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◇◆ 灯台無駄暗し 3 ◇◆
 休み明けの月曜日。更衣室を出た途端、珍しくもなく香取に話し掛けられた。
「お前、時計を忘れてっただろ?」
「え? あっ!」
 そうだった。何か物足りないと、ずっと思ってはいたんだよね。
 だけど最近はブレスレット感覚で時計を嵌めているだけで、時間を確認するのは携帯だったりしてさ。
 死んだばーちゃんが高校入学祝いに買ってくれた、形見みたいな時計なのに、その存在を忘れちゃう私って、酷くいい加減な女だよね。

「ほら、合鍵渡しとくから、好きなときに勝手に入ってもってけよ」
 ポケットから飾り気もクソもない、そのまんまな鍵を取り出した香取は、いつもの如く無頓着に、ムカツクほど無愛想に鍵を放って寄越す。
 だから、慌ててそれをキャッチして、鍵を眺め見ながら返答する。
「あ、あ、りがとう。今日行くよ。あれ大切な……」
「ばーちゃんの形見だろ? 知ってるよ」
「あ、そうだよね」

 ばーちゃんの通夜に、何故か香取が現れたことを覚えている。
 あのときは、なんて律儀な男なんだと思ったけれど、香取を知り尽くした今となれば、通夜の席の寿司が目的だったことが解るってもんだ。
 それでも、来てくれたことが嬉しかった。
 気持ちが弱っているときに、普段と何一つ変わらない物を見ると、安心するって言うかさ。

 というか、何この鍵。キーホルダーくらい付けろっつうの。
 しかも香取のことだから、誰にでも平気で、こうやって合鍵を渡すんだろうな。
 私で何人目だよ。否、私の場合は例外な理由なんだから、除外するべきなんだけど。
 それでも、何この苛々感。昔から、こいつと関わると、こうやって苛々するから腹立たしいんだよね。
 だから、なるべく関わらないようにしているんだけど、何故か何時も近くに居るって言うかさ。

 そんな私の物思いを余所に、香取ではなく、同じ部の我孫子くんに声を掛けられた。
「館山さん、DCT好きだって言ってたよね? これ、今度の土曜なんだけどさ、一緒に行かない?」
 差し出された紙切れを見れば、大好きなアーチストの結構良い席チケットが目に映る。
 しかも、誘ってくれたのは、女子社員好感度ナンバーワンな我孫子くんだ。
 うわラッキー。まだまだ私も捨てたもんじゃないよね。いい感じじゃん。
 それなのに、あれ、何で躊躇ってるんだ。ただ行く行くって、可愛らしく即答すれば良いだけなのに。

 けれどそこで、未だその場に居たらしい香取が、私のもやもやを解消してくれる言葉を吐いた。
「お前、その日休日出勤だろ? あ、俺は代われないから」
 そうだ、そうだった。完全に忘れていた。否、心の片隅では覚えていたから、我孫子くんのお誘いに躊躇したんだな。
 というか、代わってよ、代わってくれよ。普通なら代わってくれるだろ?
 こんなチャンスは滅多に無いのよ、もう。二十五過ぎると特に。
 でも代われるはずがないよね。なんたって香取とは部署が違うんだから。

「ご、ごめん、何処をどう考えても、代わってくれそうな人がいない……」
 がっくりと肩を落として呟けば、気まずそうな表情を一瞬だけ浮かべた後、我孫子くんに平然と笑顔で言い返されました。
「あ、いい、いい。気にしないで? 違う人誘うし」
 だ、誰でも良かったんだね。危ない危ない、うっかり勘違いをしちゃうところだったよ。
 全く、男って生き物は、どうしてこうも軽いんだ。香取もそうだし。
 こいつが駄目なら、あいつにしようって思考がムカツクんだよね。香取もそうだし。
 人間にスペアが在ってたまるかっつうの。鍵のスペアだって見るだけで苛立つのにさ。

