、知っておいたほうが色々役に立つと僕は思う。ただ……」
 研究者のかたは表情を曇らせて告げました。
「つらいものに触れる事になるのも、覚悟しておいてね」
 わたくしは形無き奥様の言葉を思い出しました。
「お聞かせ願えませんか。わたくしは、それを知らなければならないと、それに挑まなければならないと思うのです」
「うん。解った」
 わたくしの目をじっと見て、研究者のかたは頷きました。



 わたくしを構成するもの、まずは材質を告げられました。
 ビニール、ナイロン、アルミニウムなど。わたくしの生まれた世界では、何処にでもある物質でした。
 そしてそれらの骨組みを肉付けする、わたくしの性質。それは強い怨みなのだと告げられました。
「ただし」
 研究者のかたは続けます。
「その怨みは、綺麗になり続けていると言ったらいいのかな。無くならずに、少しずつ変化しているみたいなんだ」
「今も変化しているのですか」
「うん。それも変化を始めたばかりに見えたよ」
 それは、わたくしが自身と向き合おうとした事で起きた事なのでしょうか。
「あとね。その怨みは、君とは別個、単独で意思を持ってる部分がある。君が会おうと思うなら、会えるかもしれない」
 わたくしの怨みは、わたくしをどう思っているのでしょう。思い返せばわたくしは、わたくしを大切にはしていませんでした。それはわたくしの怨みに、つらい思いをさせていた事になるのでしょう。
「会わせてくださいませんか。わたくしは、わたくしの怨みに、会ってみたいです」
 そうしてこの身をまた壊されようとも、後悔はしないのでしょう。



 会う為には、特殊な石を使用するそうです。わたくしの魂の一部を外界に転移させる、との説明を受けました。長く転移させていると穴の空いた魂が壊れ始めてしまうので、四十八時間という期限が設けられました。
「少し気分が悪くなるかもしれないけれど、それには害は無いからね」
「解りました」
 注意事項に頷いて、石の前にわたくしは立ちました。浮かんでいる丸い小さな石は、淡く光っているように見えました。
 そっと手を伸ばして触れると、石へ煙の奔流のようなものが流れ込み始めました。体の内側から何かが出て行くような喪失感がありましたが、それ程苦しくはありません。
「いいよ、手を離して」
 手を下ろした途端に疲労感が溢れてきて、その場に座り込むしかありませんでした。
 見上げると、石は淡く光を放ちながら、形を大きなものに変化させていました。やがて形は、丁度わたくしと同じ大きさになりました。それだけではなく、輪郭を持ち始めた形は、わたくしとよく似ていたのです。
 出来上がった形に色が付きました。鮮やかな色でした。
「……馬鹿ね」
 ぽつりと呟かれました。
「ずっとずっと、貴方は私のものまで引き受けて」
 伸ばされた腕は、わたくしと同じ、細い金属の腕でした。
「そんな貴方を、私が怨める訳ないじゃないの」
「でも……わたくしは、貴方に気付いてもいませんでした」
「いいの、隠れていたんだから。でもね、これだけ言わせて。見付けてくれて、ありがとね」
 わたくしの頬を撫でて、笑顔を向けてくれました。



 最初からわたくしの事は怨んでいなかったそうです。ただ、わたくしの事が不安で仕方無かったとも聞きました。そして、わたくしが向き合おうとした事が、嬉しかったとも。
「全部我慢するしかなかったのよね」
「わたくしは吐き出し方も、癒し方も知りませんでした。知ろうともしませんでしたから」
「でも、気付いてくれたわね」
「向き合って、それからどうすればいいのか。初めて、それについて考えようと思ったんです」
 わたくしは、わたくし達は、漸く自身を知ろうとしているのでしょう。



「これから、したい事はありますか?」
 許された時の中での事を尋ねました。しかし答えは、全く別でした。
「そうね……。名前が欲しいわ」
 言葉の後、慌てたように続けます。
「あっ、乗っ取りたいとか、そういう事じゃないわよ。私がいるって、貴方に解りやすく覚えていてほしいだけなの」
 それは、わたくしの味方でいてくれるという事でもありました。
「有り難うございます。では、何か考えませんと……」
「ううん、いいの。もう決めてあるから」
「何ですか?」
「零。怪雨 零。雫は零れ、枯れた其処を潤すの」
「いいお名前だと思います、とても」
 するとわたくしに、零は悪戯っぽい表情で言います。
「これだけだと思わないでくれる? 貴方の名前も、ちゃんと考えてあるのよ」
「わたくしの?」
「だって、怪雨は姓にしちゃったもの」
「それはそうですが、わたくしは……」
 何も生まない。災いを呼ぶ。わたくしは自身の事をそう思っていました。
「大丈夫。今の貴方なら、この名前がぴったりよ」
 零はにこりと笑いました。



 慈雨(じう):程良く物を潤し育てる雨、日照り続きの後の雨

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