うたたねは君のとなりで 9
大会は全国へは行けなかったが、去年より一回多く勝てた。
詩季の予定が空いて、今日はハイキングだ。
山村も誘ったが、山籠もりの修行ような日々とおさらばしたのだから、だらけるか街で遊びたいと断られた。
街へ行くときとは反対方向の電車に乗り、次の駅で詩季も乗ってくる。
「電車で待ち合わせ、映画以来だね」
あれから一か月ほど経った。小説版『恋はねむる』は読み終わり、詩季に貸出し中だ。
駅から五分くらいで登り口がある、気軽に登れる山だ。晴れ渡った空と、平屋の民家が点在する道。首筋に感じる日光。電車の中で詩季に日焼け止めを塗りたくられたことに感謝した。
登り口には小さな案内所があった。掃除は行き届いているが今は無人だ。
「あれ見ていい?」
壁に張られた季節の動植物コーナー。詩季は自然観察にはまったようだ。
「鳥はあの丘と同じような感じだな」
「花が多いね。楽しみ」
「きのこは触るなってやつしか載ってないな」
ぽつぽつと会話をしつつ、基本は無言で読んだ。
読み終わって壁から離れたのが同時で、
(あ
――)
自分と詩季は友だちということが、すとんと腑に落ちた。
「いくか」
「うん」
詩季は人気者で、クラスメイトだけど少し見上げていた。でも今は一緒にいる。きっと、気が合うという単純な理由で一緒にいるんだ。
緩い山道。とかげが横切ってびっくりしたり、三メートルほどとはいえロープで登る崖があったり、高原の花畑が広がっていたり。そんな道を詩季と歩いた。
「着いた」
頂上だ。
雑誌に載っていた写真も綺麗だったけど、実際に立つと広がりがすごい。眼下の茂みを、風が撫でていく。音と陰影の波が、この頂上を穏やかに包んでいる。
「詩季。行く場所選んでくれてありがとう」
「どういたしまして。次もこのくらいの山がいいかな」
「もっと高いところがいい!」
「あはは、分かった」
六月最後の晴れ渡る空だった。
小雨が降ってきた。
タロウと詩季は、いつもの見晴らし台のベンチにいた。
「木の陰になっているから大丈夫かな」
「タロウ、傘は?」
「ある」
「じゃあこのままでいいか。もっと降ってきても、俺は走って帰ればいいし」
タロウは顔を伏せて、本を懐に引き寄せて守る。本を読み続けるタロウの上に、詩季が頭から上着を掛けた。曇りで冷えるからと一応持ってきたタロウのジャージの上着だ。
「ありがと」
「どういたしまして」
詩季がジャージの位置を微調整しているのを感じながら、物語の中で晴れた日にトンボを追う。
(本格的に梅雨に入ったら、あまり会えなくなるのかな)
顔を上げて詩季を見る。水滴が彼の美貌にかかっている。とても軽そうな、淡い光をたたえた粒。
「読まないの?」
「ちょっとレア詩季集めしている」
絵になるなあ。
詩季は首を傾げていたが、気にしないことにしたのか、いつもの優しい表情に戻って、まんじゅう姿のタロウの頭を撫でた。
「もっと降ればいいのに」
「雨好きなの?」
「ううん。外にいたい時は好きじゃないけど。詩季は雨に濡れても格好いいなって思ったから」
雲が動く。
「あ、止んだかな」
空を見上げていると、隣にいる詩季が急に立ち上がり、見晴らし台の出口の方に向いた。
「走ってくる」
時間が早いから、今日はまだ日課の距離を走っていないのだろう。また降りだす前に終わらせたいのかな。
「僕はまだいるけど戻ってくる?」
「うん」
詩季は広い背中を向けたまま答えた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
舗装の十分でない山道を走ろうとした詩季を注意して、ちゃんと歩いて降りていく姿を見送った。
本を読み終わってしまった。
(まだかなぁ)
スマートフォンはあるが、画面で読みたい気分ではない。ベンチにごろんと横になる。
いつもの景色。
「今どのへんかな……」
詩季にジョギングコースを教えてもらったことがある。
「詩季はいつもどの辺を走っているの」
「んー、まず家が狸地蔵の側なんだけど分かる?」
「大鳥居の辺り?」
「そう。そこから川沿いに出てずーっといって、唐橋を渡って折り返す感じ。高低差欲しい時は図書館の方も行く」
このあたりの数少ない目印を思い浮かべて、結構な距離に驚く。
「遠くない?」
自分ならバスで移動する距離だ。
「部活がない日だけだよ」
補足されたその言葉に、
(そうだ、部活まであるんだ)
と思い出す。ハーフパンツから覗く詩季のふくらはぎを観察する。
「これが努力の形」
ファンタジー物の戦士の訓練って、一言で表されるけど分厚い積み重ねなんだろうな。詩季ならできるだろうが、タロウにはできそうもない。
まじまじと見惚れていると、詩季が照れた。かわいい。そして戦闘はしなさそう。
(……さみしい)
詩季を待ちわびながら、本から栞を抜き出す。詩季が拾ってくれた薄紫色。