 ということで、苛立ちを解消しようとその場を離れれば、後方から聞こえる男の会話。
「なぁ香取、お前って館山さん狙ってんの?」
「は? そうだとしたら、俺の十年は無駄じゃねえか」
「そうか、そうだな。好きならとっくに誘ってるよな」
 そうだそうだ。当然だ。なのにちょっと、ショックなのはどうしてだ。
 確かにこの間抱かれたのは、勢いの他ならないけどさ、好きでも何でもない女を平気で抱けるんだね。
 そんなこと言ったら、好きでもない男と平気で寝た私も、罰せられる対象なんだけどさ。

 さらに、角を曲がった瞬間、香取を狙っているという噂の女子が、テンション高めの声で、香取本人に話し掛けたのが聴こえた。
「やだ香取くん、今、玲に鍵渡してなかった?」
「あぁ、仕方ないじゃん。腐れ縁だから」
 そんな無碍に言い捨てるなよ。やっぱりちょっと悲しくなっただろ。
 言っておくけど私は、ちょっとだけ、お前に好意を抱いていた時代があったんだぞ。

 高二のクラス替えで、選択授業が全て一緒だと、同じクラスになれる確立が高いという噂があったから、苦手な物理まで泣く泣く選択し、そっくり同じにしたんだ。
 進路志望だって、国立を受験するとか言い出すから必死で勉強したし、就職活動だって……って、ちょっと待った。それじゃ私が、ずっと香取を好きだったみたいじゃないか。
 違うよ違う。そうじゃなくて、ずっと傍にいるのが当たり前だったから、なんか面倒だし、なんとなく同じ物を選んでいただけだ。
 それに、香取にだけは、負けたくなかったしさ。

 そんなこんなの、ぶすっ垂れた仕事帰り。
 約束通り、腕時計を取りに香取の部屋を訪れた。
 何故だか少し、ドキドキしながら鍵を開け、狭いんだか広いんだか解らない部屋の電気を点ける。
 香取の部屋は、言うほど汚くはないが、褒められるほど綺麗でもない。
 それでも、取りに来させたんだから、解り易い場所に時計を置いてくれているはず。
 なのに、無い。見渡す限り、それらしき代物は何処にも無い。

『何処に置いてあるの?』
 仕事中だと悪いから、メールで問えば、直ぐに返ってくる不思議な返答。
『どっか、そこら辺にあるだろ?』
 どっかって何処だよ。それが解らないから聴いてんじゃん。
 大体、いくら相手が香取とはいえ、引き出しの中などを物色したら悪いだろ。
 流石の私だって、その程度のマナーは持ち合わせているのだよ。全くさ。

 バッグと携帯をソファーへ放り投げ、ぶつぶつと文句を垂れながら、部屋の見える範囲内を物色した。
 それでもやっぱり見当たらなくて、諦めかけた頃に、カチャンと開く玄関扉。
「ただいま」
 確かに香取の部屋なのだから、その台詞は間違っちゃいないけれど、私が返事をする義理はない。
「何処にもないよ。何処で見たの?」
 だから、何の挨拶もしないまま、要件だけを問質せば、何故か執拗に同じ台詞を繰り返された。

「ただいま」
「ねぇってば、何処で見たの?」
「ただいま」
「香取聴いてる? ねえってばっ」
「ただいま」
「お、おかえり……」

 結局、言わされた。改めて言うと、なんかちょっと照れ臭い。
 さらにそこで香取が偉そうに、ヨシってな具合で深く肯くから、微妙に湧き上がる敗北感。
 それでも、漸く本題に入ってくれたから、今度はこっちがヨシって感じで。
 が、本題の方が、めちゃくちゃ適当なのは何故なんだ。
「あるだろ? 朝見かけたんだから。何処かは覚えてないけど」
「覚えてろよ、覚えていてくれよ」
「とりあえず俺、風呂入る。頑張って探せよ」
 何それ。何だそれ。何で私が、お前の部屋でトレジャーハンティングをしなきゃならないんだよ。
 そりゃあ、忘れたのは私だけれど、もうちょっと積極的に、ほんのちょっと責任感を持とうよ!

