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 毎年、夏休みに差し掛かると、俺は母方の実家へ単独で赴いた。
 所謂『都会っ子』と称される子どもだからこそ、自然に溢れたこの地に堪らぬ魅力を感じ、一ヶ月以上もの長い休みを、坊主特有の遊びに費やした。
 近所の悪ガキらとも直ぐに打ち解けて、大人たちの叱咤を背中に浴びながら、全力疾走を繰り返す。
 母親はそんな俺の挙動を知り、酷く驚いていたけれど、祖父母はやけに寛大で、それが男の子だと笑いながら怒る母親を窘めた。

 その日もまた、大きな水中メガネを着けて、無数に連なるテトラポッドの上から海へ飛び込んだ。
 地元の人間しか知らない穴場の中の、悪ガキしか知らない穴場なそこは、不思議な形の岩に囲まれた、濁ることのない碧海だ。
 海から顔を出す無数の岩は、絶好の休憩場所であり、飛び込み台であり、潮の満ち引きで時間を把握するための目印でもあった。
 泳ぎ疲れた俺は、一人、少し高めの岩に攀じ登って腰を下ろす。
 遥か向こうの海域には、数人の海女さんたちが、白い磯シャツを身に纏い、磯桶片手に海を漂っているのが見える。

 そんなとき、海の中から俺に向けての野次が飛ぶ。
「あかんつやねぇ! もやしっ子さか、けやないなぁ!」
 地元の人間ではないけれど、穴場中の穴場をはじめ、秘密基地への出入りも許可されている身分だ。
 だから、やつらが本気でそんなことを言っているとは思っていない。
 それでもその挑発に乗った俺は、もやしっ子ではないことを証明するため、その高い岩から飛び込んで見せることを決意した。
「バカ言え! いいか、よく見てろよっ!」

 テレビで観た高飛び込み選手の如く、空中で一回転した後、頭から海に飛び込んだ。
 勢いのついた身体は、通常よりも深く海に潜り、無謀な挑戦を強いられた頭は、平衡感覚を失った。
 水面に上がろうと躍起になる思いとは裏腹に、狂った頭は水面の方向を間違え、そんな頭に従った身体は底を目指して進みだす。
 けれど、そんな俺のぼやけた視界に飛び込んできたものは、魚の尻尾を着けた、俺と同い年程度の女だった。

 水中に居ることも忘れ、思わず大声を吐き出すけれど、それは声になることなく、顔よりも大きな泡と化して暢気に頭上を昇っていく。
 そんな俺の吐き出す泡の音が、彼女にも届いたのだろう。俺の方へ素早く視線を走らせると、慌ててどこかに隠れ、そして瞬く間に消えた。
 余りもの衝撃に、俺の時は止まってしまったかのように思えた。けれど身体は正直で、息を大きく吐き出してしまったために、苦しさで悲鳴を上げ始める。
 この一件で正常に働きだした頭は正しい方向を示しだし、ギリギリの限界で、ようやく俺の身体は水面に躍り出た。

 大袈裟な深呼吸を何度も繰り返し、たった今、目にした出来事を、途切れ途切れに喚き叫ぶ。
「に、人魚が居た! に、人魚を見たんだ!」
 その言葉で、なかなか上がってこない俺を心配していたはずのやつらから、笑いの渦が巻き起こる。
 そして、ガキ大将である聡史が、俺を指差しながら嘲笑った。
「こ、こい、海女さんを人魚と間違えとー!」
「ち、違うっ! 白くない! 緑だった! それに、俺らと同じくらいの女だった!」
 そこまで愚かな見間違いなど、いくらなんでも俺はしない。だから躍起になって聡史へ言い返すと、途端に鎮まるその場の空気。

「そ、そい話、父ちゃんから聴いた……」
「お、俺も……人魚の呪いてよ……」
「や、やべぇよ、逃げらっ!」
 ホホジロザメにでも追われているかの如く、海を振り返りながら、全員が一斉に海岸を目指し始めた。
 意味が解らなくても、皆から放たれる恐怖だけは本能で嗅ぎ分けられる。
 だから、何がどうなっているのかなど全く解らないまま、皆に続いてめちゃくちゃな泳ぎを披露した。

