苦しみよ解き放たれ給え


■-3

 先帝ジェラールが病に敗れた事は、静かに広がっていった。情報が帝国から漏れ出し、大いに流れ出ている事を、幾人かは予測していた。主に戦士である。
 少女も、戦士の魂に教えられる。
 沈む夕日に故人を思い、そして走り出した。空に浮かぶ黒い影を駆逐せんと。



 いつか小鬼ゴブリンの群れが来襲した時よりは強いが、先代達の体験した七英雄の来襲に比べれば容易いものだった。
 攻撃を予測していた戦士達は、伝達も早く、充分な迎撃態勢で戦いに臨む。
 しかし戦士ではない城下の者はこうはいかない。逃げる家族を守る為、父親は持っていたナイフを振って、襲いかかる悪魔を牽制する。悪魔からすれば、逃げ腰を隠しきれない相手に威嚇されても笑うしかない。
 甲高く鳴いて、悪魔は飛びかかる。ナイフを持つ人間の目は、恐怖によって閉じてしまう。
 其処に輝く球体が飛び、炸裂する。目の眩んだ悪魔が怯んだ瞬間、小さな影が剣を振り下ろす。悪魔の首が飛んでいく。返り血を浴び、男の悲鳴が出かかるところで、少女は努めて穏やかに、淀み無い口調で告げる。
「早く逃げて」
「あっ有り難うございますっ」
 礼も必死に、男はその場から逃げる。残された少女の元へ、幾人かの兵士と共に駆け寄る。
「陛下、御怪我は」
「大丈夫。有り難うジェイスン」
 助けられた男は、血塗れのこの少女をどう思っただろう。今そんな事を気にしている暇は無いのだが。
 七英雄を倒した皇帝が死んだ、と聞き付けた怪物が国を襲い始めてから三時間が経過していた。絶命の時に、人語を修得していた怪物が、七英雄万歳、と叫んだ事から、恐らく怪物達はほぼ七英雄の駒になったのだろう。友好的でないのは変わらないが、七英雄の名の下に統率されて非常に厄介になったのは確かだ。
 先陣を切って幼い皇帝が走る。その体に似つかわしくない技術で、敵の攻撃をかわし、斬撃を叩き込み、術法が迸る。その背中を守るように後から続き、酷く高揚していた。恐ろしい程に強い精神と力を目の当たりにして、この人物になら付いていける、自分の戦士としての部分がそう楽しんでいたのだ。今この瞬間は、日頃の苦しみから解放されていた。
 しかし、皇帝はやはり、戦いを知らず幼かった。
 骸骨の鳥を迎え撃とうとした時、アメジストの手から剣が滑り落ちる。これにはアメジスト自身も驚いた。手が痺れる。見ると、肉刺が潰れて血塗れになっていた。技術こそ熟練していたが、体が付いていくには未熟過ぎたようだ。
 咄嗟に火の術法を発動させる。鳥は火球で吹き飛ばされたが、その陰からもう一匹の鳥が突進してきた。術法が間に合わず、強烈な体当たりを受けてアメジストは吹き飛んだ。頭を強かに地面へ打ち付け、軽い脳震盪を起こす。
 起き上がれない。目の前が明滅する。その中で見たのは、立ち塞がる彼の姿だった。揺れる視界、思考の中で、彼の立ち回りを何とか認識する。振り回される槍、飛び散る何か。
 漸く思考の歪みが治まってきた頃、形も明確になった彼の姿に、左から何かが跳び付いた。その質量の大きさに、堪らず倒れ込む。見ると、左腕を巨大な鰐が咬んでいる。それを彼と皇帝が認識して、もう一咬みされ上腕を呑まれた瞬間。
 鰐が回転した。元々鰐は、獲物を咬むと、引き摺り込み、体ごとねじって千切る。重々しい音がしたと同時に血が迸る。あまりの激痛に声も出ず、それでも意識だけは手放さず、彼は残った右腕で帯剣を引き抜き、鰐の首を一刺しした。頭を狙いたかったのだが、力が入らない。鰐が怯んで逃げ出す。
 それを仕止めようと、アメジストが立ち上がろうとすると、鰐へ味方の術であろう炎の弾が飛んだ。瞬く間に焼かれるのを見てアメジストが思わず声を上げる。その中には彼の腕があるというのに。
 動揺した少女の隙を狙い、骨の獣が体の一部を何本か飛ばす。
 其処から先は本当に一瞬の出来事だった。
 彼は、素早く立ち上がると、右腕を振り回して骨を弾く。しかし最後の五本目が限界だった。その一本は剣を掻い潜って頭に深々と刺さり、彼は倒れてその侭動かなくなった。