 そんな心の声が聴こえたのか、脱衣所へ向かう香取の足がつと止まり、不意に振り返って物申す。
「お前、寝室見たの?」
「え? 見てないよ?」
 人様の寝室を見るのは、気が咎めるだろう。変な臭いが籠もってそうだし。
 けれど香取は、気だるそうな表情と嫌みったらしい口調で、私のボケっぷりを言い正す。
「莫迦じゃん。あるとしたら、ベッドの周りだろ?」
「あ、そうか……」

 男の部屋で腕時計を外すなど、水仕事をするときか、えっちするときに限るってもんだ。
 あの日私は、水仕事をしていないんだから、取ったとしたら、それはベッドでじゃん。
 ということで、やってきた寝室なのですが、先日の光景がリアル残像として浮かびます。
 思い出し笑いではなく、思い出し赤面を仕出かしたんですが、どうしよう。
「い、いかん。そんな過去よりも、今は腕時計だっつうの!」
 だから、自分に自分で渇を入れ、相変わらずの時計探しに精を出す。
 が、やっぱり見つからない。どうやら、過去を思い出さなければ、見つからなさそうです……

 あの日、高校の同窓会がどうのこうのってな理由で、ここに呼び出され、テイクアウトのファーストフードをもりもり食べて、あれ? それからどうしたっけ?
 とにかく気づいたら、自ら進んで服を脱いでいた。
 いつも思うんだけど、香取の眼鏡レンズには、特殊な効果があるんじゃないのかね。
 屈折率の波長が分散型のプリズムを生み出し、スペクトルを得るんだよきっと。否、化学的にも科学的にも証明できないけどさ。
 それでも、レンズ越しの瞳に射られると、私の原子クラスが硬直しちゃうの。
 そして、何も考えられなくなって、言われるがまま、香取の言いなりに……

 香取の手ってさ、掌よりも指の方が長いの。
 そりゃ、曲がり形にも男だから、女みたいな細さじゃないんだけど、それでもスラっと細長くてさ、その指が眼鏡のフレームを正すとき、妙な色っぽさがあるの。
 フレームを正すとき、瞼を閉じるのが香取の癖で、フレームから指が離れた瞬間、くって瞼を開いて、二重なのに切れ長の瞳が、私を見つめて、それで、それで……
 可笑しいだろ。一体、何を考えてるんだ私。
 恋する乙女じゃないんだから、こんなこと考えちゃうのは可笑しいのに。

「で、見つかったわけ?」
 背後から突然声を掛けられて、コント並みのダイナミック具合で飛び跳ねた。
 さらに、慌てて振り返った先の光景を見て、清々しいほど気持ち良く、赤面したに違い無い。
「なっ、なんで裸なのっ」
「下着が此処にあるから、取りにきたんだろ?」
 そうだけど、そうなんだけど、香取の上半身にどきどきしちゃって頬が熱い。
 高校時代から、仲間内でプールだ海だと出かけて散々見てきたんだし、全く同じ物なんだから、今更、こんなものにドキドキするな私。

 そんな私の赤面を、見透かしたように香取がホザク。
「何? また抱かれたい?」
「だ、誰がそんなことっ」
「いいよ、俺は一向に構わない」
 背中に宛がった指が、一瞬にしてブラのホックを外したんですが、何この早業。
「あっ、ちょっと何やらか…んぐっ」
 しかも、パニクってる間に唇を塞がれ、思考回路がスパークしちゃいました。

 それでも、香取の唇が私の唇を離れて首筋を辿り始めれば、漸く復旧する思考能力。
「や、やめっ…汗、きたな……」
「俺は気にならない」
 お前が気にならなくても、私が気になるんだってのっ。
 なんでそう、いつもいつも、世界は俺中心に回ってるってな自己中加減で事を進めるんだ。
 それでもって、さらに輪を掛けて、意地悪ぅな顔で命令を囁くんだよ、いっつも。
「玲、舌出せよ」
「あ、ご、ごめ…んっ…んふっ、」

