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「晴香、もうちょっと食べなきゃ薬が飲めないよ?」
 溶連菌とやらに侵されて、人生初めての醜態を晒してから早五日。
 一昨夜から高熱が徐々に下がり始め、三十七度台後半の今は意識が朦朧とすることもなく、思考能力もある程度まで回復したと思う。
 身体にも力が入るようになり、上半身は肩より下の位置でならば余裕で動くまでに回復したけれど、依然として下半身は思うように動かず、声も出ない。

 だからトイレに行くのも重労働で、大人用の歩行器を病院から貸し出してもらい、必死でそれに掴まりながら移動する。
 一日の大半は眠って過ごし、トイレに行く以外は未だベッドから降りることもない。
 そして倒れた直後からこうして今も、私の介護を買って出たこの男は、日頃の恨みを晴らすかの如く意地の悪い無理難題を強要する。

「ほら、あ〜んして。晴香、あ〜ん」
 実の母親にですら、何かを食べさせてもらった記憶など皆無に等しい。
 赤ん坊の頃は、きっとこうしてスプーンを口元に宛がわれただろう。
 けれど今の私は、当たり前だが赤ん坊ではなく、立派な成人した女性だ。
 何が悲しくて、年下の男に呼び捨てされ、赤ちゃん言葉を連発され、食事を強要されねばならないのだろう……

「そんな顔をしても駄目だよ。食べなきゃ、いつまで経ってもこのままだよ?」
 この男に言いたいことはごまんとある。それでも声が出ないから、あからさまな仏頂面を投げかけるだけに留まる毎日だ。
 大体、上半身は動くのだから、スプーンくらいは自分で持てる。
 だからジェスチャーゲームのように、身振り手振りでそれを表すのだけれど、大半のことは悟ってくれるくせに、これはどうにも伝わらない。
 そして結局、この男の言う通り『このまま』の自分で居ることが何よりも嫌だから、目を大きく横に逸らしながら口を開く。

 数日前、病院から戻り目覚めると、見知らぬ部屋の見知らぬベッドの中に居た私。
 一瞬にして混乱状態に陥ったものの、身体が動かないのだからどうしようもなく、結局睡魔に負けて、寝入り続けたところに山下が現れた。
 山下へ向けて露骨な嫌悪を浮かべる私に、有名マーケットのロゴが入った袋を大量に抱えながら、溜息交じりの文句を放つ。
「イヤだな先輩、ここは俺の部屋ですよ。昨日病院で言ったじゃないですか」
 そこで眉根を寄せて考えたけれど、そんな話を聞かされた覚えはない。
 けれど私の表情を読み取った山下が、目を細めて嫌味を囁いた。
「やっぱり聞いてなかったんですね? まぁ、高熱に魘されていたのだから仕方がないですけど……」

 絶対安静の全く動けない人間が、一人暮らしの部屋に唯一人で戻るのは危険だと判断した山下が、覚悟の上で私を引き取ったという話。
 確かに、ここよりも狭い私の部屋へ、山下が居座るなどということだけは、是が非でも御免被りたい。
 さらに、今の私の現状を踏まえれば、その判断は正しいものだったのだとも思う。
 それでも意識がはっきりするに連れ、この状況は、なんとも言えない感情を生み出し続けるものとなっている。
 特に、熱が下がり始めた昨日、山下が平然と投げかけた言葉と、その後の出来事など……

「晴香、暖かいうちに、お風呂へ入っちゃおうか?」
 突如として、軽々しく山下から放たれるその台詞に、否応なく攣縮する私の身体。
 昨日の屈辱が鮮明に甦り、咄嗟に目を見開きながら何度も首を横に振った。
 介護士に徹する山下が、私に対して卑猥な行動を取ったりするわけじゃない。
 数日振りの入浴は、何よりも清々しく、気持ちの良いものでさえあった。
 それでも、顔見知りであり、後輩でもあるこの男に全裸を見られ、隅々まで触れられることは辱め以外の何物でもない。

『自分一人で入れる。一人でできる。一人で大丈夫!』
 胸を何度も拳で叩き、山下へ懸命に懇願するけれど、これもまた、食事の一件と同じく伝わらない。
「胸が苦しいの? 大丈夫? 病院に行く?」
 溜息を吐きながら否定の頭を振り、筆談を申し出る動作を繰り返しても、これすら山下には伝わらないらしい。
「寒いの? え? サイン? 誰かのサインが欲しいの?」
 そこでまた、大きな溜息を吐き出し項垂れる私を、山下が平然とした面持ちで、有無を言わさず抱き上げる。

 ヒーターで既に温められた脱衣所内。こうした山下の気遣いに感心と感謝はするけれど、小さなボタンが沢山ついた綿のパジャマを買ってくるところがこいつらしい。
 このサイズのボタンを嵌めたり外したりする作業は、針に毛糸を通すほど今の私には厄介だ。
 それでも、一番安眠のできるパジャマの形なのだと、どこからか仕入れた情報を意気揚々と語られては、責めることなど到底できない。
 有難迷惑だとしても、どれもこれも私のことを考え、配慮してくれているには違わないのだから。

