水辺に風が吹き 4
豪農の旦那に仕事をもらえないか相談しようと、船着き場に向かう。向こう岸に渡りたいのだけど。
(声を掛けづらい)
行き交う船頭は知り合いばかりだ。物陰からどの舟に乗るか選んでいるが、決まらない。
(少人数でじっくり顔を合わるのは……。大きなのがあるといいんだけど)
そう考えながら川面を探していると、下流から大きそうな舟が上ってきた。
(え、……いや、あんなに遠くなのに、大きい)
近づいてきて、その大きさが分かる。貨物船かと思ったが、白い船体に金の装飾が施された美しさは、客船だろう。
見たところ乗っているのは、操行のための船員だけのようだ。これから客を乗せるのだろうか。
「おーい、岸に近づけそうか」
フウが左に振り向くと、白髪の男が、舟に声を掛けていた。丸眼鏡にゆったりとしたローブ。商人だろうか。
「その桟橋だと、ギリギリですねー。雨の少ない時期だから、来週は危なそうですー」
船乗りが声を返してくる。商人はそれを聞いて、土手の上の方へ振り向いた。フウもその視線を追って、驚いた。
「将軍。というわけで、桟橋の延伸をしてもよろしいでしょうか」
イグスと、一緒に舟に乗せたことのある部下もいる。
「ああ……」
イグスの位置からフウは丸見えだ。気づいているだろうか。
「フウ」
イグスから声が掛かり、ぎょっとする。思わず彼の顔を見る。
「ここ以外に、あの舟が着けそうな場所はあるか?」
「おや、知り合いですか?」
商人が隣にいたフウの顔を覗きこんでくる。イグスよりずっと年上っぽいのに、飄々とした雰囲気だ。
「えっと、桟橋の長さや深さでいうと、ここが一番だと思います。ロンデット通り側の岸も同等ですが、こちらの方が岸も整っていて、高級船には合うと思います」
「おお、私と同じ見解だ」
商人は嬉しそうにフウの肩を叩く。
「私はタブラン。実はな、今度この街に都から……」
「タブラン」
イグスに止められて、タブランは口に手を当てた。
「この子はこの河で長く働いている。彼もこういうなら、延伸の許可を出そう」
「ありがとうございます! 君も。名前はなんていうんだい」
両手を取られ、固く握られる。
「フウ、です」
「フウ君、意外と手が硬いね。もしかして船乗り? それなら」
「タブラン、話すならどこか人のいないところに」
「ああ、それなら」
タブランは今接岸したあの舟を指差した。イグスは気乗りで無さそうに首を傾げたが、戸惑うフウを見つめて、何かを思いついたかのように同意した。
(わあ、揺れないなあ)
わざと大きく踏み込んだのだが、大きな船体は安定している。
振り返ると、イグスが乗り込むところだった。
「あっ」
イグスの足が舟に掛かった時、フウが声を上げる。
「どうした」
イグスが乗り上げてから聞いてくる。
「いえ……なんでもないです」
フウがうつむき、その様子を見てイグスも口をつぐみ、気まずい雰囲気が流れる。
「どうしたんです?」
タブランがまたフウに顔を近づける。
「舟のことで、何かありましたか。なんでも、なーんでも言ってください」
にこにこと笑顔が迫ってきて、フウはたじろぐ。
「本当に、なんでもないんです。舟が一番桟橋から離れた瞬間に、イグス様が乗ってこられたから。いつもお客さんを乗せる時は気をつけてるから、つい声を上げてしまって……。ちょっとくらい岸から離れていても、イグス様にはなんでもなかったですから」
タブランは舟と桟橋の間の隙間を覗きこむ。
「あー、確かに。船員しか乗らなかったから気にしていなかった。もっと固定……」
屈んで桟橋の杭を確認していたタブランが起きあがる。
「そうだ。板を渡しておきましょう。しっかりと固定できるものを。殿下は鈍い方だから、ロープをいくら渡しても不安ですからね」
「殿下?」
「あ」
タブランは首をすくめて周りを見渡す。幸いこの船の船員しかいない。イグスは溜息をついて、
「早く出してくれ」
と船員に指示した。綱が外され、船員が櫂を動かす。岸がゆっくり離れていく。
「フウは……」
水面を走る風が、イグス様の髪を揺らす。
「乗る人を気づかってくれるんだな」
イグスの穏やかな顔。随分見ていなかった気がする。
「相手が私であっても」
すぐにその表情は蔭ったが、初めて会った時、見蕩れてしまったことを思い出した。
(……その時より少し、痩せた気がする)
「それでどうして、イグス将軍にわざわざご足労願ったかというとね」
イグスを見つめて呆けていたら、いつのまにかタブランが話しはじめていた。
「来週、王太子殿下がこの街の視察にくるんですよ」
「王太子殿下……、えっ、王子様?」
「そう。東の王都からはるばる」
タブランはフウの正面に向き直って、一礼した。
「私は南ルオン商会の代表。最近はこの街ローシルクで取引先を広げているんですよ。イグス将軍が赴任されたということは王が力を入れようとしているということですからね」
(少し前に、造船所と馬貸しのオーナーになった会社だ。街の中央の大きなお店を買ったって話も聞く)
王子様と大金持ち。
(それと……将軍)
フウは無意識に一歩足を引いた。
「今回も殿下の宿泊先、移動手段、余暇全て任されましたから」
「すごい……」
胸を張るタブラン。だがイグスが、
「殿下はイブルタ商会をご贔屓だからな。イブルタが足掛かりを得ていないローシルクで、珍しく指名されたから、この機を掴もうと必死なんだ」
冷静な声で言うと、タブランが、うぐ……と声を噛み殺した。
(あの大きい造船所のオーナーが、王子様とはそうそう仲良くなれないのか)
お金持ちも大変だなあ、と二人の様子を眺めた。
「つまり、殿下に少しでも良い印象を与えたいそうだ」
「……そうですー。フウさん気が利きそうだから、気づいたことがあったら教えてください……」
肩を落としたタブランが小声で、
「陛下のお気に入りのイグス将軍とも仲良くなりたいんだけど、あの人隙がないんですよね。仕事なら今日ここに来たように付き合いがいいんですけど」
「はあ」
「とはいえ、ここのところ早めに帰宅なさるようになって。王都にいらした頃は夜中でも仕事場にいらしたんですが。どうもお屋敷で、良い人と、一緒に暮らしていて、その人のことをいつも気にしているそうですよ」
「……え」
胸が、ぐっと縮こまった気がした。
(一緒に暮らしている……?)
