血と剣 前奏曲 3
篝火さえも踊っているかのような陽気な夜。風に乗って音楽が流れてくる。
「毎年変わらないとは言ったけど」
楽団の音色が厚みを増している。
タリサはキシトラーム王国内では辺境に近いが、治安が安定していて芸術レベルが高い。さらに近年の王都は住みにくいらしく、タリサまで名が轟くような芸術家が移り住んできている。
ロンは彼らの演奏を聴いた時、その音色の美しさにとても驚いた。
(これが都の……)
世界の中心で響いていた音。
水の都。文化の華。王都に向けられる数多の賛美の言葉が思い起こされた。
けれど
――。
(イアン様は家を継がれてから、ほとんど都に行こうとされない)
彼の態度から、ぼんやりと良くない場所のように思えてくる。噂も怖ろしいものが多い。
(イアン様の吸血鬼の噂程度の信憑性だと思っていたけど)
タリサの吸血鬼の正体は結局のところ、いつもの優しいイアンだった。ロンにとっては彼を支えることを改めて誓うものでしかなかった。
だが、キシトラーム王都からは実際に人が流れてきている。ロンは仕事でその具体的な数字を目にする時があるのだ。
街から流れてくる明るい曲調に、どこかもの悲しさを感じてしまった。
ロンは今、城内の兵舎へと向かっていた。
「うう……」
歩くと違和感がある。早く兵舎の自室で着替えたい。
街での集会は時間が決められている。音楽を奏でられる時間も。
夕食も浴室でもゆっくり過ごしたから、最後の曲まで半分も時間は残っていないはずだ。
(大丈夫。勝てる)
それに捕まったら即終わりではない。出すまでだ。いくらロンとはいえ、今日はすでに一回出したから時間が掛かる。その間に逃げる機会をうかがえるはずだ。
「
――ッ」
人と出くわしそうになって柱の陰に隠れる。夜警の兵だろうか。同僚に股が濡れていることに気づかれると気まずい。
(あ、こんなに暗いんだから、さっとすれ違えばいいんだ)
思い直して、再び道の中央に戻る。
「うお!」
「おぉっ?」
叫ばれて、こちらも変な声を上げてしまう。
「なんだ、ロンか。暗いんだから急に出てくるなよ」
良い奴だが、ちょっと小心な友人だ。
「補給隊は居残りか。今は備蓄入れ替えで忙しいんだっけ。夜まで掛かったのか」
「いや、それはとっくに落ち着いたよ」
立ちどまったせいで、世間話が始まってしまった。
(早く逃げないと)
会話を切り上げようとすると、
「なんだか湿っていないか」
いきなり核心を突く問い。
ぎくっとしたが、友人はロンの髪や顔を見ている。全体の湿気や汗のことであって、下半身のことではないようだ。
「今日は近侍で、さっきイアン様が風呂を終えたばかりだから」
彼はロンより良い家の子息で、恒常的に近侍を勤めている。こういえば通じるだろう。
だが彼は首を傾げた。
「外で待っているだけで、どうしたらこんなに湿るんだ」
「仕切りの外とはいえ、あの部屋で待っているとこうなるだろう」
「あの部屋って、隣の部屋のことじゃ……」
その時、廊下の向こうで人影が揺れた。
「
――……」
緊張したロンにつられて友人も振り返る。
曲がり角の先からランプの光が伸びている。壁に長身であろう影が映っている。ゆらり、ゆらりとこちらに近づいてくる。
「ひぃ!」
友人はロンの後ろに隠れた。剣の柄に手を掛けている。
「お、落ち着け。イアン様だよ」
あの影は長髪の結び方が緩い。家臣や使用人が主の城でする髪型ではないから、あれが幽霊でなければイアンしかいない。彼が考えごとをしている時のゆっくりとした歩き方だ。きっとそうだ。
「じゃあなっ、俺は忙しいから行くぞ」
「待ってくれよぉ……!」
泣き言を喚く友人を置いて、ロンは近道を諦めて、元の道へと引き返した。
別の出入り口から外に出た。後ろからイアンがついてきていないのを確認して、ほっと息を吐く。木々や建物の陰に隠れながら、目的地である兵舎へ向かった。
兵舎の入口の番は別の友人だった。
「ロン、さっきな」
話しかけられそうになったが、
「悪い。仕事中で急いでいるんだ」
今度は素早くかわして自室へと向かった。近侍としてイアンの遊びに付き合っていると言えなくもないから、嘘ではない。
兵舎の中はしんと静まり返っていた。暗く長い廊下の奥の方まで、同じような戸が並んでいるだけ。
「今日は本当に人が少ないな」
騒ぎたい者は街に行っているのだろう。自分の足音が深夜のように反響していて、何となく忍び足した。
真っ暗な自室に足を踏み入れる。狭いが気楽な一人部屋だ。
ロンの自宅は街にあり、ここは専用の仮眠室のようなもので、泊まりに必要なものを置いている。
窓の木戸を開けると、篝火が焚かれた外の明るさがほのかに入りこみ、暗い室内の輪郭がぼんやりと浮き上がる。耳を澄ますと音楽が聞こえるので、これなら時間も確認できる。
