ライオンのなみだ


 

 澄んだ青空の下。福富はペダルを踏んでいた。並んだ木々が次々に通り過ぎて行く。
 どういうつもりだ。
 冷たい風を全身で受けながら福富は前を走る男について考えていた。
 先にスタートした金城の背中はまだ見えない。

 勝負しないか。金城のその申し出を断る理由などなかった。
『望むところだ』
 福富の返答に電話越しで金城が笑った気配がする。
『ありがとう』
 そう言って金城はレースする上でいくつかの条件を提示した。
 ハンデとして先に金城がスタートすること。コースは金城が選ぶこと。
 特に異論はない為、了承する。いくら金城といえど、流石に欧州でプロのレーサーの自分にハンデなしで渡り合うのは今や難しいだろう。
 そして、最後に金城は言った。
『乗る自転車はオレが指定したものにしてもらいたい』
『それもハンデのひとつか?』
 福富の問にやや間を置いて金城は答えた。
『……そうだ』
 その時、福富はその条件など気にも止めなかった。
 実際に、そのロードバイクを見せられるまですっかり忘れていた。

 走りながら福富はちらりと視線を下に向けた。
 鮮やかなチェレステカラー。“イタリアの碧い空”の色をした車体。
 何故、これを選んだ。ハンドルを握る手に力がこもる。
 そのロードバイクは福富が荒北にあげたビアンキだった。

 昨日、海外から金城の部屋に着いた福富は懐かしいロードバイクを目にして声を失った。
『“壊したら福ちゃんでも承知しねェ”だそうだ』
 福富の横で金城が淡々と言う。
『借りたのか、荒北から』
 わざわざ。言外にそう滲ませて問うても金城は顔色ひとつ変えない。
『あぁ。最近は調子が悪くて荒北もあまり乗っていないらしい』
『古いからな』
 加えて荒北に相当酷使されている。
『一応、お前用に調整しておいたが細かい所は自分で見てくれ』
 そう言って金城は笑ってビアンキを福富へと寄越した。複雑な気持ちで受け取る福富を見て金城は笑みを深くした。
『やはり似合うな』
『元々はオレの物だ』
『知っている』
 言って金城は目を伏せた。その姿に福富は言い知れない不安を覚える。どこか遠くへ、手を伸ばしても届かない場所へ行ってしまうような。
『金城っ』
 咄嗟に手が出た。福富の右手が金城の腕を掴む。
『どうした、福富』
 穏やかに金城は問いかける。この違和感はなんだ。
『どういうつもりだ』
 このビアンキは。今更、勝負など言い始めた理由は。何故、そんな顔をする。
 もどかしい。訊きたいことは山ほどあるのに、うまく問うことができない。
 金城はそんな福富を見つめると、ふっと口元を緩めた。
『この前』
 低くよく通る声が耳を震わす。
『総北の自転車競技部のOBで呑んだ』
『巻島たちとか?』
『あぁ。他の先輩も後輩もいた。随分と賑やかだった』
 それが今回の話と何の関係があるのだろうか。疑問に思う福富を置いてどこか遠い目をして金城は続ける。
『ひとつ上の先輩で、昔インハイに一緒に出場したんだが今はロードに全く触ってもいないらしい』
『お陰で腹が出たと笑っていた。オレが思うに結婚したそうだから幸せ太りだと思うが』
 金城は柔らかく微笑む。そして、彼は他の先輩が海外で仕事をしていることや後輩の進路について語った。
――それで、古賀は』
 そう続けようとする金城を福富は遮った。限界だった。
『金城』
 名を呼ぶと金城はようやく視線を合わせた。
『何が言いたい』
『福富。あの事故から長い時が経った』
 ひやりと心臓に冷たい刃が当てられる感覚。

