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 二週間ぶりの雲の上。
 遮るもののない太陽は独特の光を放ち、機内の窓ガラスは、それを七色に分散させる。
 時差によって狂い始めた体内時計を調節するため、アイマスクを施し、延々と海の音を繰り返すヒーリング音楽を耳に当て、幻視幻聴の世界を創り出した。

 鴎の声はもう聴こえない。
 碇の足枷を填めた俺の身体は、どこまでもどこまでも深く沈み、淡く澄んだ碧海は徐々に濃く深くなり、そして、闇に姿を変えた。
 碇が海底に杭を鎖し、薄気味悪い深海魚が俺の周りを旋回する。それでも、その場から動くことなく、流れに身を任せ、目を閉じたまま海藻のように身体を漂わせていた。
 けれど、誰かの気配を感じて瞼を上げれば、意識を失った俯せの彼女が、腕を垂れ下げたまま目の前を浮上していく。

「晴香っ!」
 咄嗟に伸ばした腕は、彼女を掠めるだけで届くことなく、足首に千切れるような痛みが走る。
 けれど、もがいてももがいても、俺を海底に縛り付けるその足枷を、振り解くことができない。
 それでも諦められない俺は、必死に腕を伸ばし、彼女の名を叫び続けた。

『十日だ。十日間だけお前に与えよう……』

 藍色のヴェールを被った老婆がどこからともなく現れ、口を開くことなくそう告げると、懐から小さな鍵を取り出し、足枷の鍵穴に差し込む。
 途端に身体の軽くなった俺は、老婆に何を尋ねることなく、振り返ることもせず、ただひたすら視界から消え行く彼女を追いかけた――


 嫌な夢を見た。額に冷たい汗が滲み、背中に漣が起つ。
 虫の予感。彼女の身に何か遭ったのではないかと、携帯へ手を伸ばしてから、ここが機内だということに気が付いた。
 さらに、開いた瞬間充電が底をついたそれは、小馬鹿にしたような音を立てた後、プツっと事切れた。
 意味もなく、溜息交じりに真っ暗な画面を見つめ、訳もなく、親指でボタンの凹凸をなぞる。

 夢は、まるで今の状況を映像にしたようだ。届きそうで届かない腕。何かに縛られ、動かない身体。
 喉から手が出るほど彼女が欲しいのに、これ以上近づくことが許されない。
 決して触れてはならないものが、彼女に在る気がしてならなかった。
 もしそれに触れてしまったら、彼女を深く傷つけてしまいそうで怖かった。
 そのくせ諦め切れない俺は、何もできないまま、彼女を追い続ける。

 彼女の日常を、遠目で見ることができればそれで良かった。たとえそれが、自分自身にとって満足できる結果でなくとも、彼女を傷つけてしまうよりは、断然真面な判断だと思っていた。
 そう自分に言い聞かせていたはずなのに、浮かび行く彼女の姿が頭を離れない。
 あんな夢は初めてだ。彼女が無事だという証拠が欲しい……

 眉根を寄せたままタラップを降り、苛々しながら流れてくる荷物を受け取り、手近な公衆電話から彼女の携帯へ電話を掛けた。
 けれど、着信履歴が公衆電話になるからか、彼女は一向に応答しない。
 悪態を吐きながら日本時刻を確かめて、腕時計の針を直す。
 まだ十七時前だ。きっと彼女は会社にいるだろう。

 空港に泊めていた愛車に荷物を積み込み、車内に取り付けてある充電器へ携帯を沈める。
 エンジンを温めることなく、滑るように高速道路へ進み出て、時計を気にしながら会社へ急ぐ。
 何事もなければいい。彼女が無事であるならばそれでいい。

 この四年間、人魚の呪いに再び獲り憑かれた俺の視線は、彼女ばかりを追い続けた。
 海外事業部に配属され、鴨井の顔を常時見る必要はなくなったものの、その後の展開も気になった。
 容赦ない彼女の言動は、経理という部署の役割も手伝って、あちらこちらで恨みを買う。
 だから、どの部署を訪れても彼女の噂話は絶えなくて、本人が知れば、どれほど傷つくだろうと思うものも、真しやかに囁かれていた。
 そこで鴨井が提案した。彼女を落とし、嬲り傷つけるというある種の復讐だ。
 そしてその成功の有無を数人で賭けていた鴨井は、あの日俺たちに見せた画像を証拠として提示し、まんまと賭金をせしめた。

