うたたねは君のとなりで 2
翌日、工場バイトの単調な作業の中、なぜだか伝令や飛脚の出てくる小説が読みたくなった。バイトが終わった後、昨日と同じく図書館に寄る。
配架ワゴンに置かれていたトレイルランニングの入門書を見て、
(詩季がジョギングのこと話していたからか)
と気づいた。本を手に取り、ぱらぱらとページをめくり、ぱたんと閉じる。
(分からない世界だ)
タロウが運動を苦手とするせいかもしれないが、やはり山を走るのは危ないと思う。
ワゴンから離れて、今度は雑誌コーナーに吸い寄せられる。映画雑誌でアクション映画を調べた。
(意外と誘っていいか迷う)
続き物や原作物が多い。タロウは途中からでも気にしないが、詩季はどうなのだろう。
蛇行しながらようやく小説の棚に着いた。背表紙を端から眺めて、飛脚の出てくる時代小説を見つけた。
窓の外は晴れ。深いひさしでもたっぷり明るい。タロウはまたあの丘陵で読むことにした。
金魚草の咲く市道を下り、常緑の生垣の角を曲がると、スタイルの良いジャージ姿があった。
(
――詩季)
丘陵の登り口に彼がいた。
タロウは足を止める。十メートルもない距離だが、詩季はまだタロウに気づいていない。そっと生垣の影に隠れて、端正な横顔をうかがう。階段の先を見上げている詩季の表情は、憂いを帯びてみえた。
(……?)
昨日も少し元気がなかった。気のせいかと思ったけれど、もう一度見てしまうと気になってしまう。
(どうして、この場所で)
彼が見上げる先には、あまり他の人は来ない。タロウに関係することなのだろうか。
昨日だけなら、タロウの話がつまらなくて表情に出ていた可能性もあるけれど、それなら今日もここで立ち止まっている理由がない。
(金曜日の様子はどうだったっけ)
理由をさらに前日に探そうとするが、グループの違うタロウには、特に変わりなかったようにみえた。
(声、掛けてみようかな)
どきどきするけど、会話してちょっとでも気晴らしになれたら。けど、相手が自分でもいいものか……。
踏み出すことができず、道端で立ち尽くして迷う。そして、
(……もしかして、僕に会いたくないけど、いるかもしれないから……?)
と思い至った。
あの場所を気にいったと言っていた。ジョギングコースの側のようで、気分転換にもちょうど良さそうだし。……そこに合わないクラスメイトがいたら?
ぐっと手を握り、引き返そうと重心を動かす。
その時、鳥の声がした。
「あっ」
センダイムシクイの声。思わず緑深い丘陵の方へ踏み出す。
「あ」
振り向いた詩季と目が合った。
「タロウっ」
詩季の声と表情が喜びの色に染まり、こちらにまっすぐ駆け出してきた。
だが二、三歩で、抑えた足運びになる。
「あ、えっと……、偶然だね」
立ち止まった詩季は、少しぎこちない笑顔だった。
「そうだね。偶然」
しばらく覗いていたとは言えず、こちらもぎこちなくなった。
「今日も本読みに来たの」
「うん。あっ、ちょっと待って」
タロウは丘陵の斜面に広がる林を見上げた。目的の鳥は見当たらない。耳を澄ませても、もう一度鳴き声を聞くことはできなかった。
「……いなくなっちゃったかな」
「どうしたの」
「鳥を探していて、今、声が聞こえたんだ」
二人で登り口まで移動し、掲示板の『訪れる鳥』コーナーを指差した。
「鳥を見掛けたら名前覚えるようにして、ここ一年は写真も撮ってる。あとはこの子でコンプリートだよ」
センダイムシクイ。優しい緑色の小鳥だ。
「いっぱいいるけど、もうすぐなんだ。すごいね。……メジロと見分けが難しそう」
「目が結構違うよ。あとは鳴き声」
「鳴き声ってここに書いてあるやつか。実際分かるかな」
そう言いながら、詩季は時間を掛けて見ている。覚えようとしているようだ。
(学年トップが暗記している)
タロウはしげしげと観察するが、詩季は特別なコツは披露するでもなく、静かに掲示板を見つめるだけだった。
「あ、ごめん。黙っちゃって」
「ゆっくり見ていていいよ」
理知的な横顔が格好いいので、いくらでも構わない。
「あと、もしかしてさっき、俺が走ったから鳥がいなくなった?」
「ううん、一度しか鳴かないことはよくあるから、そうとは限らないよ。気にしないで」
そう答えたけど、詩季は肩を落としている。
「探しているといっても、読書のついでだよ」
焦ってフォローすると、どうにか笑ってくれた。
詩季は地面に視線を彷徨わせたあと、
「それじゃ、俺ジョギングまだ途中だから」
と言った。タロウはまだ詩季の元気のない様子が気になったが、留める理由も思いつかず、
「うん。また明日」
と応えた。
離れていく詩季の背に届かないよう、ぽつんと声を投げかける。
「また明日」
明日は平日。教室には詩季の友だちがたくさんいる。その周縁で埋もれているタロウに、話す機会は訪れるのだろうか。
今日訊けなかった憂い顔の理由は、もう訊けないかもしれない。
「詩季」
綺麗な音。呼ぶだけで特別な空気が運ばれてくるような気がした。