『そろそろ決着をつける時だ』

 溜めていた息を大きく吐き出すように金城は言った。

 中間地点を過ぎても金城の背中はまだ見えなかった。
 まずいな。福富は今日のコースを頭の中で思い描く。金城の指定したコースは通常のコースと比べて大分短かった。ジュニア選手が走るようなコースだ。早く追いつかなければ、勝てない。
 福富はケイデンスを上げる。普段の愛車と比べて微妙に遅い加速に舌打ちをしたくなる。
 早く金城の姿を視界に収めたかった。その存在を確認したい。自分の一人相撲ではないと証明したい。
――金城。
 心の中で叫ぶ。
 何故、今なんだ。今だからこそなのか。
 福富は昂ぶる気持ちのままペダルを踏む。上がった速度に合わせて景色が次々と流れていく。
 金城からこの勝負の提案を受ける少し前、福富は金城にとあること話していた。
『来シーズンはグラン・ツールに参加できるかもしれない』
 グラン・ツール。イタリア、スペイン、フランスで行われる大規模な三大レースの総称だ。多くの自転車乗りが憧れ、目指すステージ。それは福富も例に漏れない。幼い頃からあの熱く過酷なレース出場したいとどれほど願ったことか。
 ヨーロッパに渡って数年。ようやくその夢に叶いそうだった。
 だから今、なのか。見えない背中に問いかける。
 金城の言う“決着”がどういう形なのか。金城が何をしようとしているのか。福富には見当もつかない。確実なことはひとつだけ。復讐するなら、今が絶好の時期だということだ。
 夢に手が届くかもしれないその瞬間、伸ばした腕を手折る。それは福富がやったこと。目には目を、歯には歯を。
 復讐しろ、金城。心の内で吠える。
 グラン・ツールに出場したい気持ちは本物だ。諦めるつもりもない。だが。
 強い風が頬を掠めても福富は目を閉じない。ただ前を睨む。
 金城の気持ちがそれで済むのならば、受け入れる。仮に金城が辞退しろと迫れば、するだろう。そんなことは彼が言うとは思えないが。
 もし、彼が言うとすればそれは。
『別れよう』の一言だろう。
 確実に福富の息の根を止める呪い。福富はずっとその言葉に怯えていた。
 彼がいつそれを口にするのか、恐ろしくて堪らなかった。
 恋人という建前があるからこそ、福富は金城に連絡することができた。素直に甘えるもできた。目的がある限り、金城は忠実に恋人として振る舞うだろうと確信していたからだ。偽りの熱でも福富にとっては金城から与えられる全てが温かく幸せだった。
 失いたくない。手放したくない。彼をなくして自分はどうなってしまうのか。それすら、想像できない。
 それでも、どんなに福富が願おうとも金城は冷たい暗闇に福富を置き去りにするだろう。それが彼の復讐だ。
 だが、ひとつの希望が福富の心を淡く照らしていた。
 復讐を終えた金城は何を思うだろうか。傷つき、崩れる福富の姿に充足感を得るだろうか。夢の舞台で失恋の影響を引きずる福富の走りを女々しいと笑うのだろうか。
 おそらく、どちらでもない。
 金城がそんな人間ではない事を福富が一番よく知っている。彼は復讐なんて似合わないほど高潔な男なんだ。
 だから、想像できる。彼はきっと崩れ落ちた福富に手を差し伸べずにはいられない。それが負い目だろうが、偽善だろうが、彼は福富を放っては置けない。
 その時こそ、自分たちの本当の関係が始まる。恋人でも、友人でなくてもいい。まずは心から彼と笑いあいたい。
『別れよう』と言われて、自分の心臓はきっと止まる。だが、それは終わりではない。始まりなのだ。
 福富は強くペダルを踏み込んだ。

 勝てる。
 徐々に近づく背中を見つめて福富は確信する。
 ゴール前の最後の山岳で遂に福富は金城を捉えた。先に登る金城は現役を彷彿とさせる走るで、それが一層福富の闘争心に火を着ける。先ほどまで考えていたことなど忘れて、福富は夢中でその背を追う。ドク、ドクと身体が歓喜している音が聞こえる。
 欧州で走ろうと、誰と走ろうとも、福富の心を震わせるのはこの男しかいない。
――金城。
 頭の中で追い越すまでのカウントが始まる。 
3。
 背後に迫る福富に気付いていないのか、金城は振り向かない。
2。
 福富の前輪が金城の後輪と並ぶ。更に回転数を上げる。
1。
 完全に金城と横に並ぶ。目の前に山頂が見える。山を下ってすぐにゴールだ。金城もケイデンスを上げる。だが、それをねじ伏せるように福富は脚に力を込めた。
――ゼロ。
 いくら金城がアマチュアの域を越えていようと、ヨーロッパでプロとして走る福富には敵わない。微かに福富が先行する。
 そして、その差が見る間に広がり、完全に福富は金城の前へと出た。その勢いのまま、山頂まで登りきり一気に坂を下る。
 びゅうと強い風が耳元を駆け抜ける。ゴールは目前だった。
 だが、福富の目はゴールを映してはいなかった。
――今のは、なんだ。
 破裂しそうなほど心臓が激しく鼓動し、息が乱れる。なのに、背筋だけが妙に冷たい。
 追い抜く瞬間、福富は金城を見た。絶対にあり得ないことだったが、追い抜く時に彼が福富のジャージを引っ張るのではないかと。無意識に身構えてしまった。動物が持つ防衛本能がそうさせた。
 しかし、金城は福富に何もしなかった。
 僅かに口の端を上げて。その瞳を眩しそうに細めて。
 まるで憧れの選手を見送るようなそんな顔で。
 彼は笑っていた。

