うたたねは君のとなりで 5
日曜日。
待ち合わせの電車が近づいてくる。
「おはよう」
約束通りの車両に詩季が乗っていて、タロウは隣に座った。映画館は終点の街にある。
日課のジョギングをすでに終えてきたと聞いて驚いたり、街歩きの服装も格好良いねと言ったら褒め返してくれたり、楽しい時間を過ごしていたら、本を読んでいるときと同じくらいの一瞬で着いてしまった。
映画『恋はねむる』。
主人公の男性が、静養に訪れた地で出会った女性に惹かれていく物語だ。
映像美に詩的な台詞が香りを添えて、ただただ美しい時が流れていった。
上映が終わり、場内の明かりがともる。
「良かった……」
「なー」
満足感で体が心地良く重い。立ち上がって背伸びをする。
「空気感、でいいのかな。こんなにひたれるものなんだ。タロウがこの監督の作品好きなの分かる」
「うん。なんか今回ちゃんと終わっていて良かったー」
「……いつもはちゃんと終わっていないの?」
ロビーまで来ると宣伝映像や客の騒めきで声が聞き取りにくい。
「カフェでも入る? 感想聞きたいし、小腹減った」
「入ろう。いっぱい店あるよね」
久しぶりの街にうきうきしながら映画館を出る。
駅に戻りながら探したが、手頃なカフェやファーストフードは混んでいて、空いている店は値段が高い。
「門前通り行く?」
「うん」
少し歩くと山際に建つ寺院への通りに出る。参拝客向けの店が並んでいて、食べ歩きも楽しめる場所だ。
「新しい店入ってる」
「おしゃれだね」
季節の果物がのったデザートが目を楽しませる。隣の店からは香ばしい揚げ物の匂いがした。
それぞれ食べたいものを買い、通りの中ほどで交差している緑地へと移動する。参拝客や近所の人でベンチは埋まっていたが、園路の縁石になら座れそうだ。
「もう少し奥に行くと、藤棚があるよ」
「わあ、いいね」
運が良く、藤棚の下のベンチが空いていた。座面の花びらをはたき、並んで座った。
薄紫色の木陰。後方の竹林からはせせらぎが聞こえてくる。清涼な雰囲気が心を洗う。
「いただきます」
小腹が空いたという話だったが、詩季が選んだのはコロッケピタ。しっかり一食分ありそうだ。
(お腹空いていたのかな)
タロウが試しに自分のメロンクレープを詩季の口元に近づけると、嬉しそうにかぶりついてきた。かわいい。
藤の木ってよく見たことなかった。
「幹がぐるぐるしてる」
儚げなイメージだったが荒々しい立体感がある。日本旅館の置物とかにありそう。
「蔓植物だから」
それにしてはがっしりとした木質である。朝顔のようなひょろさは先の方だけ。こんなのが伸びてきたら大変だ。
「細い蔓で他の木に巻きついて、短時間で天辺の日向を陣取った後、蔓を太らせて地面から吸い上げる養分を増やすんだよ」
「ひっ」
この藤棚は藤のために支柱を組んでいるからいいが、自然界で絡まれた木は災難だ。
食べ終わって、映画の感想を言い合った。
「本当に綺麗だったな。特に紫に会う場面」
藤棚の下で主人公は、ヒロインの紫に出会った。
「うん。景色が綺麗で、人物も皆それに馴染んでいて、その中でもさらに紫は印象的だった」
綺麗な人というイメージが押し寄せるように伝わってきて、そのあとの主人公の長房が初対面の紫に特別な想いを抱いている描写も、すんなり受け入れられた。
「ちょっとタロウに似てた」
「え?」
「あの丘で会った日の、初めてちゃんと話したときのタロウに」
聞き返してもヒロインのイメージに一致するところが思いつかず、タロウは首を傾げた。
レトロで清楚なお嬢様の紫。ジャージでごろ寝していたタロウ。
「似ていないよ」
タロウが言うと、詩季は笑った。
「俺には特別に見えたんだ。あの日、いつもと違う道を通りたくなって、通り掛かった丘の坂を登っていたら綺麗な栞が飛んできて、その先にタロウが眠っていた」
ベンチのある見晴らし台。今日のように天気が良い日だった。
「知り合いだと思ったけれど目を瞑っていたし自信がなくて、このまま栞だけ置いていこうかと迷ったんだ。でも栞が綺麗で……。綺麗なものが好きな子なのかなって思ったら、少し話をしたくなって待っていた」
「詩季……」
話したいと思ってくれたんだ。
詩季は少しロマンチックに受け取りすぎな気がするけど、タロウにとっても幸運な出会いだった。
「僕、詩季が話しかけてくれて嬉しい」
感謝が素直に言葉になった。
詩季の目が丸くなり、口元とともに緩んだ。
「タロウともっと話したい」
胸が高鳴る。自分の言葉で、詩季が喜んでくれた。
「うん! まだまだ話したいことたくさんあるよ」
好きな映画の話を好きな友だちと。
(楽しい!)