 顔を真横まで背け、山下の手で一つずつ外されていくボタンを、極力見ないように努める。
 当然だが、寝たきりな今の私は、ブラなど付けていない。
 だから全てのボタンが外されたとき、露になってしまう自分の胸を、昨日は咄嗟に腕で覆い隠した。
 ところが山下は、これも仕事の一環だと踏まえているようで、何一つ感情を表に出すことがなかった。
 こうなると、自分だけが意識しているようで、どうにも決まりが悪くなる。
 そういった経緯で迎えた二度目の今日は、歯を食いしばり、羞恥心に負けて動き出そうとする腕を必死の思いで制御した。
 けれどやはり、文字通り、堂々と胸を張っていられるほど私の肝は座っていないらしく、到頭身体は無様に震えだす。

「寒かったね。ごめん……」
 柔らかなバスタオルが、パジャマの代わりに肩から掛けられた。
 それに加えて、今の山下の言葉で胸を覆い隠す理由もできた。
 だから腕で身体を抱きしめ、震えの原因は寒さなのだと、喋ることなく嘘を吐く。

 寝そべっても、足を伸ばすことのできる長い湯船。
 浮力を受けて軽くなった身体は思うままに動き、そんな当たり前のことに感動して涙ぐむ。
 運動は苦手でも、泳ぐことだけは好きだった。
 元々、紀伊で生まれ育った私は、素潜りも得意だったりする。
 水と触れ合うのは心地良い。胎内での記憶などないけれど、外界から遮断された環境が身を守ってくれているようで、どこか安心できた。
 だから逆に、外界へ憧れた人魚姫の気持ちが、解らなかったのかも知れない。
 いつまでもこうして、水の中に居たいと願う今は、特にそう思う。
「なんだか楽しそうだね。もう少しそのまま温まってなよ。時間を見計らってまた来るから」

 水と戯れることに夢中で、山下の存在を完全に忘れていた。
 だから声を掛けられたことに驚いて、仰向けのまま湯船の中へ沈み込んだ。
「は、晴香っ!」
 咄嗟に伸びた山下の手が脇の下へ滑り込み、私を水面まで引き上げる。
 そして顔に貼り付いた髪を剥がしながら、穏やかな口調で妙な諺を口にした。
「大丈夫? 猿も木から落ちるんだね」

 滑らかな泡が髪を伝い、身体を包み、そして床へ滑り落ちていく。
 動くようにはなったものの、なぜか肩より上に掲げることのできない腕では髪を洗えない。
 細かい作業も、通常の数倍は時間を要する。
 納得できない苛立ちに見舞われることばかりだけれど、仕事帰りの疲れた身体で、私の介護を強いられる山下の方が気の毒だ。
「晴香、流すから上向いて?」
 反抗する気持ちも失せて、言われるがままに上を向き、泡が目に入らぬように目を閉じる。
 一瞬の間を置いて、シャワーの音と飛沫が風呂場を包み始めた。
 そしてそれと同時に、山下の鼻歌が狭い空間に広がっていく。
 そんな空気に誘発されて、私の記憶は倒れた日へと遡る。

 朝、課長が出勤する時間を見計らって電話を掛け、別人のような声で遅刻の旨を申し出た。
 病院に寄ってから出社するつもりだった。けれど私の声に驚いた課長は、「休め、休め」を繰り返す。
 そこでその好意に甘えて電話を切り、病院に行くことなくベッドで丸まって、あの変な夢を見た。
 山下が私の携帯に電話を掛けてきたのは夕方で、運が良いのか悪いのか、その電話の最中に私は意識を失った。
 マンションの管理人さんに、免許証を見せ、名刺を渡し、状況を懸命に伝えた山下は、ようやく私の部屋の合鍵を手に入れたらしい。
 そして脱衣所で転がる私を発見し、慌てて病院へ運んだという筋書きだ。

 山下が私に電話を掛けてきたのは、接待費の帳尻合わせ算段てな辺りだろう。
 絶対に却下されると解っていながら、懲りることなく、こいつは直接の電話を掛けてくる。
 そもそも山下は、当時、私にしつこく付き纏っていた男の後輩だ。
 厳密に言えば、付き纏われていると思っていたのは私だけで、その男はその後、あっさりと玉の輿結婚をしたのだが……
 それでもそのことを、勢いで山下に溢してしまったことがある。
 だからこそ、もてない女の悲しい妄想だと嘲笑されているようで落ち着かず、故に、あれから何年経っても、変な後ろめたさと、弱みを握られた感が否めない。
 それに加えて、今回の騒動だ。弱みどころではない代物を、こいつに握られた気がして居た堪れない。

 大体、既に私の名を、呼び捨てにしている辺りが胡散臭い。
 けれど、初めて名で呼ばれたとき、愚かにも胸が高鳴った自分が恨めしい。
 私をその名で呼ぶのは両親だけだ。学生時代から、他人にはその名を呼ばれることも、呼ばせることもしなかった。
 なのにそういった枠を簡単に飛び越え、深い場所に触れそうになる山下の存在が怖い。
 まるでトロイの木馬だ。頑丈に築き上げた砦も、内側から攻められたら一溜まりもない……

