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そんな状況下の私の髪に、無謀な戦いを挑んだ男は、悪戦苦闘の果て遂に音を上げ、関係のない話で不満を発散しはじめた。 「晴香は、顔文字の使い方を大幅に間違ってる……」 そこで一旦手を休め、ここ数日、背凭れと化している男に寄り掛かることを止めて上を向く。 すると、妙な角度で折れ曲がった私の髪を握り締めた山下が、空いた手で携帯を指差しながら小言を呟いた。 「だって、文の内容と顔文字が、明らかにおかしいよ?」 『それは、本当に悔しいなd=(^o^)=b』 何度画面を見つめ返しても、不備な点などどこにもない。 相手は私に同情など求めていない。一緒に戦って欲しいだけだ。 だから、泣き顔よりも笑い顔を敢えて選択し、さらに、笑いながらも怒りを表すアルファベットが両端についているものを、語尾に添付したまでだ。 けれど山下は、図々しく厚かましい台詞を耳元で囁く。 「まぁ、メールビギナーに有り勝ちなミスだね」 後輩に小馬鹿発言をされるほど腹立つことはないから、打ち終えたメールを保存し、新規作成画面を呼び出した。 『お前こそ、三つ編みビギナーだろうにm(_ _)m』 両親指を駆使して入力し終えた文字を、顎をしゃくり上げた仕草で読めと促す。 すると、首を突き出し、画面を覗き込んだ山下が、片方の口端を痙攣させながら疑問文を投げる。 「いやだからさ、なぜそこで謝るの?」 『謝ってなどいない。これは、ガックリしている感じだ』 「絶対違う。全然違う。死んでも違う!」 私の髪を掴みながら後ろに倒れるこいつのおかげで、髪を引っ張られた私も、当然その後に続く。 毒でも一服盛られたかのように、笑いもがき続ける山下の上で、意思に反して揺れながらも、先程の相手に向けて送信ボタンを押した。 「晴香は、真面目に真顔で無茶するからマジウケル!」 一向に治まる気配を見せない山下の笑いが、どこから飛んできたのか解らない。 私は無茶とは無縁だし、芸人ではないのだからウケを狙う必要もない。だから何がそんなに可笑しいのかと、山下を見据えながら真剣な面持ちで首を捻った。 「やっべぇ、ツボ入った、止まんねぇ〜!」 大分滑らかに動けるようにはなったけれど、歩行器卒業までには程遠い下半身と、戻る気配が全く感じられない声。 病院を再診して色々な検査をしたものの、異常はどこにも見つからず、結局は『精神的なもの』というお決まりの文句で片付けられ、今に至る。 だから著しい進歩と言えば、歩行器の運転技術くらいなものだ。 それでも、回復とは別に進展した事柄がある。 土曜の昼過ぎ、風呂上り直後に山下の携帯へ掛かってきた着信。それは、我が経理部の課長からだった。 山下の胸を突き飛ばし、状況報告を迫ったけれど、完全に私の意思が伝わっているはずなのに、山下は話を逸らし続ける。 そこで山下の手にする携帯が目に入り、良い方法を思いついた私はそれを無理やり奪い取ると、両手を挙げたまま固まり続ける山下を尻目に、封筒マークのボタンを押した。 新規作成を選択し、本文入力画面を呼び出す。ここまでは、パソコンのメールと大差ないのだけれど、そこから先が進まない。 「は、晴香? も、もしかして晴香って……」 いきなり動きを止めた私に、山下が確信に近い疑問を口にした。 言い当てられることが癪に障り、動きを再開して予測作業を試みるけれど、肝心なものが抜けてしまうから間も抜ける。 『とういうことた』 その場の勢いに任せて、なんとか打ち込んだ間抜けな文面を、山下へ突きつけた。 すると画面を覗き込んでいた山下が、鼻の穴を膨らませながら白々しく言い返す。 「ということって何が?」 『ちかう』 「永遠の愛を?」 込み合った感情を押さえきれず、ベッドの上に携帯を投げつけた。 そこでようやく笑いを止めた山下が、起き上がりついでに携帯を取り、私の手にもう一度握らせると、背凭れを志願しながら後ろから囁いた。 「晴香、濁点はここを押せば打てるよ」 『おお』 「それから半音にするには、こうやってここを押すの」 『おぉ』 「記号は、こうすれば画面が切り替わるから」 『おぉ!』 「で、顔文字は……」 『おぉ!