 もうヤダ。なんでそう言われたからって莫迦素直に、舌を出しちゃうんだろ。
 いつだってそうだ。いつだってこうだ。何でか、香取ごときに逆らえない。
 大学に入学したてのときも、そうだった。就職活動直前でも、こうだった。
 香取は何時だって急に触れるから、驚いてパニクっている間に、どんどん事が展開しちゃって、香取の気の済むまでやられ放題で……

 初めてのときだって、めちゃくちゃ痛かったけど、ちょっとだけ幸せだった。
 それなのに香取は、物凄く怒ってて、私が何かヘマをしたのかと不安になって、それを問おうと思っても、その日からずっと避けられ続けてさ。
 さらに、ちょっとケバ目の年上女と、とっかえひっかえ付き合いだしてさ。
 まるで、私が下手糞過ぎるから、上手な相手と遊んでるんだと言われているようで、凄くショックだったんだよ?

 そのくせ、私に彼氏ができると、決まって文句を連ねてさ。
 お前は莫迦だから直ぐ捨てられるとか、不安になるような捨て台詞を散々吐いてさ。
 それで、本当に不安になって別れちゃったりすると、それみたことかってな具合で、嘲り嫌味をすっごい笑顔で放ってさ。
 だから、こんなやつ大嫌いだって無視すれば、何でかな、此処だってときに必ず現れてくれるのがこいつだったりするから、結局は離れられなくて傍に居て……

「くぅぅっ…やっ、やだっ、や、やだぁっ!」
 ほら、今日もまた、パニクっているうちに、いつの間にか服を剥ぎ取られてるし。
 だけどもう、こんな自分とは卒業するの。だから、断固拒否って、抵抗しまくるの!
 それなのに香取は今日もまた、眼鏡を掛けたままで、私の名を優しく呼ぶ。
「玲……」
 香取は狡いよ。あのときも、そうやって愛し気に私の名を囁いて、好きだよって何度も言ってくれたけど、全部全部、嘘だったじゃん。
 意地悪は本心から言うくせに、私が嬉しかった言葉は、いつだって口から出任せだったじゃん。

「ず、ずるいよ…そうやって、香取は嘘ばっかり……」
「俺が何時、嘘吐いたんだよ」
「吐いたじゃん、吐いたでしょ!」
「嘘を吐いたのはお前だろ?」
 眉間に皺を寄せて、嫌疑を懸けるのは解るけど、どうして、私の脚を持ち上げながら言うんだ。
 だから、咄嗟に抵抗したものの、難なくがっちり抑え込まれ、ショーツを脱がされた。
 そこで漸く、香取の嫌疑が、何に掛けられたものなのかを悟る。
「ぃやっ、やめっ」
「初めてだったクセに」

「ち、ちがっ、ぃやっ、やめ、…ひゃうっ!」
 懸命に暴れたさ。何されるか解ってたもん。
 だけど力で香取に敵うはずもなく、全てを封じ込められ、花芽に吸い付かれた。
 思わず広がった脚を閉じたけれど、香取の頭を挟んだだけに終わっちゃうし、腕を伸ばして、かぶり吐く香取の頭を退けようとすれば、もっと強烈な刺激に見舞われ固まった。
 とろりとした感触が、中心から全身に広がって、肌を纏い離れない。
 さらに、花弁を指で押し広げられ、直にちゅくちゅくされちゃったから堪らない。

「くぅぅぅっ、ぁぁぁっ」
 もうヤダ。本当にヤダ。こんな屈辱なんて、有り得ないよ。
 香取は石鹸の香りを漂わせているけれど、私は仕事帰りのままだ。
 満員電車で汗だって沢山掻いて、おトイレだって何度も行ったし、こんなのヤダ!
 それなのに、抵抗するどころか、仰け反って感じちゃって、我慢できず声だしちゃって……
「んんんっ!」
 だから両手で口を塞いだけれど、それを狙ったように指を差し込まれ、指の隙間から声が漏れた。

 香取の長い指が、襞の中を押し捏ねる。
 フレームを正すみたいに、ちょっと関節を曲げ、指の腹を執拗に擦り続ける。
 身体を包むとろとろ感も健在なのに、内側からまで、こんなに攻められたら、パニックだよ。
「ふっ、んーっ!」
 首から上だけは、辛うじて動く。だから、手で口を押えたまま、首を何度も横に振る。
 やだ駄目、イっちゃう。こんなにも辱められているのに、官能がそれを打ち消しちゃうんだ。
 イきたくないの。イかないでよお願い。一生のお願いだから、イかないで!