 突然、辺りが静けさを放ち、濡れた髪にタオルが押し当てられた。
「はい、終了。身体はどうする? 晴香一人で洗える?」
 その言葉で我に返り、当然だとばかりに強く何度も頷いた。
「うん、解った。でも、さっきの事もあるし、危ないからここで見てるよ」
 射るほどの力を込めて山下を睨んだけれど、そんなものは何の効力もないらしい。
「駄目だよ。泡で滑って転んだらどうするの? 今の晴香じゃ、起き上がることなんてできないよ」
 逆にそう諭されて、何も反論できないまま、泡立つスポンジを握り締めた。

 凝視されているわけではないけれど、誰かに見られながら身体を洗う行為は拷問に近い。
 銭湯や温泉などで他人と混浴することはあっても、それは女性であり、さらに彼女たちは、私の一挙手一投足に注目してもいない。
 流石の山下も、胸や秘部を洗うときには目を逸らすが、だからといって、この苦痛から解放されたりしないし、緩和すらしてはくれない。
 こんな状態が続くから、今更ながら思いを廻らす。
 山下は、今に至る全てをどう感じているのだろう。
 私のように、苦痛や苛立ちばかりを覚えているのだろうか。

 海外事業部は、半端な部署ではない。誰もが一度は憧れる部署だけに、精鋭社員が揃っていることで有名だ。
 そんな部署で朝から晩まで働き通し、帰宅すればしたで、決して軽くない私という荷物が待っている。
 そして週末を迎えた今日ですら、休む暇なく、好きなこともできず、こうして私と向き合い続ける。
 今の状況は、一時の期間限定とは思うが、山下の負担であることに変わりはない。
 酷く心苦しい。誰かの負担になって生きることなど、考えただけでも身震いを起こすのに、今の自分は最高峰の厄介者だ。
 山下が突き放してくれればいい。誰かに頼ることを、身体が覚えてしまわぬうちに……
 今なら間に合う。今なら取り戻せる。だからどうか、こんな私を突き放して欲しい。

「晴香、水分補給だよ。さて、本日はどなたをご指名?」
 頭にタオルを巻いたままベッドに寝かされた数分後、私の頭上に山下の顔が現れ、そんな言葉を投げかけながら腰元にクッションを宛がった。
 上体を起こした私の視界に入ったものは、どれも俗に言うスポーツドリンクだけれど、どれも少しだけ味が違う。
 少しだけ悩んでから、レモン味のペットボトルを指し示すと
「レモンちゃん、晴香さんから、あ、ご指名、あ、入りました〜」
 場末の場内アナウンス風に独り言を語る山下が、キャップを捻り、その中へストローを差し入れてから私に手渡してきた。
 山下の言動に呆れ果て、相変わらずの眉根を寄せた怪訝顔で見上げれば、目を泳がせ続ける山下が戯言を呟く。
「あ、あれ? 今の笑うとこだよね? い、いやだな晴香、何か俺を勘違いしているよ」

 勘違いなどする必要はない。そういった場所に、山下が出入りしているという証拠を耳にしたまでだ。
「し、仕方なく、付き合いで行かなきゃならないときがあるんだよ?」
 それは当然だ。自分の意に反しても、強制的に行かされることがあるだろう。
 私ですら、入社早々に洗礼と称して、それは目も当てらぬ場所へ連行されたことがある。
「そ、そうだ、晴香はドライヤーをかけなきゃね」
 ところがなぜか、居た堪れなくなったらしい山下は、そんな台詞を棒読みで口にしながら、いそいそと部屋を後にした。
 けれどそこで、どこからか小さな音楽が奏でられ始めた。
 多分、山下の携帯が鳴っているのだろう。けれどそのことを、山下へ伝える術が私にはない。

 音楽が途切れた後になって部屋へ戻ってきた山下に、凝りもせず身振り手振りでそれを伝える。
「ん? 電話? あ、携帯? 俺の?」
 今度はどうにか伝わったらしい。
 手にしていたドライヤーをベッドの上に置くと、携帯が置かれているであろう場所へ山下が移動を始めた。
 独特のプッシュ音を立てて画面を覗き込む山下は、その後、携帯を耳に押し当て肩で挟みながら、ドライヤーのコンセントを壁の一角へ差し込んだ。

「あ、もしもし山下です。お疲れ様です。ええ、お蔭様で大分いいですよ。でもまだ声がでないんで、本人に代われないのが残念なんですが……」
 聞こうとして聴いたわけでは決してない。
 息がかかるほど近くの真後ろに、ドライヤーを掴んだ山下が居るのだから聴こえてしまって当然だ。
 さらに話している内容が内容だけに、余りもの衝撃で、口を大きく開いたまま振り返った。
「えぇ、本人にはそのように伝えます。わざわざ電話をありがとうございました。そのご心配に感謝します」

 通話を終えた山下の胸を、精一杯の力で突き飛ばす。
『一体全体、どういうことだ!』

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