 陸に無事辿り着いてからも、その場の空気は凍ったままだった。いつもは煩いほどのやつらが、誰一人として喋らない。
 だから、悪ガキの中でも、一番臆することのない聡史を問い詰めて、この状況の説明を求めた。
 そこでようやく重い口を開いた聡史は、知っている限りの話を俺に呟く。
「大人の人魚は、そん声で人間を惑わし海へ引き摺り込む。ほいて、子どもの人魚は、見おったもんに呪いを懸ける……」
「の、呪いって、どんな呪いなんだよ!」
「そがは俺もなんど知らん。ほいでも、やにこう強力な呪いやって、父ちゃんがおっちい顔で言いおった!」

 祖父母宅に戻っても、あの時の光景と聡史の言葉が頭から離れなかった。
 そんな珍しく物静かで、いつもの食欲すら見せない俺に、何か困ったことが起きたのかと、心配そうに祖父が切り出した。
 祖父は、生まれも育ちもここの人間だ。だから祖父ならば、この話を知っているに違いない。
「じーちゃん、人魚の呪いって何?」
 突然、俺から放たれた台詞に、祖父は驚きを隠せないようだった。そしてその後も、困ったように顔を歪ませ、考えあぐねている。
 そんな祖父の顔を見て、益々不安になった俺は、息をすることも忘れ、ただただ祖父の答えをひたすら待った。そしてようやく、大きく唾を飲み込んだ後、祖父がポツリポツリと語りだす。

「子どもの人魚は、ある歳になると、一人、浅瀬に行かされる。人魚の世界の肝試しだな。けれどそのとき人間に見つかってしまったら、決して人魚の城に戻ることは許されず、人間として生きなければならないんだ。だから、自分を見てしまった人間に腹を立てた人魚は、最後の力を使って、そやつに呪いを懸ける……」
「ど、どんな呪いなの?」
「それはだな……」

 祖父の話が深まるに連れ、人魚を見てしまった罪悪感と、自分に懸けられたであろう呪いの恐怖に、身を硬くしたまま、その場に突っ立っていた。
 けれど、そんな俺を見て取った祖母は、愉悦の声を上げて笑いだし、身体を震わせながら、祖父に向かって手首を振る。
「じーさん! そがな、くさったげな話まいしよれ!」
 そこでようやく、祖父にからかわれていたのだと気がつき、燃えるように熱い頬を、限界まで膨らませながら、祖父の背中に飛びかかった。
「じーちゃん、ずるいぞ! 俺をからかったな!」

 海の町だからこそ残る、言い伝えというか、都市伝説のようなものだろう。
 従兄弟の兄ちゃんは、口裂け女が絶対に存在すると思っていたし、俺も一時、バーガー肉がミミズ肉だと信じて、食べられなくなったことがある。多分、それと同じ類のものだ。
 それでも、こういった話はどれも嫌に真実味があって、嘘だと解った後も、不意に思い出しては、真剣に心配して眠れなくもなった。
 大人になった今は、そんなことで悩んだ自分に苦笑いを浮かべるけれど、反対に、あの頃の純粋さを羨ましく思う自分も居る。

「俺が見てしまった人魚は、今頃どうしているのだろう?」
 考えなく独り言を呟いて、そんな台詞を口走った自分に可笑しさが込み上げ、堪らず噴出した。
 人魚伝説と人魚の呪い。そんなものが存在するはずがない。
 けれどどこかで何かが燻り続け、忘れ去ることが出来ずにいた――


 大学を卒業し、そのまま今の会社へ入社した俺は、新人教育を担当する鴨井という男の下に付いた。
 鴨井は絵に描いたような腹黒柔弱男で、上司や女の前と、目下や同期の前では態度を露骨に変える、いけ好かないやつだった。
 手柄は当然の如く独り占めし、上司に媚び、上手く世を渡っていくその姿は、悪代官が嵌まり役だ。
 そんな鴨井は、自他ともに認める好色男で、女子社員に手を出しては弄び、飽きては捨てるを繰り返していた。
 こんな男の本質を見抜けず、引っかかる女の方が悪いと思っていたが、どこまでも二枚目路線を突き進み、落とすまではあの手この手で優男を演じる鴨井に、女の砦も揺らぐのだろう。
 けれど、そんな狡猾錬磨な鴨井でも、落とすことのできない女性が居た。

 経理部所属の菊池晴香。後れ毛など一本も許さないというほど、きっちりと髪を結い纏め、皺一つない制服に身を包み、銀縁眼鏡をこよなく愛していそうなその人が、俺と変わらぬ歳だと聞いて驚いた。
 とにかく全身に、透明な有刺鉄線を張り巡らせているかのような、近づき難い刺々しさを放ち、崩れることのない表情と、たまに開く口から漏れる言葉は、命令形の単語のみ。
 書類片手に颯爽と社内を歩き、お目当ての人間にその書類を突きつけると、何をいう訳でもなく存在感だけで威圧する。
 目下だろうが上司だろうが、その毅然とした姿勢を崩さない彼女だけに、俺よりも一回りは上だろうなどと思っていた。