詩季が椅子に落ちている藤の花びらを一枚拾いあげる。
「藤って実際に下に入ってみると、屋根だけでなく房も垂れているから屋内っぽいな」
藤棚を見上げる。
たしかに。隙間はいっぱいあるが、こんもりとした花も、うねった蔓もボリュームがあり、タロウと詩季をしっかり覆っている。
「うん、紫が最後の方まですぐ席を立っちゃうの、そのせいかもね」
年頃の男女が二人きりだと、親密な様子に見えてしまう。紫は良いところのお嬢さんだし、主人公にはあくまで旅人として接していた。
「そうかもな。でも傘や帽子をしていないから、なんか仲良くも見えた気がする」
「なるほど」
それは気づかなかった。詩季は心情をよく見ているな。
「タロウは好きなシーンあった?」
「飛び石ぴょんぴょんするとこ」
「……どこだっけ」
「悩んだ長房が薄闇の中で庭を徘徊して、池の飛び石を歩くところの、足元の長回し。足の置き場に迷う感じが面白かった」
「言われてみれば、地味に凝った撮り方かも。どうなっているんだろう」
「ああいうの好き」
「うん……シーンは思い出せたけど、その時は長房の落ち込みとか、紫の台詞の意味とか考えていたからなぁ」
あの画には注目していなかったのか。じゃあ他のシーン。
「花のシーンは全部綺麗だった」
「そうだね」
「藤以外だと菜の花や向日葵のシーンが好き」
「俺も。苦しんでいても、明るさも忘れない感じで」
詩季が同意してくれた。嬉しい。
他のシーンについてもいっぱい話した。その自分の発言を振り返り、タロウは肩を落とす。
「なんか僕、綺麗とかばかりで、あまり意図分かっていないのかな」
詩季より映画を観ている量は多いと思うのに。複雑だ。
「そうかな? それでもいいんじゃない」
詩季の声は優しい。
「俺、あの雰囲気好きだけど、それがどこからくるのか全然分からなかったから、タロウの話聞いていたら少し分かった気がする」
「詩季は褒め上手だなぁ」
頬が緩む。
「俺……」
詩季の指先が、タロウの頬をつついた。
「タロウといると、誉め言葉が無限に出てくる」
「何それ」
嬉しいけど恥ずかしい。詩季のつついてくる指を摘まんで、行儀良く膝にのせさせた。
駅前に戻り、今度は買い物を楽しんだ。スポーツシューズを見たり、電器店でタブレットでの読書を試したりする。
本屋に寄ると、映画『恋はねむる』のノベライズがあって、それと他にもう一冊文庫を買った。レジ横の単行本の煽り文句に惹かれつつ店を出る。久々の本屋は危険だったが、どうにか二冊で済ました。
「我慢した」
「えらい。何かのために貯めているの?」
「うん。大学資金の足しに」
「そっか」
「あ、CD見ていい?」
「いくらでもいいよ」
隣の音楽店を覗く。
「もうすぐ響の誕生日なんだ」
「何かあげるの?」
「うん。僕の時CDもらっちゃったから」
特典を抜いて余ったやつだと思われるが、プレゼントはプレゼントだ。
詩季に誕生日を訊かれたのでお互い教え合い、陳列棚を眺めながら歩く。
「……どれがいいか分かんない」
「電話で欲しいもの訊いたら」
「んー、僕ばっかしっかり用意するの嫌だから、たまたまあげた体にしたい」
「複雑なんだな」
サントラコーナーでいくつか手に取るが、決め手にかける。