 あれが怪物達の最後の足掻きだったらしい。戦いは終結を見せた。数で見れば大した事は無かったのだが、皇帝の心からすれば被害は甚大だった。
 彼を側に置いたばかりに。そう自分を責めても、宿る先帝達からは責めるなと言われた。
「それじゃ誰の所為なの!」
 突然の大声に臣下が驚く。今までもずっと、独り言を言っているように見えただろう。宿る先帝の魂はアメジストに意思を持って話しかけてくる。干渉してくる。喧しい。
「……ごめんなさい」
 耐えられず泣きそうだったのだが、成長した理性が根付いてしまった体では泣けなかった。
 彼は寝台を赤く染めて寝ている。彼の容体は深刻だった。辛うじて今は生きているが、この侭では脳が死んで体も活動を停止するという。
 少女は与えられし記憶を探っていた。何か引っかかりを感じる。その間にも、無い時間だけが過ぎていく。臣下は諦めろと、沈黙する皇帝に言おうとして誰も出来ずにいた。
 少女の戦いは続く。そして、一本の紐を掴んだ瞬間、先帝が焦りに叫んだ。
『やめろ』
『やめなさい』
 それでも少女は紐を解こうと手繰り寄せる。
『駄目だ』
 先帝達が止めにかかる。邪魔をする。少女は解っていた。何故止めるかなど、全て解っていたのだが、やはり皇帝は少女だったのだ。
「それでも私にはこれしか無いの!」
 再びの叫びに臣下は身を震わせる。皇帝は肩で息をして、それから静かに告げた。
「術法研究所に、彼を運びなさい」



 まるで黒魔術のようだった。
 深夜、これから行われる術式に誰もが戸惑っている。皇帝はただ、彼を見詰める。
 近年、学術と術法の結び付きは濃くなり、様々な実験が行われていた。傷をたちどころに治す薬、術の行使により疲弊した精神を癒す薬、一時的に筋力や魔力を高める印など、中には失敗作もあるが、前まで考えられなかった技術が生まれている。
 この国に外科を排他する考えは無かった。それ故に考案されたのが、失ったものの代わりをする物、言わば疑似的な肉体である。機械によるそれは粗末で効率も悪いというものだ。しかし術法を組み合わせたものはその比では無かった。腕、足、遂には内臓まで、その代わりが出来るという夢のようなものだった。中には、失った心臓の代わりをしたというものもある。
 しかし夢には悪夢もある。その全ては動物実験だったが、副作用の起きなかったものが一つとしてなかったのだ。
 生命と魔力との間の拒絶反応である。
 延々とのた打つものもあれば、その姿を異形と変えたものもある。疑似心臓も、拒絶によって回路が融解し、体内を焼いて何日かの延命程度に終わった。
 後の世に、この術機械と生物の合成は禁忌とされ闇へ葬られる事になるが、今この時代の者がそれを知る術は無い。
 そして後の世も答えを出せなかった事が一つある。



 アメジストは、食い入るようにその光景を見詰めている。遂には怒鳴る先帝達を無視して。
 頭頂部よりやや左下にある傷口へ、ゼリー状の物質を埋め込む。すると、物質はその周囲を少し溶かしつつ、どす黒い棘を伸ばし、歪な形を結晶にした。根元は赤く、よく見ると脳が見える。
 そして、結晶の根元から異変が起きた。彼が元々持っていた金の髪が、ざわつき、白く色を変え、その質を変える。まるで薄汚れた獣の体毛だった。結晶の根元は更に変化し、焼け焦げたように黒くなる。その焦げは、根元より人差し指一本程度のところで止まってくれた。
 拍動と呼吸の異常が無いか検査を行う。生命活動の異常だけは無い事を認めて、次の術式に移る。
 黒い手袋のような腕が運ばれると同時に、少しだけ残っていた彼の左腕へ穴を三箇所穿つ。穴の周囲を金属で補強した後、義手のやや根元から伸びている管を穴へ挿入する。管は肉に食い込むと、途端に馴染み、肉の一部となる。管に、血液と、その代理をする液体が混ざり合って流れ込む。義手本体も傷口と融合し、接合は完了した。
 再び拒絶反応が起こる。残された短い腕の皮膚が変質し、柔らかさを失った緑色の領域が広がる。アメジストは止まる事を人知れず願う。だが緑色は侵蝕をやめない。結局、彼の左上半身を埋め尽くさんばかりに広がってから、漸く止まった。
 検査が行われる。生命活動に異常は無いと結果が出た。後は彼が目を覚ますだけだと。
 アメジストは彼を寄宿舎へ帰すよう命ずると、足早にその場を後にした。



 夜が明けた頃、彼は目を覚ます事になる。
 成功なのかどうかは、アメジストにも、彼にも解らない。



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