 鴨井は女に不自由などしていない。さらに、鴨井が好むタイプと彼女とでは、全てが大きく懸け離れている。
 だからこそ不思議でならなかった俺は、仕事帰りの居酒屋で、鴨井に疑問を投げかけた。
「彼女のどこに惹かれたんですか?」
「惹かれる? あの女のどこにそんな要素があるんだよ?」
「いや、だって、鴨井さんは彼女を……」
「馬鹿だね? ああいう堅物女を落とすことで、男の株が上がるってもんだろ?」
 鴨井は平然とそう言い放ち、陰湿な笑いを辺りに振舞った。
 俺には、こういった鴨井の考えをどうにも理解出来ない。
 なぜ惹かれてもいない女を、見栄のためだけに落とすのだろう。
 初めから、別れることを前提とした擬似恋愛。綺麗事だけでは済まされない、別れ際の泥沼を想い馳せて身震いした。

 そんな彼女と、偶然にも一緒になった帰りの電車で、偶然にも同じ駅で降り、改札を出たところで互いに目を合わせた。
「き、菊池先輩も、この駅だったんですね」
 精一杯の言葉を彼女に向かって呟くけれど、彼女の顔は明らかに「誰、お前?」と語っていて、言葉を発することなく、ただ一度だけ頷くと、そのまま歩き去っていった。
 けれど、自宅近所のスーパーで、食料品を吟味する彼女を見つけ、相当近い場所に互いが住んでいるのだと悟る。そしてその後、会社では絶対に見ることのできない光景を目の辺りにし、部屋に戻ってからも、それを思い出しては笑い転げた。
 誰も知らない。俺だけが知る、彼女の意外な一面。どうでもいい筈のそんなことを、知り得た自分が嬉しくて、さらにそれは、変な共犯者気分にもさせた――

 研修期間最後の休日、これからの門出を祝い、同期だけの打ち上げが昼過ぎから行われた。
 ところがそこに、誰が呼んだか知らないが、同期でもなんでもない鴨井がやってきて、ちゃっかり輪の中央に居座ると
「見ろよ、ようやく落ちたぜ、あの高飛車女!」
 勝ち誇ったようにそう叫びながら、その場に居た面々へ携帯を見せ付け始めた。
「これがあの女の身体だぜ。意外といい線いってるだろ?」
 思わず、男の性で覗き込んだそこには、完全無修正の画像が浮かんでいた……

 顔こそ写ってはいないものの、鎖骨から下は余すことなく晒されていて、左胸の大きめなホクロと、斜めに畳まれた脚の間から覗く、濡れ光る秘処に、誰もが唾を飲み込んだ。
「声も録音してあるぜ?」
 薄汚い笑いを浮かべる鴨井が、そう言うが早いか携帯を操り、画像を浮かべたまま、彼女の淫らな声が流れ始める。
「あっ…んっ…や、やっ!」

 その場に居た全員の、様々な想いが溜息混じりに相次いで発せられ、上機嫌な鴨井は、俺の飲み物と箸を奪い、食い摘まみながら饒舌に勝利を語る。
「あの女、やっぱり処女でよ!」
 それからも、彼女を馬鹿にした鴨井の暴露話は延々と続き、何に対してか解らない憤りを募らせた俺は、腹痛を訴えその場を去った。

 自制心を金繰り集めたとしても、あれ以上あの場に居たら、鴨井に殴り掛かっていただろう。
 鴨井の卑劣極まりない言動にも腹立つが、何よりも彼女が鴨井の本質を見抜けなかったことに、やり場のない怒りが込み上げた。
 なぜこんなにも、腹が立つのか解らない。何に対して、腹を立てているのかすら解らない。
 別段、彼女が鴨井と寝ようが寝まいが、俺には関係のないことだ。況してこのことで、迷惑を被ったわけでも、迸りを受けたわけでもない。なのに額の筋は、いまにも破裂しそうな勢いで脈打ち続けている。