 福富から少し遅れて金城もゴールした。
 流石だな。と微笑む金城に福富は沈黙した。先ほどの金城の表情がまだ頭の中で渦巻いている。
 そんな福富に金城はなぁ、と今しがた降りてきた山を指さした。
「覚えているか。あの山は春になるとたんぽぽでいっぱいなんだ」
 本当は春に勝負したかったと金城は残念がる。
 福富は内心で首をひねる。
 たんぽぽなど珍しいものではない。第一、何故福富がこの山を知っているかのような口ぶりなのだろうか。
「そうなのか?」
 言いながら、福富はあの黄色の花を思い浮かべる。キザキザとした花はライオンのたてがみみたいだと思ったことがある。英名のせいかもしれない。ダンデライオン。
 そんなことを考える福富に金城は唐突に言った。
「シマウマのぬいぐるみなんて投げ捨てろ」
 反応に困って福富は金城を見る。意味がわからない。
「ライオンが欲しいと泣く子どもでいてくれ、福富」
 その言葉で以前、金城にした動物園の話だと気付く。今更なんだと笑おうとして福富はその笑みを引っ込めた。金城の眼差しは真剣で冗談を言っている気配はなかった。
「欲しがれ、ライオンを」
――そして、獲ってしまえ。
 重々しく金城は言った。突き放すような口調が何故か懇願しているように聞こえた。
 福富は息を呑む。
 ライオンのぬいぐるみ。それは自転車乗りには特別な意味を持つ。
 金城。お前は獲れというのか、オレに。
「マイヨ・ジョーヌを獲れと言うのか」
 マイヨ・ジョーヌ。ツールド・フランスの総合成績一位の選手が着る黄色のリーダージャージ。マイヨ・ジョーヌを獲得した選手は各日ごとにマスコットのライオンのぬいぐるみも手渡されることになっている。
 なんて大それた野望なのだろうか。
 自然と興奮で震える福富に金城は微笑む。
「できるさ、お前なら」
 信じている。
 金城はそう告げて、福富の目を真っ直ぐに見つめる。
 その瞳には憎悪も嫌悪もなく、ただただ穏やかだった。
「金城」
 その眼差しに福富は再び違和感を覚えた。そして、冷たい水を掛けられたように思い出す。
 決着を着けるのではなかったのか。お前がオレに復讐をして、この歪んだ関係から抜け出すのではないのか。何故、お前はそんな顔をしている。
「福富」
 よく通った声が名を呼ぶ。
「お前に謝らなければならないことがある」
 全てが終わったら伝えたい。そう目を伏せる金城は、傷ひとつない陶器のようだと福富は顔を手で覆った。
 つるりとした表面。指を差し込む隙間はとうになかった。

◇◆◇◆◇

 手の中にあるライオンのぬいぐるみを福富はまじまじと見る。こうして間近で見ても、ただのぬいぐるみにしか見えない。これを全世界のロードレーサーが欲しがっているなど、普通の人間は夢にも思わないだろう。
今回は初日に偶然に偶然が重なって、福富の元へとやってきた。“幸運なサムライ”現地の新聞ではそう書かれていたと後で聞いた。
 次は実力で獲る。指に力が入り、掴んだ生地に皺が寄る。
 だから、まだ“終わり”ではないだろう?
 全てが終わったら謝ると金城は言った。一体、何を謝ることがあるのだろうか。金城は何もしていない。ただ愛してもいない男に数年を無駄にしただけだ。
 あの日の金城の顔を思い出す。何を切欠に金城が過去を振り切ったのか。いつからなのか。近くにいたはずの福富にもわからない。金城は嘘が上手い。見破るのは困難だった。
 そうだ。いつも金城は優しかった。憎まれていると忘れてしまいたくなるほど。
 だから、福富は新開が設定した着信音を変更しなかった。あの曲を耳にする度に、福富は自分を戒めた。オレは金城に愛されていない、と。
 そうしていないとやがて訪れる別離に耐えられる気がしなかった。常に身構えて心を鎧で覆ってその日を待っていた。 金城が牙を向いて、本当の自分たちの未来が始まる日を待ち望んでいた。
 だが、その日は来ない。
 蛇は獲物に噛み付かず、牙をしまって去っていく。その身に獲物の返り血を浴びることなく。綺麗なままで。
 そして、彼は二度と振り向かない。
 目に水分が溜まるのを感じて首を振る。
 オレは強い。涙など強者には必要ない。
 二度と泣かないと。自分の為に泣かないと誓った。
 いつかの歪んだ空を思い出す。