(´Д`)』 携帯を、電話としての機能以外で使ったことがなかった。メールは会社のパソコンで行うし、ネットに接続する必要性も感じない。 ただ、携帯を購入したとき、一度だけ着うたをダウンロードしたことがある。 けれどそれも一曲だけで、相手によって歌を変えるといった面倒なことはしない。 仕事専用、受信専用な携帯故に、相手を選ぶことや拒否することなどできないし、部署が部署だけに、取引先からの着信はなく、全てが社員から齎される。 よって、メモリーに登録する番号など皆無で、よく掛かってくる相手の番号を、経理部所属の数字女が覚えられないはずがない。 「携帯で思い出したけど、晴香の携帯、妙な液体没しちゃたんだった……」 妙な液体とは、化粧水か何かだろう。意識を失う寸前、派手な音を立ててガラスが砕ける音を聴いた記憶がある。 携帯に保存しているファイルなど、着うた一曲くらいなものだから、使い物にならなくなってしまったとしても、別段大騒ぎすることではない。 それでも声の出ない今、意思表示を伝える最適な道具だと認識したからには、携帯の必要性を多大に感じた。 そんな私の表情を読み取ったのか、山下が私の頭を撫でてから立ち上がり、決定事項を言い渡す。 「俺と同じ機種でいいよね? そうしたら、直ぐに教えてあげられるから」 こうして待つこと数時間。分厚い紙袋を手にした山下が部屋へ戻り、そこで私は真新しい水色の携帯を手に入れた。 それからの時間は、何か事が起きる度に、山下へ向かって携帯を突き出した。 意思を伝えたところで、却下されてしまう事柄も多々あるけれど、伝わらない歯痒さや憤りに見舞われないだけ頗る良い。 さらに携帯での会話を交わすようになってから、山下の笑顔が増えた気さえする。 ところが、週明けの月曜、恐ろしい展開が私を待っていた。 アドレスは、どれもこれも同じものがなく、どれが誰だか解らず途方に暮れた。 それでもメールの内容だけはどれも同じで、全てに『山下から聞いた』と『大丈夫?』という熟語が組み込まれている。 あの男はきっと、私の新しいメールアドレスを、掲示板にでも貼り出したに違いない。 そして、ここからが肝心だ。部下の一人であろう者から届いた、一通のメール。 『山下先輩が主任の件で、先週の我が部に引き続き、社主からも表彰されたんですよ(^▽^)』 携帯の操作方法に夢中で、肝心なことを聞き逸っていた。 どうしてうちの課長が、私の病状についてを山下へ訊ねたのだろう。 さらにあの会話内容からして、私がここに居るということも、最初から解っていたような気さえする。 それに付け加えて、この訳の解らない表彰だ。なぜ山下が、私の件で社主から表彰されることになったのだろう…… 『すまない。誰だか知らないが、状況が全く読めないのだが』 嘘も冗談も取り繕いも苦手だ。だから直球で、そんなメールを送ってきた相手に返信する。 すると数分後、同じメールアドレスからその答えが届いた。 『五十嵐です^^; 倒れた主任を自宅に連れ帰り、完全に回復するまで介護をすると、山下先輩が大宣言したことを御存知なかったですか?』 そんなもの知るはずがない。そして空いた口も塞がらない。 五十嵐の仕事を邪魔していると解っていても、ここまできたら、白黒つけなければ気が済まない。 だから、焦って打ち間違えを繰り返しながらも、五十嵐にまた返信した。 『全く知らない。もう少し詳しく教えてもらえると有難い……』 山下は、有りの儘を正直に、包み隠さず皆へ伝えていた。 『疚しいことなど何もないのだから、こそこそとする必要などどこにもない』 そういった山下らしい判断で、経理部にも海外事業部にも堂々と宣言したらしい。 素晴らしいほどの潔さに、皆は呆気に取られたそうだが、よく考えれば彼のとった行動は立派だ。 さらに、社のマドンナなどではなく、誰もが敬遠する、仏頂面気難し女で有名な私を引き受けたという偉業まで加われば、もはや英雄だ。 だから先週、我が経理部から山下に、感謝状が贈られたらしい。 そしてその美談が社主に伝わり、社主直々から表彰されたということだ。 考えてみれば、その宣言によって生み出されるのは、不利益よりも利点の方が多い。 