 彼女が一方的に傷つく様を、眼の当りにすることが何よりも嫌だった。
 確かに最初の頃は、緊張ばかりを強いられる、噂通りの人だと思っていた。
 けれど本来の彼女は、真逆な女性だ。噂は表面上の彼女しか語らない。
 多分それは、俺が社内で唯一、彼女の私生活を垣間見た人間だから言えることなのだろう。
 休日の彼女は、ここで見る彼女とは全くの別人だ。姿形もそうだが、信じられないほど無垢で、そしてそれを、真顔でやって退ける。
 それを踏まえた上で彼女を見れば、仕事中の言動にも全て納得がいく。
 ただ、下手なだけなんだ。言葉を飾ることが、苦手なだけなんだ……

 あの一件から暫くして、鴨井は取引先の社長令嬢と玉の輿結婚を決め、会社から姿を消した。
 憤慨した社主が企てた結婚だったとか、鴨井本人が嵌められたと嘆いているだとか、鴨井を嘲笑う噂が社内中に飛び交ったけれど、そんな真相など、俺にとってはどうでもいいことだ。
 けれど、鴨井が居なくなった途端、彼女の噂が激減した。
 もしかして、否、もしかしなくても、彼女を中傷する噂話の出所は、鴨井だったに違いない。

 収入が少しずつ増え始めた俺も、昔の部屋から程近い、ワンランク上の部屋に引越した。
 課せられる仕事が難しくなっていくに連れ、何人かの女子社員から、明らかな誘いを受けるようにもなった。自惚れと取られるだろうが、経験からくる、それで解る。
 それでも俺の食指は動かなかった。
 別段、彼女を想う余りだとか、意に反するだとか、そんな純愛純情路線を貫いたわけではない。

 昔から俺はこうだ。いい子だな、可愛い、抱きたい。そんな感情は芽生えたし、それをそのまま実行に移したことも多々ある。
 けれど、その先に感情が進まない。その時さえ楽しければそれで良く、相手の気持ちなど考えたことのない、空っぽの人間だった。
 だから鴨井には感謝している。俺の行く末を見たようで、自分を改めるきっかけになってくれた。
 逆に、彼女には感謝するどころか畏怖の念を抱く。初めて出合う様々な激しい感情は、全て彼女から齎され、日を追う毎に酷くなる一方だ。

 初めて襲われた感情は、強烈な欲求だった。
 少女に向けて彼女が放った笑顔を見た途端、矢で射抜かれたような、何かが爆ぜたような、どう表現したら良いのか解らない、破壊的な欲求が湧き上がった。
 次に襲われたものは、生まれたての赤子を抱いたときのような、つい広がる笑みと、壊してしまいそうな不安だった。 その次は、醜い悋気と独占欲。そして、一向に解けない彼女の謎……

 彼女の部屋を知ったのは、いつものように偶然だった。
 今の部屋に越して間もない頃、少し早めに家を出て、その出勤途中に彼女を見つけた。
 小さなマンションから、ゴミ袋片手に出てきた彼女。管理人常在ではあるものの、自分の年齢よりも築年数が経っていそうなワンルームに、彼女が住んでいると知って驚いた。
 同じ会社に勤めているとはいえ、彼女の給与がいくらなのかは解らない。それでも彼女は主任という肩書きがある。だからこそ、なぜこんなところに住んでいるのかと、不思議に思った。
 けれどそこで、経理部課長の嶋田さんと、彼女のやりとりを思い出す。

「菊池くん、我が社の給料はそこまで安いかね?」
「いえ? 一部上場企業の、平均的な総支給額かと」
「ならば、いい加減あんな…あ、いや、あのような部屋ではなく、もっとちゃんとしただね?」
「課長? 仕事をしろ」

 彼女が倹約家で、貯金が趣味で、通帳を眺めることが生き甲斐だという噂通りの人間ならば、ここに住んでいるのも納得がいく。
 さらに、彼女の買い物ぶりを合わせれば、倹約しているのは間違いないだろう。
 けれど、貯めた金をホストに貢いでいるという噂は有り得ない。なぜなら、俺はホストではないからだ。
 どういうわけか、俺はいつも、チョコレートの陳列棚前で彼女と遭遇する。
 俺が先に居るときもあれば、彼女が先に居るときもあるのだが、出会うと必ず彼女は言った。
「買ってやる。一個だけ選んでいいぞ」

