うたたねは君のとなりで 3
*****
詩季は体育館での朝練を終えて、校舎へと向かっていた。
(タロウ、もういるかな)
おはようくらい言いたい。できればもっと話したいけれど、タロウは少し困っているようにみえた。
(俺は話しやすかった)
こちらを見て、柔らかく返事を返してくれる。我がないタイプというわけでもなく、元々のんびりしたものを好んでいるように見えた。
木々と静寂に囲まれた場所。
眠る男の子と、傍らの一冊の本。
あの日は、違う世界へ迷い込んだ気がした。
目を覚ました彼は普通の同い年の子で、うっかり隣で寝てしまったことも微笑んでくれた。話し声と、ちょっとした仕草が、心地良い空気を運んでくれた。
(……でも、タロウの方は違ったのかも)
まだ映画を断られただけだ。タロウは優しくしてくれる。それなのに、脳裏をよぎる憶測が、詩季をぎこちなくさせる。
(どうしてこんな……)
正門から校舎までを歩く生徒たちの波。背の高い詩季は、その中に半分銀髪の後姿を見つけた。
「野田、おはよう」
振り返った制服姿の男子は、
「おはよう」
とだけ返し、また前を向いた。そっけないが、詩季が並んで話しかけると、イヤホンを外して会話に付き合ってくれた。
野田とタロウは教室ではいつも一緒にいる。タロウが本を読んで、野田がイヤホンを付けてスマートフォンを見ている姿を詩季はよく目にしていた。
タロウのことをいくつか質問する。
二人は休みの日はほとんど会わないらしい。図書館近くでタロウに会ったと言っても、野田は図書館の場所を知らなかった。
校舎の中に入る。
まだ一番訊きたいことを訊いていない。詩季は一呼吸置いて切り出した。
「タロウってあまり話すの好きじゃない?」
声に負の色が混ざらないよう言えただろうか。
「さあ。俺といるときは黙っていても話しかけても気にしないよ。手持ちの本が切れた時とかは絡んでくる」
野田の答えは、他の質問と同じように淡々としたもので、詩季はほっとした。絡んでくるタロウを想像して、微笑ましさに頬が緩む。
(相手が仲の良い野田だからというのはあるだろうけど、話すの嫌いじゃないならよかった)
もう少しタロウに話しかけても、迷惑ではないだろうか。できれば好む話題も知りたい。
「野田はタロウと仲良くなるきっかけとかあったのか」
「一年の四月、隣の席だったんだよ。それで弁当も財布も忘れた日、じーっと見ていたらパンくれた」
「……そんな格好悪いことはしたくないな」
「あぁん?」
*****
タロウは緊張しながら教室の扉を開けた。
(詩季は……)
彼の姿を探して、その長身を見つける。
窓辺に寄りかかり、朝の自然光を背景にした詩季。それだけで絵になっている。
「タロウ、おはよう」
目が合うなり挨拶してくれた。嬉しい。
「おはよう」
ちょうど詩季がいる場所がタロウの席の側なので、自然と近づく。
(あれ)
詩季と一緒にいるのは響だった。
(いつもバスケ部の人と話しているのに。珍しい)
タロウの席は響の前だ。タロウが座りつつ二人の様子をうかがうと、また詩季と目が合った。何か話そうかと、口を開きかけるが、続く言葉が思い浮かばない。
「今日、天気いいな」
詩季から話しかけてくれたので、
「そうだね」
と頷き返す。また言葉が途切れたとき、今度は響から声が掛かった。
「映画、観てきた。良かったよ」
「本当? どんな……」
嬉々として感想を訊こうとして、はたと止める。そうだ。僕は怒っていたんだ。
「あっそ」
「もう観た?」
「僕はまだ。響と出くわしたくなかったし」
「ヒロインも風景も綺麗だった。お前ああいうの見つけるの得意だよな」
「……そっかな」
「音楽も流れるシーンは少ないけど印象的だった」
「へー、じゃあ気にして観てみる」
「教えてくれてありがとな」
「どういたしまして」
まだ観てもいないのに得意げに応える。
そんなに楽しかったんだ。教えてよかった。僕も今週末が待ちきれない。
「ほら、こんなんでいいんだよ」
「うーん……」
響が詩季に何やら言っている。
「ごめん、詩季の話、割りこんだ?」
タロウが来る前の話の続きなのだろう。
「いや、大丈夫。俺も分かる話だし」
「夏城も『恋はねむる』、観たのか」
「まだ。いこうかなと思っているところ」
(観るんだ)
タロウはまたどきどきする。やっぱり一緒にいきたいと言ったら、詩季は受けいれてくれるだろうか。
迷っていると、
「夏城くん、映画の話?」
近くの席の女の子たちが声を掛けてきた。
「恋愛物も観るんだ。彼女いないんだよね。誰といくの」
「いや、……秘密」
「えー、教えて」
映画より詩季の交友関係を気にしている。詩季は曖昧に笑って、もう授業始まるから、と中央の列の席へと戻っていった。
(もう他に誰か誘っているのかな)
詩季が行ってしまったのを淋しく見送っていると、
「タロウ、夏城といくの?」
響が痛いところを突いてきた。
「響には関係ない」
椅子にまっすぐ座り直し、響に背を向ける。
「不機嫌ぶり返すなよ」
「ふん」
「ゆらも礼言ってたぞ」
「楽しんでた?」
後ろに振り向く。響の彼女とは、一年の時三人で同じクラスだった。
「ああ、お前のおすすめは信頼できるって」
「ゆらりんはかわいいなぁ」
ほっこりしていると、響が睨んできた。嫉妬深いやつめ。
その視線をかわすと、
(……!)
詩季の視線に気づいた。不安げな表情の彼は、タロウと目が合うと、焦った様子ですぐに逸らしてしまった。
(何かまずいこと聞かれたかな)
これといったことは言っていないと思うが、きまりが悪い。
なんとなく授業に集中できず、一時間目のノートを取り終わったとき、教室の生徒は疎らだった。次は化学室だ。教科書を手に、響と共に移動する。
「タロウ」
扉の側にいた詩季が小声で話しかけてきた。心では身構えたが、
「何? 詩季」
声は笑顔を作れた。だが、
「連絡先、知りたいです」
と言われて一気に嬉しさが溢れて、それと同時に緊張する。
「僕も知りたい……です」
ピッと小さな紙を差し出されて、あたふたと受け取る。ノートの切れ端らしき紙にはメッセージアプリのIDが書かれていた。
詩季は響にも頼んでから、素早く教室から出ていった。
女の子たちの噂話で、詩季はメッセージアプリを使っていないと耳にしていたが、タロウの手には今、鉛筆で書かれたローマ字の羅列がある。紙の白地がきらきら眩しい。
「遅れるぞ。登録は後にしよう」
「うん、分かった。内ポケットに入れたから覚えておいて」
「自分で覚えろ」
ジャージの上からあばらの辺りをそっと押さえる。走りだしたい気持ちを抑えて、早歩きで化学室に向かった。
テンションの上がったタロウに、なぜか響は実験の薬品を触らせなかった。