屋敷の中はあまり歩かないようにしている。イグスと出くわすのが怖いから。フウの知らない部屋に女性がいたのか。
(嫌だろうな。勘違いで怪我をさせた相手が、ずっと屋敷にいると)
家を直してくれたり、舟を買ってくれるというのも、早くフウに出ていってほしいからだろうか。
河の中程にくると、船員は漕ぐ手を休めた。下流に流されると少しばかり上流に漕ぐ。船員はよく見ると見目が良く、最近外に出ていないフウよりずっと白い。
(高級船の人だ)
やはりうまい人を雇ったみたいだけど、この大きな船は慣れていないみたいだ。
「あの、あちらの船がサインを欲しがっています。直進でいいですか?」
この船の大きさだと、片側で櫂を漕いでいるともう反対側を行く小舟が見えない。近づいてきた小舟にぶつからないよう、進行方向を伝えないといけない。
「サイン分かるんですか。お願いします」
とくに含みもなく頼んでくれる。船員はフウのことを知らないか、顔と名前が一致しないのだろう。
日が傾いて、水面のきらめきが増す。船が照らされ、金の装飾の色味が増す。
イグスが岸に降りる。
「帰るだろう。私は軍基地に戻るが、近いから送る」
振り返って次に降りたフウに声を掛けた。
「ありがとうございます」
今から旦那を訪ねても遅くなってしまう。
イグスから許可をもらったタブランは機嫌がいい。送ると言ってくれたが、イグスは断って街の貸し牛車の待合所に向かう。
「四人乗りを。幌を開けられるものはあるか」
イグスだけが待合所に入って、すぐに道に馬車が出てきた。
(馬車もあったんだ)
フウの前に止まると、イグスがステップの横に立って、手を差しだした。
(船を降りる時は手を貸さしてくれなかったのに)
イグスの手の上に、手を載せる。フウの手は震えるけど、大きくて硬い彼の手のひらは、体重をかけても揺るがない。
彼の顔は見られない。
フウは、船に乗るのは何でもなくて、馬車に乗るのは慣れない。
(イグス様、僕のこと……)
とても見ているのだろうか。怖いけど気になって、気になって……、ステップのすぐ隣にいる彼が気になって……。少しだけ隣を見た。
(イグス、様……)
彼の視線は、ステップを踏むフウの足元にあるのか、それともその手前、重なった手にあるのか。彼は幸せそうに、とても悲しそうに、微笑んでいた。綺麗な頬と目が、赤みを差している。
フウはすぐに視線を馬車の中に戻す。続いて乗ってきたイグスは、フウが見ていたことに気づいていないようだ。
ユイルと乗った牛車は二人乗りだった。狭い車内。揺れる牛車で膝を突き合わせて。
今は四人乗りで、斜向かいに座っている。幌も開放されていて、馬車が動くと街の景色が流れていく。風と喧騒が、二人を隔てている。
(何を思っているんだろう……)
悲しい思いをしていたら、どうしよう。
「あの……」
小さな擦れた声しか出ない。こんな声じゃ……。
「何か?」
「あっいえ!」
イグスには聞こえたようだ。びっくりした。
(いえ、っじゃなくて、会話……何か)
「船、立派でしたね。王子様も喜んでくださるといいです」
「あの船気に入ったのか! 追走する船に乗るか? 殿下の船でもいいぞ。」
「え、っえ」
イグスがフウの手を取る。
「当日はタブランがもっと豪奢にしてくる。歓迎で岸もにぎやかになるだろう。そうだ。フウのために同じものを造らせる」
「そんな……いら……」
「どうだ。お前が望むなら……私は、なんだって……」
イグスの膝は折れ、フウの前に祈るようにすがりつく。悲痛な声が、胸を締めつける。
「イグス様……」
こんなに、辛そうに。
(あれから……、もう三か月も経っている)
その間イグスも苦しんでいたのだろうか。
(僕が距離を取って、彼の前に出ないようにして……。だから彼も、その間……)
イグスの目は赤くて、揺れていて。
(一人でこんな顔をさせていたんだ……)
「見にいきたいです」
「ああ! 私も殿下の船に同乗するから、一緒に!」
「そんなっ、王子様の船に乗るなんて恐れ多いので、……岸から」
「そうか……。人混みは危ないから、ユイルに傍にいてもらってくれ」
「はい」
がっかりさせたようだが、表情は穏やかになっている。
「あの、イグス様も豪華な服を着たりとか」
「軍礼装とまではしたくないが、それなりの服装をしないと殿下に色々と言われるからな」
「イグス様、格好良いから、楽しみにしてます」
フウがたどたどしく笑うと、
「…………っ」
イグスは顔を背けて、元の斜向かいの椅子に戻った。
「最礼装で臨む」
腹に力を入れて宣言した。