のどかな静寂の向こうで、足音がした。
「詩季っ」
体を起こす。すぐに待ちわびた相手が登ってきて嬉しくなる。
「ただいま」
「おかえりー」
詩季が隣に座った。こめかみに汗がにじんでいるのを見て、バッグからハンドタオルを取り出して勝手に拭く。詩季は大人しく世話を焼かれている。
(他に汗かいていないかな)
詩季の前に回ると、彼と目があった。詩季はタロウを目に入れると、じっと見つめ返してきた。
「詩季?」
「あ……」
「他に拭くとこある?」
「大丈夫」
その日はなんとなく、詩季が目を逸らしているような気がした。
(詩季がおかしい)
最近、急にどこかに行ったり、逆にこっちをじっと見ていたりする。
(どうしたんだろう)
また何か悩みがあるなら、なんでも力になりたい。
そういう気持ちを込めて彼の肩によりかかると、詩季の方もよりかかってくれた。温かい体温に安心して、いつのまにかタロウはうたたねしていた。
次の週の土曜日は本格的な雨だった。日曜日の天気予報も同じで、梅雨入りの文字が表示されていた。
(外は無理だな)
雨の匂いのする道。図書館に着いて、傘から水を払う。
(わあ……)
前庭の少し奥に紫陽花が咲いていた。雨の向こう、目の覚めるような青が浮かびあがっている。写真に撮り、グループメッセージに流しておいた。
館内は人が少なかった。本を探している時、詩季からの返事が来た。
『綺麗だね』
短い言葉。けれどとても嬉しい。
それと同時に寂しくなる。
(遊びたいな)
詩季の家の場所はだいたい知っている。
(あの辺りで表札を見て回ればすぐ……。だめ、そんなことしちゃだめだ……)
詩季不足が深刻……。
ふと入口の方を見ると、長身のスタイルの良い男がいた。タロウはすぐに彼の方へ向かう。
「詩季!」
「紫陽花見にきた」
嬉しい。
「……こっちだよっ」
思わず手を繋いで引っ張った。
軒下を移動し、紫陽花の見えるところまできた。繋がっている手に気がついてタロウは手を緩めたが、詩季の握り返す力は緩まなかったので、また握った。
(会いたかったのが伝わったのかな)
嬉しくて、胸が締めつけられるようだ。
(詩季……)
詩季を親友というのは、おこがましいだろうか。
そんなことない気がする。
……とても大事な人。
図書館の中に入り、階段で上へと向かう。その間も手は繋がったままだった。
図書館の最上階は展望台になっている。全面に大きな窓が張られていて、晴れた日は辺り一帯が見渡せる。だが今日は雨が煙り、二人が足を踏み入れた時は誰もいなかった。
「静かだね」
「うん」
ゆっくりと手を引かれて、窓辺へと向かう。外が見やすいように、中の明かりは最小限になっている。
雨霧のため、案内板に記された山容や古戦場はとても探せないが、霞んだ景色も幻想的で綺麗だ。
タロウは景色を眺めていたが、ふと詩季を見ると、またじっとこちらを見つめていた。
また悩んでいるのだろうか。なんでも聞くし、なんでも力になりたい。
「どうしたの」
自然と明るい声が出た。隣に詩季がいればそれだけでタロウは幸せだ。
「好きだ」
返ってきた詩季の声は、緊張していた。
その声色は意外ではなかった。悩んでいるようだったから。けれど、言葉の意味するところが理解できなかった。
好意だ。いつものように嬉しくなるはずなのに、タロウの体は冷たくなる。
タロウが答えないでいると、詩季は少し弱った顔をしながら、
「……恋人になってほしい」
と言った。
タロウの手の力が抜けて、繋いでいた手が離れた。
霧がかった窓の向こうは、花曇りのようだ。
詩季が以前言っていたことを思い出す。
――あの丘で会った日
窓には雨と土埃が縦筋を作っていて、長い房が垂れているように見せている。
――タロウに似ていた
それは藤の花に似ていた。
友だちじゃなかったの……?
茫然と見上げていると、詩季の唇が震えた。
「……ごめん……」
背を向けて離れようとする詩季に、泣きたい気持ちが溢れた。
離れたくない。
「詩季っ」
手を引く。振り返った彼の胸に抱きつく。
「詩季、詩季……」
首元に頭を寄せて縋りついた。彼が抱きしめ返してくる。
「タロウ、嬉しい……」
「
――……」
一瞬息が止まるが、
「詩季……」
ただ、彼の名前を呼び返した。
優しく撫でてくれる手。
友だちではなく、恋人を撫でる手。
それでも、もう離れることはできない。誤解の中に埋もれてしまいたかった。
詩季の温かい胸の中で、こんなにも熱い鼓動の音を聞きながら、どうして自分の体は冷えていくばかりなのか。
考えたくなかった。
詩季と友だちになりたい。
詩季と過ごした日々が幸せだった。
もし明日から詩季が側に来てくれなくなったら。
こわい。
――僕はどうやって、この居場所を手に入れたんだろう。
答えを知りたくない問いが、何度も脳内を巡る。
恋人の詩季が微笑む。友だちの詩季が、見えない。