「やっぱりパンでいいか。カツサンドなら誕生日っぽいかな」
「え、うん」
詩季が肯定してくれたので、響にぴったりな気がしてきた。
「決めた。そうする。だから今日はいいや」
意外とすぐ決まった。いつもはこういうのだらだらと悩むのに。
「詩季と話していたら良いプレゼントが決まった」
笑顔でそういうと、詩季も微笑みを返してくれた。
(本当にうっとりするような顔立ちだよな……)
人柄の良さまで知ると、ますます見惚れてしまう。
「僕の誕生日は詩季の笑顔でいいからね」
そう言うと、詩季は赤くなった。
「俺も……タロウの笑顔がいい」
はじらいながらの返しの言葉に、タロウもつられて赤くなる。
安上がりな約束をしながら、冷やかしになってしまった店を後にした。
ほんのりと夕焼けに染まる空。まだ明るいが、夏至が近いから時間的には遅い。
「帰るか?」
と詩季が訊いた。タロウとしてはまだ構わないが、健康的な詩季に合わせて同意する。
折り返し運転のがらんとした車内。シートに座り発車時刻を待っていると、今日が終わることを意識してしまい淋しくなる。
(詩季とずっといられたらいいのに)
そんなタロウの気持ちをよそに、電車は間を置かずに動き出した。
流れていく夕暮れの景色。
今日は昼寝をしていないので少し眠い。けれど詩季とたくさん話したくて、のんびりと会話を続けた。
(僕ってこんなに話せたんだ)
タロウの言葉は、詩季に優しく受けとめられる。穏やかな声色に、安心して素直になれる。
「土日、晴れ続きで良かったね。あ、そういえば、バスケ部って土日ないの?」
「隔週で土曜の午前にあるよ」
ついでに平日のスケジュールも教えてくれる。
「意外と普通の量だ」
「体育館使う部活多いから。来週の土曜、うちが試合で留守だから、もうバレー部の予約が入っている」
「試合なの? え、遊んでいて大丈夫?」
「今日も軽く自主練はしたよ」
「そっか。来る前にジョギング終わらせたって言ってたもんね。努力家ですごいな」
「そんなことないよ……」
照れた。かわいい。
「詩季は試合……」
出るの? と訊こうとして、最近の詩季の暗さを思い出す。口をつぐもうとしたが、その前に詩季が答えた。
「出るよ。スタメン入ってる」
タロウはほっとする。
「そっか。良かったね」
試合に出られなくて落ち込んでいるわけではなさそうだ。
「うん……」
詩季は視線を落とし、指先を遊ばせている。
「試合って観にいってもいいの?」
タロウが訊くと、詩季が目を瞬かせた。きらきらした目。
「うん! 来て……、えっと、観られるかは場所によるんだけど、どこだったかな」
詩季がスマートフォンを取り出そうとしたところで、車内アナウンスがあった。タロウの降りる駅が近い。
(帰りもあっという間だった)
本を読んでいるときと同じくらい。
(……詩季は本と違って持って帰れない)
気づいてしまって、切なさが増した。
「試合観られるか、明日までに調べておく」
「ありがとう」
「あと今日買っていた本、読み終わったら貸してもらってもいい?」
「うん」
二重に約束を交わしていると、電車が駅に到着した。
タロウはホームに降り立つ。
「じゃあ、またね」
「また明日」
電車の轟音が詩季を攫っていくのを、しょんぼりと見送った。