血と剣 前奏曲 5
体の熱りが引かない。
(建物の中に入らないと……)
言いつけを破るわけにはいかないし、屋外はロンも望まない。
あてどなく一番大きい建物である本宮に向かう。
ゲームの開始地点であるイアンの居住区があり、その手前には広間や会議室や役人たちの執務室が並び、タリサの政治の中心地となっている。
通用口から中に入った。見張りに訊いたところイアンはこの入口を通っていないようだ。まだ近くにはいないだろう。
本宮の部屋の位置関係を思い浮かべる。
(もし残業中の人と出くわしたら体裁が悪いな)
イアンと違って、ロンは軍畑の並の隊長だ。城をうろつく正当性が薄い。
となると隠れ場所はイアンの居住区に限られる。使用人や警備はいるが、主の余暇に付き合っているとなれば彼らは寛容に受け入れてくれるだろう。
階段の手摺りに手を掛けたところで、
「ご苦労様です。今夜は冷えますね」
イアンの声がした。びくっと身を隠す。
「そうですね。公はまだお部屋に戻られないのですか。上着をお持ちしましょうか」
誰か他の男が返事した。廊下をそっと覗くと、警備の兵と立ち話をしている。
「いえ、もう少ししたら戻るので。ありがとう」
イアンは猫を被ると、背筋が伸びて所作が美しい。そうすると整った顔立ちも相まって、皆の憧れの貴公子へと変貌する。今はロンの血を多少吸ったところなので、演じる気力も十分だ。
「……あの、いかがされましたか」
それでも、廊下に置かれた長椅子の下を覗きこんでいると台無しだ。さすがに訝しがられている。
「少し探し物を。気にしないでください」
「はあ」
警備はイアンを気にしつつも、配置に戻った。
(結局皆、イアン様のこと好きなんだよな)
彼のおかしなところも簡単に受け入れる。
ちょっと意地悪なイアンのことも
――今のところロンにしか見せていないが、知ったらきっと好きになるだろう。
(イアン様は皆のことを大切にしてくれるから)
首にある噛み跡に触れる。
血は戦場で補給していて、タリサ領で手を出したのはロンだけ。
イアンはそう言っていた。
ロンだけがもらった、イアンに傷つけられた跡。
「…………」
体が熱って集中力が途切れがちになっている。見つからないように慎重に階段を上り、居住区へと急いだ。
扉を開くと、月明かりが広がっていた。中庭に突き出た窓辺から差し込む、淡い光。
ロンは城主の居間に来ていた。執務室や寝室の次にイアンがいることが多い場所で、何度かここで吸われたことがある。
(初めても、ここだったっけ)
音楽が聞こえない。もう終わったのかと窓を開けて、耳を澄ますとまだ続いていた。薄く窓を開けたまま、ロンは暗がりを探して、本棚の側のカーテンに隠れた。
しばらくすると静かで穏やかな曲が流れてきた。いままでの曲と印象が違うが、聞き覚えがある。そうだ。区切りにはいつも教会の典礼曲が演奏される。
(最後の曲だ)
神へ感謝を捧げる旋律が、浮かれた夜をなだめていく。
布に包まれて暗闇の中にいると、扉が開く音がした。
「ロン、ここですね」
彼の声。開いたままの窓から確信したのだろう。
ちょうど風が吹き込んできて、ロンはカーテンを握りしめた。
絨毯の敷かれた部屋では靴音がしない。無音の間があった後、
「見つけました」
とすぐ近くで声がして、髪がはみ出していたようで軽く引っ張られた。
ロンが手を離すと、覆っていたカーテンが音もなく離れていく。
そして、今夜ロンが逃げ回っていた相手が
――イアンが月に照らされていた。
彼が一歩近づき、正面からロンを押さえつける。ロンは抵抗せず彼を見上げた。
(こんなに格好良かったっけ……)