「終わるまでここで過ごしてもいいかも」
こんなプライベート空間に戻っているなんて予想もつかないだろう。少し卑怯な気もするが、とりあえずゆっくり着替えられる。
カーテンで仕切られた簡易なクローゼット。その前で靴を脱ぎ、敷物の上に載った。ズボンの合わせを緩めて、床に落とす。
「…………」
下着の中を覗いた。思いきり出してしまったことが暗い中でも分かる。拭き取りながら脱いで、これも床に落とした。
(硬めの布の方が感触が伝わりにくかったりしないかな)
そう考えながら、クローゼットのカーテンを引いた。
服の隙間から、人の目がこちらを見ていた。
「……お帰りなさい」
低い男の声。
「ぎゃあぁぁ
――んぐッ!」
口を手で塞がれる。ひんやりとした感触。
「静かにしなさい。朝番の者はもう眠っている頃でしょう」
出てきたのはイアンだった。
「むが……っ、ど、どうしてここにっ?」
心臓がけたたましい音を立てている。呼吸が荒れて苦しい。
「入口の兵に部屋番号を訊いて、待ち伏せしちゃいました」
城主が個室を訪ねてくるってどういう状況だ。また誤解される。
「ふふ、ロンは着替えに戻ると踏んでいたのですよ。当たりましたね」
「だからって私室のクローゼットに潜むなんて!」
「リボンを嗅がれた仕返しです」
「うぐっ」
そう返されると文句を言えない。
「さて……」
イアンが前に踏み出してきて、ロンは一歩下がった。ふくらはぎにベッドが当たる。狭い部屋は逃げ場がない。イアンの肩越しに外へのドアが見えるが、下に何も履いていないロンには閉ざされているも同然だ。
(駄目だ……)
腰を掴まれて、持ち上げられるように後ろに倒される。イアンは意外と力がある。
(そうだった……)
ロンが身を捩ったくらいでは、この手の拘束からは逃れられない。いままで逃げようと意識することがなかったので、気づくのが遅れた。
――隙を見て逃げ出すなんて始めから叶わない。
ロンは抵抗もせず、ただベッドに背を預けた。
夜の薄明かりと、遠くから響く音楽。
いつもの自分の部屋の天井。
その視界を遮って圧し掛かっているのは、心から敬っている主。
イアンが部屋を見渡す。
「紅葉を飾っているんですか」
「…………」
殺風景な部屋にあるのは、窓枠に置いた紅葉くらいだ。
「綺麗ですね」
「……っ」
イアンに改めて言われると、何でもないことで胸が疼く。
ロンがイアンの部屋にいくのは仕事だが、……イアンが今、ロンの部屋に来ているのはどうしてだろう。
なぜ、ベッドへと押し倒されたのだろう……。
「ンッ……」
首にイアンの歯が刺さった。
慣れた痛みと、温かい吐息が気持ち良くて、ロンの思考がぼやけていく。
(そうだ。イアン様、まだちゃんと食事していなかった)
ロンだけが知っている秘密の食事の時間。
これは良いことなのだ。悪いことではない。
(今日はお祭りだから、温かいご馳走をたっぷりと……)
首の熱りが、全身に広がっていく。
この部屋のベッドは狭いから、ちゃんと中央に寝ないと、投げ出した手が端からはみだしてしまう。
(重い……)
手を持ち上げた……。
イアンのまだ乾ききっていない髪から、良い匂いがする。
彼の体に手を回すと、姿勢が楽になって、長髪がふわっと手に当たって気持ち良い。
「イアン様……」
彼は応えず、ロンの首筋を吸い続けた。
曲が途切れた。
イアンの唇と、体の重みが離れていく。
(時間……?)
露出したそこは膨れているだけで、まだ負けてはいない。
ロン自身は完全に戦意喪失して、見下ろしているイアンを、熱のこめて見つめることしかできない。
ロンが正気を取り戻す前に、外からまた別の曲が流れてきた。
「あれ……?」
祭りはまだ続いている。
「簡単に勝ってしまったら、つまらないですから。今のは前菜です」
そうか。前菜で終わってしまったら残念だろう。ちゃんと満足してもらわないと。
「……美味しい……?」
ロンの問いに、イアンは少し驚いた表情をして、すぐに微笑む。
「はい、とても」
低く艶やかな声色で応えてくれた。
喜びが胸に広がる。もっと食べてもらわないと。
「次の曲が始まったらまた探しにきます。それまでに着替えるといいですよ。……まあ、どうせまた汚すでしょうが」
牙をちらつかせた妖しい微笑みを残し、イアンは部屋を出ていった。
ベッドで仰向けのロンは動かない。誰も入ってこない自分の部屋で、下半身を露出させたまま。
(イアン様が……ここに……)
いつも通り余裕げな様子で、ロンを襲うように圧し掛かってきた。
「イアン様……」
目を瞑り、彼がいた光景を思い出す。
彼がいなくなったことをいいことに、熱を持ってしまったそこを秘密のうちに処理した。