あの部に所属する人間にしては、この一週間以上、出張もなければ帰宅も早い。 それは社全体が、山下の境遇を理解しているからこそ配慮してくれている事であり、逆に宣言せず、残業や出張を断り続ければ、必然的に山下の株は落ちてしまっただろう。 別段親しかったわけではないから、噂で聞く山下という男しか知らなかったけれど、ここ数日の出来事全てを考え合わせると、その噂は公平に囁かれていたものだと解る。 あいつは、常に的確な判断を下せる男だ。 昼休みに差し掛かったのだろう。また五十嵐のアドレスからメールが届いた。 『主任? 主任が居ないと、どうしていいのかサッパリ解りません。こんな風になって初めて、主任って大変だったんだって思い知りました……』 これが社交辞令だとしても、羅列する文字に胸が熱くなる。 誰かに解って貰えるということは、意思が伝わることよりも数倍報われた。 他人と距離を置き、自分と言う城の砦を築き、誰と深く関わることもせず生きてきたけれど、それは誰かと関わることで、自分が傷つくのを恐れたからであり、正直言って今でも怖い。 それでも、傷つくよりも遥かに多く齎されるものがあると知った。 楽しい。嬉しい。それは、自分一人で感じるときよりも、誰かが交わることで数倍の輝きを増す。 込み上げてくる不思議な感情を隠すように、震える指先で文字を打つ。 『悲観する必要などない。自分にできることだけを確実に熟せばそれでいい』 三人寄れば文殊の知恵だ。私が一人欠けても、歯車は絶対に回り続ける。的確な調整さえ施せば、すぐにその機能を取り戻すだろう。 自分がその調整を行うことなどできそうにないが、時期が時期だけに、考えている暇はない。 こうして始まった、決算間近の経理部メール合戦。 五十嵐を筆頭に、経理部のほぼ全員から、想像以上のメールが私の元へ届き続ける。 『主任、仕訳伝票のコードが……』 『実は私も、それだけは暗記できん。参考書が私の机の引き出しに入っている』 『えっと、主任の引き出しには、巻物しか入ってないんですが……』 『それが虎の巻だ。心して読め』 『やばいっす。これ、マジウケルんですけど〜っ!』 『主任、営業の村岡さんが……』 『あのトドか。あいつは、接待だと言いつつタクシーで出勤する男だ。容赦なく切り捨てろ』 『主任! トドがしつっこいです!』 『仕方がない、必殺技を出せ。由美ちゃん……と呟けばいい』 『大成功です! でも、由美ちゃんって……』 『私の同期だった女で、トドの女房だ。昔からあいつは、猛獣使いとして有名だった』 『主任、マジウケルんですけど〜っ!』 『菊池くん、君のメールはマジウケル〜と評判なんだが、そのコツといったものはあるのかね?』 『課長、お前……』 依然として身体はこんな状況だというのに、なぜか心が軽く、会社に居るときよりも、皆との距離が近くなった気さえする。 さらに、妙に懐き始めた部下の数人は、勤務時間を終えてからも、人生相談のようなメールを私に送りつけてくるようになっていた。 顔を見ずに済む文字の世界だからこそ、漏らせる本音もあるのだろう。 それでも、恋愛事の内容は謎だらけだ。彼氏の不平不満を連ねたメールに対し、私が直球で返信すると、揃いも揃って皆が皆、突然彼氏を庇いだす。 『で、でもぉ、私の彼氏は優しいんです。この間だって……』 そして最後には、このような自慢話と惚気話で幕を閉じる。 山下は顔文字の使い方を否定したけれど、メールを送信した部下は、相変わらずの表現力で、否定するどころか絶賛した。 『ギザ ウケル〜!』 そんな部下へ本日最後のメールを送信し終えた矢先、聞き取れるか取れないか程の小さな声で、山下が呟いた。 「晴香ごめん。俺、もう限界……」 顔を横に向けて山下の具合を確かめれば、三つ編みとの戦いに疲れ果て、私の髪を掴んだままうつ伏せに突っ伏し、既に寝息を立て始めている。 これはどうしたものかと、暫く山下の寝顔を眺めていたけれど、規則正しく吐かれる寝息を聴いているうちに、水の中へ居るときのような安心感が生まれ、結局私も目を閉じた―― 『さぁ、今日が期限だよ。お前の願いは叶ったかね?』 |
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