この関係になる以前のことがぼんやりとする。視界が彼でいっぱいになるような距離感。
「いただきます」
「
――ッ……」
首筋に走る覚えある痛み。同時に甘美な快感を捉えてしまったロンは、イアンの体に縋りついた。くすぶっていた熱が、彼によって簡単に呼び戻される。
「あぁ……、んっ……」
一番弱いズボンの前には触れてこない。
ただイアンが食むたびに、柔らかい髪が頬をくすぐる。指を絡めて手を握られて、それだけで繋がっているような気がして、気持ちが高まっていく。
「も……だめっ……」
あと少しなのだ。あと少しだけ耐えれば……。
「よく我慢できていますね」
イアンはそう言って頭を撫でた。
「
――……っ」
吸血行為が途切れたのはいいが、彼の声さえもロンには甘い毒なのだ。優しい主にそんなこと言われると、気持ちが蕩けて……。
「ご褒美は何を狙っているのですか」
「そ、それは……」
訊ねてきた唇は、ロンの血でほんのりと赤く染まっていた。言いにくくて目を逸らす。
「恥ずかしがらなくても。ロンはそこそこ出世が早い方だと思いますが、仕事はちゃんとしているので、もう少しくらい希望を言ってもいいのですよ」
――仕事?
考えてもいなかったことで、思わずイアンを見つめた。
「どうしました」
「…………」
からかわれてはいないと思う。仕事を玩ぶような人ではないから、ロンの働きを鑑みて、納得できる程度に引き立ててくれるのだろう。
けれど、今の時間は……自分は、タリサ公ではないイアンとゲームをしているのだ。イアンとだから、その先がご褒美でもお仕置きでもロンは幸せなのだ。
「私の、望みは……」
知ってほしい。
たとえ不相応だとしても、ロンが欲しいものを。一時で消えてしまってもいいから与えられたいものを。
――今夜ずっと、何を追いかけて、逃げていたのかを。
「……イアン様と、キスがしたいです……」
消えそうな声で、ロンはそう呟いた。
風がイアンの長い髪を揺らす。
「キス……」
彼は意外そうな表情をしていた。珍しいものを見るような視線にロンはたじろいだが、撤回はしたくない。涙目で見つめ返す。
「ふむ」
イアンはロンの想いをどう受け取ったのか。
やがて、いつもと同じ微笑みを返した。
「いいですよ。頑張って勝ってくださいね」
「んっ……ッ……」
婉曲的ではなくなったイアンの責めに、ロンの体は蕩かされて、湿り気を帯びていく。
(もうすぐ曲が終わる。耐えられる……)
首筋を食むイアンの唇の感触が、ロンを追い詰めて、そして律する。
(唇にしてもらうんだ……)
彼にしがみついて、快楽の声を上げながらも、ロンは耐えた。
「イアン様……」
「何です」
「いままで食料にした人間で、生きているのって俺だけですか」
「そうですよ」
……嬉しい。
イアンの唇がロンの血で濡れている。取り繕わないで、食べることに夢中になっている。興奮したイアンが、牙を突き立てた。肉を食らうような噛み方に、
「ああぁ……!」
ロンの興奮も絶頂に達した。
イアンが窓を閉じると、ようやく音楽が聞こえなくなった。
本棚の側板に寄りかかったロンは、だんだんと呼吸が落ち着いてきた。
(……負けた)
今夜の勝敗も、胸の中に受けとめる。
「寝室まで歩けますか」
「はい」
そう答えたが、ふらついて本棚に手をつく。いくつか本を落としてしまった。
「っ……、申し訳ございません」
「仕方ありませんね。今日は疲れたでしょうから」
イアンは優しく笑い、少し身を屈めてロンの膝裏に手を伸ばす。
「わっ」
ロンの体が浮き上がり、イアンに抱えられた。
男一人を横抱きにしながら、イアンは危なげなく歩く。
「ありがとうございます」
ロンは全てを預けて、その肩に頭をのせた。