 ところが、そんな俺の前に、上下スウェット姿の彼女が現れた。
 正確に言えば、目の前に居る女性が彼女だと気付くまで、優に数分は要したのだが……
 それもそのはずだ。見慣れたスーツ姿ではなく、こよなく愛しているはずの銀縁眼鏡は、鼻の上に乗っておらず、後れ毛を許さないはずの纏め髪も、弛めの三つ編みに変身している。
 当然、視界の隅に入ったその女性が彼女だと気付くわけがなく、駅前のちょっとした薬局で、目当てのシェービングクリームに手を伸ばした瞬間、棚裏から発せられた聞き覚えのある声。
「耳栓は置いてあるか?」
 慌ててシェービングを元の位置に戻し、「すぐ探します!」と、返答しそうになる口を手で塞ぎながら、彼女の姿を覗き見た。

 遠目から見ても素顔だと解る。いつものきつめな化粧は施されておらず、摧けた服装も手伝って、実年よりも若く見える彼女。
 それでも、少し上向き加減の佇まいと、無表情加減は健在だ。
 そんな彼女は、俺の存在に気付くことのないまま、耳栓を手に入れて店内を後にする。
 鴨井の話じゃ、今の今まで彼女とベッドの中で過ごしていたはずで、彼女は初めての行為に足腰が立たなくなっているはずで……
 けれど、スキップ加減で消えて行く彼女からは、そんな気配など微塵も感じない。
 だからこそ、至極興味をそそられた俺は、彼女の後を密かに追った。

 彼女の目的場所は、そこから数百メートル先にあった。駅から目と鼻の先だというのに、小学校裏手に隠れたその建物の存在を、近所に住んでいながら、今の今まで知らずに居た。
「こ、こんなところに、温水プールがあったのかよ……」
 呆気に取られ、タイル張りの外観を見上げ続ける俺とは対照的に、彼女は軽快な足取りのまま、区営プールの扉を開ける。
 そして、鞄の中から薄いカードを取り出すと、慣れた手つきで機械に差し込み、改札のようなゲートを潜り抜けて行った。
「て、定期券? ってことは、常連?」
 全く、いつものことながら、彼女の行動は謎だらけだ。初めて男に抱かれたその身体で、プールになど入って平気なのだろうか。
 いや、それよりも、泳ごうという気力が残されていることに驚きだ……

 彼女が更衣室に消えた数分後、二階に設置されている見学席から、プールの中の彼女を探す。
 すると、丁度シャワー側から競泳用の水着を着た彼女が現れ、その滑らかな姿態に目を瞠った。
 けれどそれと同時に、鴨井の携帯に写っていた画像も、頭の中で鮮明に甦る。
 そこでまた、沸々と湧き上がる納得できない憤り。
「お前、ふざけんなよ……」
 お前が誰を表しているのか解らない。それでもそんな言葉が口を就く。
 物に当り散らしたい衝動に駆られ、この場から退散しようと席を立つ。そして、最後に彼女を一瞥したところで、何かが違うと俺の勘が囁いた。

 鴨井ほどの好色男ではないが、俺でもそこそこの数の女を抱いている。
 あの写真の裸体と、彼女の身体は、何か微妙に違和感があった。それでも確信までには至らない。
 そんな俺の思惑とは裏腹に、軽い準備運動を終えた彼女が、プールに身体を沈めた。
 そしてそこから、俺の思考回路は完全に停止し、ただ口を半分ほど開いたまま、彼女を眺め続けることとなる。

 彼女は、二十五メートルを潜水で泳ぎきった。それも、手は使わず、ドルフィンキックのみでだ。
 フィンなど着けていない。ゴーグルすら掛けていない。善くて、先程買った耳栓を、填めているぐらいなものだろう。
 そんな彼女はまた、休むことなく、来た道を潜水で戻っていく。
 そこに、一人の少女が臆することなく歩み寄り、たった今、水面から顔を上げた彼女に声を掛けた。
 少女の表情から察するに、きっと彼女を褒め称えたのだろう。少女の言葉に少し驚いた後、満面の笑みを浮かべて彼女が口を動かした。

『ありがとう』

 突然、俺の胸の中で、何かが爆ぜた。
 胸が燃えるように熱い。忘れることが出来ず、燻り続けていた想いが、火花を散らし、炎を上げた。
 祖父の言葉が、頭の中を駆け巡る。有り得ない。在るはずがない。
 それでも、俺の心は牽強したがった。道理に合わなかろうが、無理だろうが、そこにこじつければ納得がいく。
 だから全ての責任をそこに押し付けて、初めて襲われる感情を誤魔化した。
「人魚の呪いだ……彼女は、俺の見た人魚だ……」



『人魚はそれを絶対に返してはくれない。だからそれを奪われたそやつは、死ぬまで不幸のままなんだ。それが人魚の呪いだ――』

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