 凄い、凄いよ私。科学で解明できない、霊妙自在な力があるのかも。
 心の底から願ったら、絶頂に達することなく、事なきを得たよ。
 けれど、科学的というか、現実的に言っちゃえば、香取の言い分が正しい。
「俺、愛撫でイかせんの嫌い」
 つまり香取が、イク寸前で動きを止めたってことですね。
 それでもこの言葉は、爆ぜちゃったときよりも、恥辱感が否めない代物だ。
 何かこう、私の全てを香取に制御されているようで、腹立たしい。

 与えられた刺激が止んだのだから、身体は絶対に動くはずで、こんな辱めから、逃げることのできるチャンスなはずで、それなのに、私の身体は力なく寝転んだままだ。
 依然として口を手で塞ぎ、視界曇る天井を、見つめ続けて呆けてる。
 だからまた、香取の肌が私の肌に触れるまで、今後の展開を予想できなかったわけで、触れられて初めて予想したところで、遅かったわけで……
「んぁぁぁっ!」
「だから口塞ぐな。声を聴かせろよ」

 大して大きくもない胸が、香取のリズムに合わせて上下に揺れる。
 密着する肌の湿った打音は、聴覚を刺激して興奮を倍増させると思う。
 さらに、最も欲情させるのは、眼鏡を掛けた腐れ男の、この戯言。
「玲…俺の名を呼べよ」
 なんでかな。善がれとか、感じろとか言われるより、この言葉にゾクっとするんだ。
 目なんか閉じちゃってるから、どんな表情か解らないのに、いつもの意地悪顔じゃなくて、優しい顔で言っている気がして、その顔を想像して興奮しちゃうんだ。

 だけど、素直じゃない私は、喉下まで出掛かった名前を呑み込んで、唇を噛む。
 そうすると香取は、怒ったように深く深く突き上げる。
「ああぁっ! やっ、やぁっ、んんぁっ」
 両足首が香取の肩に引っ掛かり、尾てい骨がマットを離れて宙に浮く。
 そんな私の腰を引き寄せて、上側を抉るように香取の塊が蠢き続ける。
「ご、ごめっ、ゴメ…んぁぁっ」
 どうしてそう思うのか解らないけど、謝りたい。ごめんなさいって、何度も叫びたい。
 この齎される苛裂な刺激を、どう捌いて良いのか解らなくて、涙ながらに謝ることが、最善の方法な気になっちゃうから仕方がない。

 それでも香取は許してくれなくて、速度を増して叩き込む。
 湿った密着音は、完全なる打撃音に代わり、それを補うように私の蜜が水音を上げる。
 まるで科学反応みたいだ。温度や濃度を高めると反応速度が上がる。
 だけど私は、いつもこれで失敗した。早く結果を出そうと温度を高め、濃度を上げ、それが返って副反応を誘発し、失敗を繰り返す。
 だからこれも同じだ。中間体じゃなく身体が分解しちゃって、反応じゃなく心が暴走しちゃって、可笑しなことになっちゃって、フラスコがボンって爆発しちゃうんだ。
「ぃっ、ま、ま、槇、やっ、イ…くぅぅぅっんぁっ」

 私の足を肩から外し、息が出来ないほどきつく、香取が私を抱き締める。
 おでこや瞼やこめかみに、香取の唇が音無く触れては離れ、それが何やら擽ったい。
「玲…好きって言えよ」
 多分、今、私は何よりも無防備だ。だから、そう言われて口走っちゃったに違い無い。
「好き……」
 それでも、言葉に出して初めて納得した。納得したくないのに、納得しちゃった。
 私、香取のことが好きなんだ。多分、ずっとずっと好きだったんだ……

