それからはフワフワとした感覚があった。きっと幸せで楽しみで頭がどうにかなってしまったのだと思った。でも、現実はそうではなかった。
「あーこれはダメね」
体温計を片手に朋子はため息をついた。
朝、仗助は母親に顔を見られるなり体温計を渡されあれよあれよという間にベッドに転がされていた。
「昨日、濡れたまま電話していたからでしょ」
今日は一日中寝ていなさいと言う朋子に冗談ではないと思う。学校を休むことはどうでもいい。問題はその後だ。約束したのだ。必ず行くと。どうしても今日渡したい、渡さなければならない。今日できゃ。
「行かな、きゃ」
言いつつ瞼がどんどん重くなっていく。
「ちゃんと寝てなさいよ」
優しさを含んだ声を聞きながら、仗助はゆっくりと意識を手放した。
遠くでカラスの鳴く声がする。目を開いた仗助は勢い良く起き上がった。くらりと眩暈がするが構わない。仗助はカーテンを開けた。辺りはすっかりと薄暗くなっていた。
やべえ。仗助は緩慢な動作でバスルームへと向かう。ゾクゾクとした寒気を無視して熱いシャワーを浴びる。身体を拭いて、迷ったが制服に着替える。
今日は学校帰ってそのまま行くことになっていた。承太郎の洞察力がある。余計な心配をかけたくなかった。
念入りに髪を整えた仗助は部屋に戻って白い包装紙に包まれた白い箱を見つめる。昨日、散々迷って買ったものだ。
正直に言って似合うとは思うが、あの人には釣り合う値段のものではない。あの人は全てが一流で上質だから。
身につけてくれなくても構わないと思う。ただふとした瞬間に仗助からもらった事を思い出しいてくれるだけでいい。あの人の心の時間を一瞬だけでも独り占めできればそれでいい。
仗助は鞄へプレゼントを入れた。本当は承太郎の誕生日はもう少し先だ。フライングでもいい。一番に自分が祝いたい。待ってなんかいられない。
仗助はふらつく身体を叱咤しつつ家を出た。
途中でタクシーを捕まえて仗助はホテルまでどうにか辿り着いた。すっかり顔見知りになったフロント係に軽く頭を下げてからエレベーターにするりと入り込んだ。
階数のボタンを押す。ドアが閉まる直前、男が滑り込んできた。仗助は横に避けた。俯きがちで男の顔はよく見えなかった。
ドアが閉まり、エレベーターが上昇していく。さて。仗助は考える。何と言って切り出すべきか。幾通りもシミュレーションしてみる。しかし、熱で重たい頭は霞がかかったように上手く働いてはくれない。仕方ない。ぶっつけ本番だ。
チンと軽快な音がしてドアが開く。少しずつ早まる鼓動を聞きながら、フロアへ足を踏み出す。
その時、声がした。
「油断したな。東方仗助」
背後から衝撃。仗助はたまらず膝を着いた。呻き声が漏れる。仗助は振り返るとさっきまで一緒にエレベーターに乗っていた男だった。
「ぼくの秘密を知ったからにはお前は石になってもらう」
次はあの漫画家だ。と言い残すと男は身を翻して非常階段から外に出た。
「待てっ」
追おうとするが足が動かない。ぎょっとする。足が石に変わっている。
「仗助」
「仗助くん」
承太郎が宿泊している部屋のドアが開いて承太郎、康一、億泰が飛び出してきた。
「お前らなんで」
「例のスタンド使いについて話していたんだよ」
康一は仗助の足を見て顔を青くした。
「それ」
「非常階段から逃げた。多分、そいつが例のスタンド使いだ」
「野郎、許さねえ」
億泰が一目散に駆けていく。億泰くん、と呼びかけた康一は承太郎を見上げた。
「承太郎さんはここにいて下さい」
「しかし」
「大丈夫です。ぼくと億泰くんなら」
それに、と康一は続けた。
「仗助くんも承太郎さんの方が言いやすいと思います」
「康一くん」
承太郎はわかったと頷いた。それを見届けた康一は横たわる仗助に囁いた。
「恥ずかしいかもしれないけど、承太郎さんなら大丈夫だよ」
念押しするように言うと康一は億泰の後を追って行った。
言われても仗助にはなんのことだかさっぱりわからない。
承太郎が仗助の顔を覗き込む。その距離に心臓の音が加速する。
「聞け、仗助」
よく通る声が空気を震わす。
「奴のスタンドの能力は石化だ。石になったら永続的に効果が続く」
だが、逃れる方法がある。と承太郎は告げる。
「最も知られたくないことを誰かに話せばいい」
仗助はその美しい緑の瞳をただ見つめていた。
「仗助、誰にも言わねえ」
ああ、と吐息が漏れる。
「話せ、お前の秘密を」
言えるはずがない。
「言えねえ」
ぐずるように何度も何度も仗助はそう繰り返した。その間も石化は太ももまで進んでいた。
承太郎は仗助に肩を貸してどうにか立たせる。そして、傍らに落ちていたのは仗助の鞄と白い紙袋を拾った。その中には綺麗に包装された箱が入っていた。メッセージカードに印刷されたHAPPY BIRTHDAYという文字を見て、承太郎はここ一週間仗助が姿を見せなかった理由を悟った。
承太郎はぐっと拳を握り、仗助を半ば引きずるように部屋の中へと入った。ソファに横にならせて、もう一度その赤い顔を覗き込む。そうしている間も石化は恐ろしいスピードで進んでいる。
熱で朦朧としているのか。仗助は苦しげに目を伏せている。承太郎はその頬に軽くはたいた。ここで眠らせるわけにはいかない。
「仗助、言え」
薄っすらと目を開いた仗助はそれでも答える事を拒む。てめえとその胸ぐらを掴む。
「石になっちまうぞ」
もう既に腰まで石になっている。
「イヤ、っス」
それでも仗助は首を縦に振らない。全く誰に似たんだか。承太郎の眉間の皺が深くした。
自分の思い上がりに腹が立つ。仗助は、自分にならば誰にも言えない事を打ち明けてくれるだろうと思っていた。これならば康一がここ残った方が良かったかもしれない。
仗助は荒い息を繰り返し、目をもう一度つむった。
「おい」
呼びかけると、とろんと目を開く。もう限界なのか視線がどこか遠くにやって、彷徨わせて、承太郎の顔を見た。ふにゃりと笑う。
「あれえ、承太郎さん」
その声はあまりにも幸せに満ちあふれていた。自身の身体は三分の二まで石と化しているというのに。
「これ夢っスか。夢、だよなー」
ふわふわと仗助はわたあめみたいな甘い声を出す。こんな仗助をおれは知らない。
既に首まで仗助は石となっていた。
「夢でもおれ、すっげえ幸せ」
だって。
潤んだ瞳を承太郎に向ける。
「おれ、承太郎さんのこと好きっスから」
そう言って仗助は再び目を閉じる。
仗助の身体が光に包まれる。首も胸も腰も足も、全てが元に戻っていく。
しかし、承太郎は動けなかった。
まるでメドゥーサの瞳を見つめてしまったかのように。その場に立ち尽くしていた。