 倹約家が、たとえ百円足らずな物でも、会う度に奢ってくれるといった話を聞いたことがない。
 さらに彼女の謎が、部屋やチョコレートだけに留まらないからこそ、何か複雑な事情が、後ろに隠れ聳えている気がしてならなかった。
 それでもそんな素振りを、彼女が俺に見せるはずもなく、俺もまた、その混沌とした何かを把握することができずにいた。

 彼女は、誰かに頼ることを極端に嫌う。手の内を見せることも、深く踏み入られることも同様だ。
 歳は変わらない。それでも大学に通っていた分、彼女よりも入社が遅い俺は、完全に後輩であり、完全に年下扱いだ。
 だからこそ、尚更彼女は俺になど心を開かない。彼女が心を開いたのは、嶋田課長と鴨井くらいなものだ……

「あれ、菊池先輩? 先輩の部屋はここだったんですか」
 前を歩き出す彼女に声を掛け、通り向こうに聳え立つマンションを、指差しながら言い訳を試みる。
「俺の部屋は、あそこなんですよ」
 近所だけに、家賃を把握していたのだろう。少しだけ目を細めた彼女が呟いた。
「良い身分になったものだな」
 それでもその唇端が、ほんの少しだけ持ち上がるから、この言葉が僻みからくる嫌味ではないと解る。

 彼女が慕わしかった。同時に、彼女の中で築かれた俺の地位がもどかしかった。
 それなのに、俺の心の内など何も知らない彼女は、煩悶の言葉を投げかける。
「お前の顔を見る度、なぜか背筋が冷たくなる」
 昔を懐かしむような、彼女にしては珍しい、柔らかな表情だった。
 それでも、訳の分からない感情に支配された俺は、捻じ曲がった言葉を彼女に返す。
「……鴨井さんのことを思い出すからですか?」
「あ、あれは、勝手にあいつが言い寄って!」

 彼女の頬に差す赤みが、どす黒い感情を溢れ出させる。それを堪えることができず、蔑むような眼で見下ろし、さらに彼女を追い詰めた。
「へえ。鴨井さんに言い寄られたんですか。モテるんですね先輩」
「や、違う。も、もう沢山だ」
 強気な彼女が、初めて自ら視線を外す。それでも尚、独占欲に塗れた言葉が口を就く。
「何がどう違うのか、教えていただきたいですね」

 後悔してももう遅い。その日から彼女は、俺に対して、明らかな一線を引いた――

 会社に到着したのは、午後五時を少し回ったところだった。
 擦れ違う、家路に着きはじめた人々への挨拶もそこそこに、三階の経理部へ急ぐ。
 けれど、経理部のフロアに足を踏み入れた途端、通常では有り得ない喧騒が響き渡る。
「もう、何やってるのよっ! これはこうじゃないって、さっきも言ったじゃない!」
「そんなこと言うなら、あんたがやんなさいよ! 冗談じゃない!」
 いつもは暢気でにこやかな面々が、病的なほどの興奮状態で、喚き散らす経理部内。
 瞬時に彼女の机を確かめれば、主の居ない椅子と閉じられた画面。まるでそこだけが、海に潜ったように、ひっそりと静まり返っていた。

「山下くんは、今日帰国でしたか。お疲れ様でしたね」
 携帯を手にしたところで、経理部課長の嶋田さんに声を掛けられ、携帯をポケットに戻しながら、片手にしていた包みを差し出した。
「只今帰りました。これ、お土産です。皆さんでどうぞ」
 待ってましたとばかりに、満面の笑みを浮かべて両手を出す嶋田さんは、何事にものんびりと、その仏顔を持ってやり過ごすことで有名だ。
 これが通称『経理部の飴と鞭』で、当然、鞭は彼女であり、飴は嶋田さんを指すのだが、この人が鬼と呼ばれ、恐れられていたことを知る者は少ない。
 実際俺も、噂に聞いただけで、現場を目にしたことはない。
 だから、ちょっとしたことに尾鰭のついた誇張話だと思っていたのだが、何時ごろからか、それは噂ではなく事実だと確信するようになった。