 緊張した身体がゆったりと弛緩していく。
 目を背けていた事柄って、認めちゃうと案外すっきりするものだよね。
 それなのに、そんな私を見下ろす香取が、何故か穏やかに微笑みながら毒舌を捲く。
「お前、ほんとに、いちいち……ムカツク」
 そこで一気に覚める感情。何それ、私には好きって言わせておいて、そんな返答は酷すぎる。
 やっぱり駄目。やっぱり嘘。やっぱり認めない。私はこいつが大っ嫌いだっ!
「大っ嫌い…槇なんてほんとにほんとに、大っ嫌いっ!」

 繋がったまま、こんな暴言を吐くのはどうかと思うが、悠長に返答するのもどうかと思う。
「今、好きって言ったばかりじゃん」
 さらに、その返答へ返答するのもどうかと思うんだけど、止まらない。
「そんなの絶対、認めない!」
「は? 意味不明……」
 不明じゃないよ、明確だよ。香取の言動に一喜一憂しちゃう自分が情け無くて悔しくて……
「もうヤダ。もういい。もうたくさんっ!」

 ジタバタと暴れ、どうにか香取の支配下から抜け出した。
 けれど、ベッドを降りた途端に腕を掴まれ、さらに、突拍子もない宣言を放たれる。
「おい、明日辞令が出る。俺、関西に転勤だから」
「え?」
 此処でまた、一気に覚める怒の感情。
 だからって新たな感情が湧き上がるわけではなく、強いて言えば、完全なる脳内停止状態だ。
 今、何て言ったの? 転勤とか言わなかった? しかも簡単に。
 そりゃあ、私には関係ない話だけど、もっと、もっと、こう……

「ようやくこれで、無駄な腐れ縁が終るな」
「無駄って……」
 そんな嬉しそうな笑顔で、こんなにもはっきり言い切らなくても良い気がする。
 確かに腐ってたけど、決して無駄ではなかったはず。
 だって、この十何年もの間、香取の顔を見なかった日が無いと思えるほど傍に居て、それが当たり前で、だけど転勤ってことは、その当たり前が当たり前じゃなくなっちゃうわけで……
「おい?」
「わ、私、明日早いから、帰る」
「だから最後に泊まってけって」

 始めるのって簡単なのに、終わらせるのって、それがどんなものでも結構辛い。
 特に長年培ってきちゃった生活パターンを切り替えるのは、たとえ腐ったパターンでもキツイ。
 しかも、最後だなんて言われちゃうと、何も言い返せなくなる。
 それでも戯言なら別だ。これならきっちりと言い返せるってもんだ。
「俺が居ないと淋しい?」
「そ、そんなことないよ。私は全然、ちっとも淋しくない」
 ベッドカバーを纏ったまま、偉そうに言い放っても説得力に欠けるよね。
 だけど、ベッドに横たわったまま、こんなことを言い出す男も可笑しいよ。

「俺は、玲が居ないと淋しい」

 つまり、互いに可笑しい二人なのだから、可笑しい会話を展開するのは必然だ。
「む、無駄な腐れ縁って言ったじゃん!」
「だって腐ってるだろ? お前だってそう言うじゃん」
「そ、そうだけど…」
「いい加減、気づけよ。偶然が此処まで続くわけないだろ」
「なにそれ? なにその、もったいぶった言い方」
「じゃなきゃ、苦手な物理なんか取らないっつうの」
 物理が好きで、物理を選択したのは香取の方じゃん。何を今更、この男……

