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 11. 帰還






 晶に似た男の寝顔に、祈は見入る。

「……あっ、シーカは?」
 見惚れている場合じゃない。あの乱暴者が暴れたら大変だ。きょろきょろと見回して、コニファーの植木鉢の向こうにぼんやりと巨体が見えた。奏に教わった見方を思い出して集中すると、シーカだと分かった。シーカは辺りの様子を確認しているのか、ゆっくりと歩いていた。

「ここ、亜空じゃない」
 妖が見える人にしか見えなくなっている。亜空というのは、理があの世界に仮で付けた名前だ。

 祈も辺りの様子を確認する。
 大きな建物の立ち並ぶ海辺で、岸はすっきりと舗装されている。見覚えがある。

「東京だ。ここは……レストラン?」
 祈が立っているウッドデッキは、二階建てくらいの建物に接していて、テーブルとイスが並んでいる。客がコーヒーカップを片手に談笑しているのが見えた。そんなテラス席の中で、この一席だけ鉢植えの緑で仕切られて目隠しされている。どうやら従業員の休憩スペースのようだ。テーブルの上には、エプロンが無造作に置かれている。

「ここ、入っちゃいけないところかも。あ……、シーカ、大人しくしてね」
 コニファーを擦り抜けて、シーカが祈に近寄ってくる。ライバルの奏がいない今、”歌”を持つ祈をターゲットにしたようだ。
 祈の歌は十年間、奏の術によってその力を封じられているので、シーカは以前のようにお構いなしに攫ったりしない。亜空でも、近づいてきては何もせずにうかがっているだけだった。

 だが祈の余裕の態度とは裏腹に、シーカは唸りだした。

「えっ、何?」
 晶に腕を伸ばすシーカに気づき、祈はとっさに割って入った。

「まさか殴られたこと覚えてるの!? だめだよッ」
 そう言ったが、シーカは止まろうとしない。

「待って……、そうだっ」
 祈は自分の首に触れる。すると奏に付与されたギザギザの光の首輪が浮きあがる。祈の声に含まれる妖力を封じるためのものだが、小さな妖も封じることができると奏に教わった。

「封印!」
 首輪の光が多重になり、シーカに絡まった。そのまま収縮し、シーカごと祈の首元に収まった。

「やった。―! 苦し……っ」
 妖力の流れが縄のように膨れて、祈の首を締めあげた。この首輪で封じるには、シーカの妖力は大きすぎる。奏は祈の妖力の漏れを抑えるために術を首に付けてくれたが、それがまずい事態を引き起こしている。

「やめ……っ」
「ん……」
 眠っていた彼が声を出した。祈はとっさに、植木の隙間から這い出て、ウッドデッキから降りて隠れる。
 本当は話してみたい。祈が思っているように晶なのか知りたい。けれど、術に首を締められながら従業員スペースに勝手に入っている理由を説明できない。

「……あれ、楽に……」
 晶と離れると、シーカが大人しくなった。首輪を確認していると、コニファーの隙間から、彼が身を起こすのが見えた。もう一度近づきたいが、またシーカが暴れ出すのが怖くて、祈は隠れて見守る。


「今、誰か……」
 耳に心地良い声が聞こえた。祈の心は一瞬喜んだ。だがすぐに、いたことに気づかれていることに焦る。
 そこへ、

「晶」
 ドアが開く音と、別の男性の声がした。
 ―晶と呼んだ。

「ルイさん」
「入ってもらっていいか?」
「はい」
 立ち上がってエプロンを着ける”晶”に、祈は注目する。

「……本当に晶……?」
 齢の頃も、印象も、名前も晶だ。でも彼は、東京には住んでいなかったはず。あの日はたまたま泊りにきたのだから。
 祈は彼らの話に耳を傾けた。

「何を聴いていたんだ」
「シャーベット・ブルーです」
「ああ、いいよな」
「はい。ボーカルの声、なんか落ち着く。これがあるとよく眠れるんです」
「それは良かったな」
 あの晶は微笑みながら穏やかに話す。優しげなところは似ているけれど、溌剌とした晶に比べて、どことなく影があるように感じた。

「でも、気疲れしているんじゃないか。高三で転校してきたんだろう。何もこんな時期に……」
「ルイさん、立ち話していて大丈夫ですか?」
「そうだった。ホールの方頼む。俺は配達に行くから」
「配達……。あ、ミサキですか」
「ああ」
 祈は思わぬ名前が出てドキっとした。

「俺が行ってもいいですよ。変わったビルだし、一度入ってみたいです」

―……一度」
 祈は呟いた。

「入ったことあるの、忘れちゃったのかな……」
 あの時二人は八歳だった。幼い。けれど祈はあの日を忘れたことなんてなかった。

「いや、俺が行くよ。少し無駄話もする仲だし」
「……そうですか」
 晶と男性の会話はそれから二、三続いたが、祈の頭には入ってこなかった。

 少し移動して、店の表の方へ回る。店はお洒落な雰囲気のカフェだった。『風の楽屋《かぜのがくや》』という店名が掲げられている。駐車場の端に止めてあるバイクの影に隠れて、晶の姿を探す。
 ガラス張りの店内で、エプロンをつけた晶が立ち回っている。背が高く、薄着のため筋肉もしっかりついていることが分かる。にこやかな表情と、運動が得意そうな体格。晶に似ているのだが、やはりどこか暗くて、あの天使の微笑みをくれた子だと確信できない。