「いつもいつも、ありがとうございます。遠慮なくいただかせてもらいますね。で、菊池くんかな?」
「あ、はい。レートの件で、菊池主任に相談があったのですが、これは……」
 手のひらで、今も尚喚き続ける面々を指し、眼をクルリと回しながら尋ねると、鳩尾辺りを押さえた嶋田さんが答える。
「菊池くんが休みなんですよ。彼女が居ないと、こんなになちゃうんですね。いやはや、胃が痛い」
 苦笑いを浮かべているが、この人のことだ。こうなることは、最初から計算していただろう。
 何かの思惑があるからこそ、この状況を傍観しているのだと思う。そしてそれは、多分、彼女に関わることだ。
 この四年間、二人の関係を見てきたからこそ、そう思う。彼にとって彼女は、部下ではなく愛弟子だ。否、愛娘という方が正しいかも知れない。

「先輩が休みですか?」
 彼女への敬称を、主任から先輩に敢えて切り替え、言葉を選ぶ。
 嶋田さんは勘が良い。これ以上、主任の敬称を使えば、彼女を心配する理由は仕事から出でたものだと判断し、他の社員を俺に宛がうだろう。
 逆に、これ以上、感情を詰め込んだ質問を投げかければ、俺の想いを悟られてしまう。
 けれど、こんなことをしても無駄だ。きっと既にこの人は、俺の想いを見抜いている。

「えぇ。今朝、電話がありましてね? それは酷い声で……ほら、決算が近いでしょ? だからここのところずっと残業残業で、彼女ばかりに無理をさせてしまったんですよ……」
 経理部のこの状況を見れば、嶋田さんの言う通り、彼女ばかりだったのだと合点がいく。
 それも、相当な無理を、自ら課したのだろう。頼ることが苦手な彼女らしい行動だけれど、これは完全に彼女のミスだ。
 部下を育てられなければ、いくら仕事ができる人間だとしても、肩書きを持つ意味がない。

「おや、山下くんも、私と同意見のようですね? そうなんですよ。そろそろ菊池くんも、これに気が付かないと……ね?」
 これだ。何を言ったわけでもないのに、俺の表情から思想を読み取り明言する。
 なぜこんなにも切れ者なこの人が、課長の椅子に留まっているのかが、俺には不思議でならない。
 そしてもう一つ、何年経っても解せないことがある。

「うん。やはり貴方は、そう動きますか。晴香をよろしくお願いしますね」
 携帯を取り出した俺にそんな言葉を投げかけると、嶋田さんは喧騒の中へ戻って行った。
 だから俺は携帯を耳に当てながら、嶋田さんの背中に向かって呟く。
「晴香……ね」
 極稀に、嶋田さんは彼女の名を呼び捨てにする。
 初めて彼の口からその言葉が発せられたとき、多分、俺は眉を顰めた。そんな俺の顔を見て、嶋田さんの目が細まったことを覚えている。

 彼女が心を開いた人物。羨ましいと思う反面、鴨井に対するような感情は湧き上がらない。
 年齢云々ではなく、根本的なものが違う。彼は父親のように彼女を想っている。けれど、彼女が彼の娘であるはずがない。
 だから解せない。そして、数ヶ月前、嶋田さんが俺に告げた言葉も、余計に複雑さを招いていた。

「まるで、二十年前の自分を見ているようですよ。山下くん、悔やむ前に動きなさい……」

 三回目の電話で、ようやく彼女に繋がったものの、肝心な彼女の声が聴こえない。
「菊池主任? どうかしましたか? あれ先輩?」
 喧騒を避けるために移動しながら、空いた片耳を押さえて懸命に聞き取ろうとするけれど、やはり彼女からの応答はない。
 繋がっているのは確かだった。人の気配を感じる物音だけは聴こえる。けれどそのとき、ガラスの砕ける音や鈍い音が、声の代わりに流れ出す。
「菊池先輩? 先輩!」
 吹きつける風のように何かが囁かれたけれど、その途中、切断の無情な音を残し、通話が途切れた。