「物理が苦手なのは私で、槇は物理が好きなんだって、あの時言ってたっ」
「誰にだよ?」
「旭くんにだよ! しかも、わっけわかんない倫理とか選んでさ!」
「そんな、わっけわかんない倫理を選んだのは、お前だろ?」
 駄目だ、埒が明かない。こいつと話しても平行線を辿るだけで、ちっとも話が噛み合わない。
 一旦、話を元に戻そう。えっと、こいつの発言で、何が可笑しいと思ったんだっけ?
 あ、そうだ、そうそう。いい加減気づけとか偶然がどうのってやつだ。
「じゃあ、いい加減気づけって何?」

 互いに、温度と濃度が高過ぎたんだと思います。
 だから、化学反応がおかしなことになっちゃって、それはそれはもう、恐ろしく珍しく、香取が長い台詞を連ね始めました。
「お前が、運命の人の定義は偶然だなんて言い出すから、その仮説を証明してやろうと思った俺は、必死で偶然を装い続けて、クラス分けも大学受験も就活も、お前に合わせて現在に至ってるにも関わらず、お前はちっとも気づかないどころか、男は作るわ、口を開けば大嫌い言うわ」
「ちょちょっと、待て」
「なんだよっ」
「それって、なんだかまるで、その、私のことを、その……」

「あぁそうだよ、好きだった。好きでした、無駄に十年間も」
 こんなに刺々しい告白って在り得るものなのか? なんか、ちっとも嬉しくないんですが。
 しかも、思い切り『た』という過去系で終わらせましたよね、ちなみに二回も。
「なな何で、もっと早くに言ってくれたり……」
「言っただろ? お前が国立大を狙ってるって言い出した日に」
 そんな話は初耳だ。否、絶対に言われてなんかいない。
 大体、国立志望と言い出したのは、私じゃなくて、お前の方だっつうの。

 でも仕方が無い。仮に言われたと仮定しよう。その後が問題だ。私は一体、どのように……
「私、そのとき何て答えたの?」
「断るっ!」
「は?」
「だから、即答でたった一言、断るっ!」
 あれ? その話はなんとなく覚えているぞ。進路志望用紙を提出しなきゃならないのに、こいつが何処ぞに付き合えとかなんとか言い出して、そんなことよりも進路を決めろと言った記憶だけど。
 ちょっと待て。ということは、あれはもしかして、『何処ぞ』ではなく、『俺と』って意味だったとか?
 ……嘘、どうしよう。十年の時を経て、赤面しても遅いのに。

「ほんとお前、なんかいちいち可愛いから、ムカツクんだよっ」
 なんていい草だ。褒めるか怒るか、どっちかにしてくれよ。
 否、それよりも、香取の赤面を初めて見たのですが、どうしよう。
 止めてよ、赤面は移るんだから。いやいや、最初から私は赤面していたんだった。
 そのくせ、赤面しながらも、聞きたいことはちゃんと聞ける自分って凄いよね。
「す、好きだった、の?」

 タの部分を強調して言ってみました。そちらの言葉が過去に彩られているのでしたら、この赤面はこれこそ無駄な気がするからです。
 けれど香取は、その質問に答えることなく、逆に私の腕を引き、命令を唱えます。
「俺が居ないと淋しいって言えよ。俺を好きで堪らないって」
「だっ、わ、」
 誰が言うかと叫ぶつもりだったのに、レンズ越しの瞳に射られて言葉に詰まる。
 さらに、裸の香取に覆いかぶされ、頬に手を当てられちゃったから、本日二度目の告白タイム。
「…す、好き……」

「俺は好きじゃない」
「な、なっ、んっ、ふ……」
 香取の唇が、私の文句ごと呑み込んで行く。
 それでも、今の台詞は聞き捨てなら無いから、両拳で香取を殴ろうとした瞬間、耳元で囁かれた。
「愛してるよ」

 ぐおって涙が溢れ出し、一気に視界が曇っていくけれど、文句だけは忘れない。
「め、眼鏡外してってばっ」
 然すれば当然、逆襲を食らうわけで、私がそれに勝てるはずが無いわけで……
「いやだね。俺はお前が見たいの」
「だから、見られたくないんだってばっ」
 そしてこの、お決まりの文句が放たれた――

「だったら、曇らせろよ」
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