「オレも好きだ。こちらこそお願いする」
 福富の告白に金城がそう答えた時、福富は空を眺めていた。緊張と羞恥から福富は金城を見れなかったのだ。
 あの日の空は美しかった。冷たい空気の中、澄んだ青がどこまでも続いていた。その空が不意にぐにゃりと潰れた。
 福富は目を瞬かせる。その瞬間、頬が濡れて自分が泣いていることに気がついた。
 嬉しかった。ただ嬉しかった。気持ちを受け入れてもらえたことが。あまりにも幸福で。
 振られても良いだなんて強がりだった。
「お前はいつも泣いているな」
 振られたわけではないのに。金城が困ったように言った。
「いつもではない」
 金城の前だけだ。一度、醜態を晒してしまったからだろうか。彼の前では強い自分の仮面を被っていられない。
「信じられないな」
 金城はそう笑うと福富の背中に腕を回して抱きしめた。
「き、金城」
 驚いて身体を硬くする福富の背をあやすように金城が軽く叩いた。
「大丈夫だ」
 音の振動が身体を通じて伝わる。福富は身体の力を抜いて、彼の肩に顎を乗せた。
「……金城」
 すきだ。音にならないくらい小さく呟く。福富の瞳に涙で歪んだ空が映る。金城の肩越しに見たその景色はひどく冷たく綺麗で福富の心に強く焼き付いた。

 その記憶に後悔が伴うようになったのはいつからだったか。

 オレを抱きしめた金城はどんな顔をしていたのだろう。
 あの時、オレは金城の顔を見るべきだった。感情に任せて涙するのではなく。
 見ていたら、きっとオレたちはこんな風にはならなかった。
 だが、もう全てが遅かった。福富は金城と抱き合い、その腕の暖かさを知ってしまった。失うことなどできない。

 だから、オレは二度と泣かない。大事なことを見落とさぬように。

――愛して。愛して。愛して。
 突然、鳴り出した着信音に肩が大きく跳ね上がる。携帯の画面に発信主の名前が表示されている。“金城真護”
 福富は固く瞼を閉じる。見ない。聞かない。知らない。
 この電話には絶対に取らない。福富にはありありと想像できた。
 彼はきっと優しく告げるのだろう。
『おめでとう、福富。今まで悪かった』
『別れよう』
 自分の妄想にぬいぐるみを握る手が白くなっていく。
 違う。と必死に言い聞かせる。
 まだ、終わりではない。まだブエルタ・ア・エスパーニャだって残っている。だから。
 足掻く福富を嘲笑うように曲は鳴り続ける。
 唇を噛む。
 金城は言った。――全てが終わったら。
 全てとはいつのことだ。福富にはわからない。今シーズンの終わりか。福富が引退する時か。
 それとも。
 福富は手の中を見る。
 偶然だろうが一日だろうが――マイヨ・ジョーヌを獲った時か。
 電話はまだ鳴っている。まるで鎮魂歌のようだ。
 福富は動かない。動けない。
 冷房が効きすぎているわけでもないのに震えが止まらなかった。
 金城。恋人の名を呼ぶ。
 今すぐにでも声が聴きたかった。『大丈夫だ』と抱きしめて欲しかった。
 嘘でも。喩えそれが偽りであろうと。
 愛していると言って欲しかった。
――愛して愛して愛して。
 主張するように着信音が響く。それを取ることさえできれば、声を聞く望みは叶う。だが、それだけはできない。
 声を聞いたが最後、福富は永遠に金城を失う。
 これは子どもの理屈だと頭ではわかっている。出ても出なくても結末は変わらない。
 それでも、福富は縋らずにはいられなかった。
 すきなんだ。どうしようもなく。――金城。
 堪え切れずに溢れた涙が一筋、頬を伝う。
 それはぽたりと落ちて。
 ライオンの瞳を濡らした。

【ライオンのなみだ】

2015/02/16