『光……』

 頭で考えるよりも先に、身体は走り出していた。
 無謀な運転を繰り返し、手に汗を握る場面に何度も遭遇しながら目的の場所まで辿り着く。
 マンションの管理人室に急ぎ、カーテンの閉められた薄いガラス戸を何度も叩けば、何事かと、怪訝顔をした初老の男性が姿を現した。
 形振りなど構ってはいられない。感情ばかりが先走り、説明するのも、もどかしい。
「す、すみません! 菊池晴香です。いや、菊池晴香の後輩です!」

 だから何だと言いたげな管理人に苛立ち、頭を掻き毟った後、はたと閃いたようにポケットから財布を取り出す。
「電話の途中で、彼女に異変が起きたようなんです。これ、名刺です! これが運転免許証です!」
 差し出したというよりも、ほとんど叩きつけた状態の免許証と、俺の顔を交互に見やりながら、未だ状況が掴めない管理人は、腰を落ち着けたまま動こうとしない。
 だから、完全に自分の稚拙な説明は棚に上げ、爆発寸前で最終通告を吐き出した。
「責任は全て俺が取りますから、早く彼女の部屋を開けてください!」

 ようやく事の次第を理解した管理人とともに、彼女の部屋まで直走る。
 管理人の手で部屋のドア鍵が開けられると、我先に部屋内へ飛び込んだ。
 玄関から全てが見渡せるほどの小さな部屋。けれどその中に、彼女の姿は見つからない。
「晴香っ!」
 まるで夢の再現をするように、その名を叫びながら手近なドアを開ける。
 するとその先に、夢と同じ体勢で倒れる彼女が居た――

「きゅ、救急車を呼びましょうか?」
 後から部屋に入ってきた管理人が、慌てた声を張り上げる。
 腕時計を確認し、素早く頭を働かせた後、一番妥当だと思われる答えを告げた。
「いや、診療時間外の搬送は厳しいので、知り合いの病院に俺がこのまま運びます」
 ベッドから毛布を引き抜き、バスタオル姿の彼女を包んでそのまま抱き上げる。
「申し訳ないですが、私の名刺から、社の経理部へ電話を入れていただけますか? 帝恵病院です。落ち着いたら連絡すると」
「わ、解りました。経理部で、帝恵病院ですね!」

 管理人に後の処理を任せ、車幅灯を点滅させたままの車へ彼女を載せる。
 彼女を見つけてからは、不思議なほど冷静さが戻っていた。
 今ここで、自分が取り乱すわけにはいかないからか、夢とは違い、彼女に伸ばした腕が届いたからなのか、どの道、理由など解らない。
 それでも、後部座席まで平した助手席に横戯る彼女を見下ろして、安堵の溜息を吐いた。
 そんな彼女を横目に、車のエンジンを掛けながら、携帯へ手を伸ばす。
 数回の呼び出し音で応答した相手に、用件だけを伝え、相手の返答など碌に聞かず、即座に切った。
「あ、親父? 悪いけど、急患を診てくれ。十分で行く」
「なんだ、やぶからぼうに……って、おい、待て……」

 予備灯だけが灯る、薄暗い待合室の長椅子に、俯きながら座ること数十分。
 院内に響く靴音に顔をあげると、白衣を着た白髪混じりの男が、俺に向かって文句を吐き出す。
「全く、何なんだお前は……久しぶりに連絡をよこしたと思ったら、裸の女性を……」
「で、彼女の具合は?」
 掌を掲げて男の言葉を遮り、小言よりも大切な話だとばかりに言い返す。
 すると男は鼻から大きな息を吐き出し、俺の隣に腰を下ろすと、諦めたように呟きはじめた。
「溶連菌による扁桃周囲炎だ。ありゃ酷い。高熱の所為だろうが、四肢麻痺の兆候も見受けられる」

 顎で上着を脱ぐよう指示され、逆らうことなく上着を脱ぎ、さらにシャツの腕を捲り上げる。
「完治までどのくらい掛かる?」
 鼻につく消毒液が染みこんだ綿で肩口を拭われ、その後すぐに、小さく鋭い痛みが腕に走った。
「扁桃腺の方は最低でも十日だな。当然入院だ。俺に感謝しろよ? 無理やりベッドを空けさせ……」
「いや、連れて帰る」
「な、何を言っているんだ。そんなことが」
「解ってて、予防接種したんだろ?」