「見てみて、ナミっ」
―!」
 後ろからの声に、祈はびくっと驚く。振り返ると、カフェから出てきた女性客が二人、頭上を指差していた。

 通りを挟んだビルの三階から七階まで覆った電子掲示板に、青色のドレスに身を包んだ女性が堂々と歌っている姿が映っている。挿入されたテキストには『Sherbet Blue』と書かれていた。

「シャーベット・ブルー。……晶の好きな曲の、歌う人?」

「綺麗ー。アートも良いけど、ナミって絵になるよね」
「ねー。”氷の歌姫”ってあだな、似合ってる」
 女性二人は楽しそうに話しながら去っていった。

「びっくりした。ナミか。七海《ななみ》かと思った」
 ミサキの”双子”の女の子の方が、七海といった。晶に好かれている歌手の名前が、エイとビビが求めていた”双子”の名前に似ているなんて。

「悪いことが重なる……」
 祈は膝を抱えて、泣くのを我慢した。

「君、どうしたの?」
「え……」
 はっと顔をあげると、さっき晶と話していた男性がいた。ラフなジャケットを着た、体格の良い男。ヘルメットと、”風の楽屋”と印字された紙袋を手にしている。祈が隠れていたバイクに乗ろうとしたところのようだ。

「な、なんでもないです」
 どこうと立ち上がると、涙が零れてしまった。

「えっと、涙拭く?」
「……ありがとうございます」
 紙ナフキンをくれた。受け取って涙を拭く。だが、優しくされて安心すると、ますます涙が零れてくる。

「よかったらパン食べて」
 近くにあった椅子を勧められて、紙袋から取り出したパンをもらった。

「ありがとうございます。あ、パン、配達するんじゃ……」
「遅れてもいいやつだから大丈夫」
「そう、なんですか……。美味しい」
「ありがとう。気に入ったら今度店で食べて。俺はここの店長している。ルイだ」
 ルイは大砂涙《おおすなるい》というフルネームも名乗った。

「僕は祈です。苗字はありません」
「ハンドルネームか何か?」
「? 違うと思うけど、よく分かりません」
 理に一般常識は習ったけれど、この受け答えで合っているだろうか。

「えっと、一人?」
 そう訊かれて、

「友達に会いたいのに、会えない……」
 と祈は暗い顔をした。シーカを無視して無理矢理でも近づいた方がいいのだろうか。けれど奏襲撃で腕を上げまくったシーカを、晶に近づけたくない。

「友達ね。連絡もとれない?」
「携帯ないし、近づけない」
「一旦帰ったりは」
「帰るところない……」
 亜空に戻る方法が分からないし、分かったとしても、晶の側に帰ってくる保証がないなら戻らない。

「とりあえず、警察とか役所に行くんじゃだめ? 駅前にあるから。パン作り直すの待っててくれたら連れていくよ」
「ありがとうございます。お願いします」
「分かった。十分くらい待っていて」
「はい」
 すごく親切な人だ。店の中に戻ろうとするルイ。できればもう少しだけ、質問したい。

「あと、妖の駆除を頼める場所って分かりますか。神社かお寺でしょうか」
 奏がいないなら、似た力を持つ人を探したい。
 祈の質問に、ルイの表情が変わった。

―……祈君。もう少し詳しく教えて」
「……? はい」
 店に戻るのを止めて、祈の側に戻ってきた。


 その時―。


『皆ぁ―! ルージュのお楽しみタイムだよー!』
 辺りに突如、スピーカー音が鳴り響いた。大音量の子供のような機械音声が、街全体に木霊している。

「……?」
「! ルージュっ!」
 人々が歩みを止めた。不安そうに辺りを見回している。ぱっと、店の向かいの電子掲示板の表示が切り替わった。荒いドットを3D化したようなクマが、にぎやかな音楽と共に現れた。

『今日のイベント会場はここだー!』
 東京周辺と思わしき地図が表示される。湾岸のある地点に赤い×印があり、画面がズームアップしていく。

「すぐそこじゃないか! 祈君、とりあえず店の中に避難して!」
「えっ、でも……」
 中には晶がいる。また首が締まってしまう。

「あれは犯罪予告のジャック放送なんだ!」
「!」
 ルイに店の入り口の方へ引っ張られていると、晶が飛び出てきた。辺りを見回している。

『5……、4……』
 ルージュのカウントダウンが聞こえてくると、驚いた様子で目を見開いた。その唇が、何か三文字を呟いた。

―……っ」
 晶が近くにいて、祈の首は予想通り苦しくなる。

「ごめんなさい!」
「えっ」
 祈はルイを突き飛ばして、その手が緩んだ隙に走り去った。

「祈君!」
『ゼロ―!』
 ルイの呼び声を、ルージュの声と豪快な水音が掻き消した。


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