「お前は昔から、どんなに私が反対しようと、大事なものは絶対に手放さなかった」
 医師ではなく、父親の顔に戻った男は、薄笑いを浮かべて話し出す。
「会社は休めるのか? この後三日は、完全介護だぞ」
「首になっても手放すかよ」
 照れ臭さを隠すように、男とは真逆の方向へ呟けば、愉悦の声を上げる男が言葉を返した。
「お前の部屋を拝める口実ができたな。母さんが喜びそうだ」
「来んな」
「馬鹿言え、それが最大限の譲歩だ。彼女の熱が引くまでは、毎日往診だよ」

 俺の親父は、そこそこ名の知れた病院の跡取りで、自らもまだ引退せずに、循環器の専門医として外来を受け持っている。
 ある程度の年齢までは、俺もその道を継ぐことが義務だと思っていたし、それに向けての教育も施されたけれど、ある日を境に、俺は今の道を選んだ。
 弟が、強くその道を目指していたことも救いだったが、人には向き不向きがある。
 当然そのことで、親父とは何度も打つかった。そして、半ば勘当状態で家を飛び出した。
 それでも時が経てば、人の想いも緩和する。ましてそれが、血の繋がった親子であれば、自分の遺伝子と比較して、諦めに似た想いも込み上げるのだろう。

「山下くん!」
 不意に背後の自動ドアが開き、その声とともに嶋田課長が姿を現した。
 けれど、その後ろに毅然と佇む人を見取り、反射的に立ち上がる。
「おい、あれはお前んとこの……」
 社主だ。一概の社員でしかない俺など、広報誌で拝むほかない、我が社の社主がそこに居た。
「一体、お前の彼女は何者なんだ?」
 親父が俺と同じ想いを囁きながら立ち上がり、嶋田さんと社主を出迎える。

「経理部の嶋田と申します。うちの菊池が、こちらでお世話になっていると報告を受けまして」
「院長の山下です。えぇ、先程診察を終えまして、現在、処置室の方で点滴を」
「山下さん? では、こちらの山下くんとは……」
 飄々と親父に尋ねているが、あれは絶対に訳知り顔だ。抜け目がないというか、捉え所がないというか、相変わらず油断のならない人だと思う。
 そんな親父も、解っていながら儀礼的な言葉を返す。
「ご挨拶が遅れました。息子がいつもお世話になっております」
「いえいえこちらこそ。この度は、息子さんともどもお世話になりまして」

「社主の大倉です」
 互いの挨拶が済んだ頃、一歩遅れて輪に加わった社主を嶋田さんが紹介し、親父が頭を下げる。
「はじめまして。息子がお世話になっております」
 そこで社主は、一瞬だけ俺へと鋭い眼差しを向けると、信じられない社交辞令を言い放った。
「山下くんのことは、この嶋田をはじめとする者から、実に優秀な人物だと話を伺っております」
 何百人と居る社員の中の、役職すらない俺のことなど、この人が知っているわけがない。
 それでも、社主の放つ次の言葉で、俺の身体は凍りついた。
「まず手始めに、海外事業部へ配属させておりますが、行く行くは私の元で、管理職のノウハウを叩き込もうと思っております」
 開いた口が塞がらない。それでも親父は、社主に負けない悠然とした声で、誇らしげに喜びを語る。
「お恥ずかしい話、息子の仕事のことは何も知りませんで。けれど、社主直々からそう伺うことができ、光栄に思います」

「たまたま本社に顔を出したら、何やら急ぐ嶋田くんと出くわしてね。彼に話があったものだから、ちょっと同行させてもらったのだよ」
 一通りの外交談話を終えてから、言い訳滲みた言葉を、社主が俺に投げかける。
「はあ……」
 返す言葉の見つからない俺は、たった一言呟きながら、隣に佇む嶋田さんへ視線を放つ。
 けれど、嶋田さんの仏顔が、「これ以上突っ込むな」と語っているから、ただ一礼するだけに止め、社主を彼女の元へ案内することに決めた。

 彼女の病状と今後を説明するため、社主だけをその場に残して処置室から出でたけれど、ふと振り返った先の光景に目を疑った。
 けれど、仏顔とは程遠い、角立つ表情を浮かべた嶋田さんに一喝された。
「山下、今目にしたことは、全て忘れろ」

 そして俺はまた、彼女の謎に煩悶する――

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