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 なぜか、この地に不釣合いな男子が居た。
 スポーツ刈りと呼ばれる髪型が流行りだった男子の中に、掻き揚げることができる長さの髪と、この辺りでは見かけない洗練された服装の子が紛れ込んでいる。
 言葉も、耳慣れたものではない異質なもので、祖母がよく観ていたテレビの中の発音に近かった。
 それでもそんな異質の彼も、男子特有の遊びやイタズラには目を輝かせていて、網、竿、水中メガネと、いつも何かを振り回しながら、町内を走り回っていた。

「瀬尾さんとこに、お孫さんが来やる」
「あ、亮子ちゃんの息子さん?」
「そが。おんなじく東京行って、向こうは大きな病院の跡取り息子と結婚し、ただくさなあんたは、結婚もせんと、こがな厄介者だけ」
「お母さん、晴香の前でやめて……」
 祖母の嫌味は、今に始まったことじゃない。
 狭い町だ。結婚をしていないはずの女が、小さな子どもを連れて帰れば、本人がいくら貝になったところで、尾鰭のついた噂話は必然的に広がる。
 世間体を何よりも気にする祖母だからこそ、こんな私たちを追い出すことはしなかったけれど、毎日のように母親をなじり、私とは目を合わせることもしなかった。

「晴香、ごめんね。でもお母さん、どうしても貴女を産みたかった……貴女が居てくれて、お母さん本当に幸せ……」
 母は毎晩、震えた声で囁きながら、私の髪を櫛で梳く。
 本当に幸せだと母は言う。それでもその声は、ちっとも幸せそうには聴こえなかった。
 そんな母が、激痛に呻き、畳の上に吐血した。
 多分このとき、既に私は、母の命が長くないことを本能的に悟っていたと思う。

 二人きりでも、アパートでの暮らしは楽しかった。
 ビルの一角にある保育園にスーツ姿の母が現れ、喜色満面に両手を広げて駆け寄ってくる。
「晴香ただいま!」
 唇を噛み照れながら、突っ立ったままで母の抱擁を受け入れると、母は私のほっぺたに何度もキスをして、いつものお決まり言葉を放つ。
「さぁ、帰ろう! 晴香、何食べたい?」

 手を繋ぎながら夜道を歩き、大好きな曲を二人で歌う。
 名作映画の主題歌だというそれは、全てが異国の言葉で綴られていて、そんな詩をスラスラと歌う母に見惚れ、そして憧れた。
 だから意味など解らぬまま、母の音を真似して出鱈目英語で口ずさむ。
「ムーンリーバー、ワーイダ、ザラマーイ」
「晴香上手! 晴香は将来、歌手になっちゃうかも!」

 駅前のスーパーに寄り道をすると、必ず母が言った。
「晴香、チョコレートを買ってあげる。一個だけよ? 真剣に選ぶのよ」
 だから私は、真剣に真剣に考え、そして結局、いつものチョコレートを手に取る。
「やだ、またそれなの? 晴香はママそっくり! 一途なのよねぇ」

 けれどある日突然、青白い顔をした母が、慎ましやかな生活の終わりを告げた。
「晴香、お母さんのお母さん。つまり、晴香のお祖母ちゃんのところに行かなくちゃならないの」
 なぜ母が、あの生活を捨てたのか、母が倒れて、なんとなく理解した。
 母は働けなくなったのだ。そして、私を養うことができなくなったのだと。
 だから祖母が、私を厄介者と呼ぶのも解る。どんなに考えても、私は母の足枷だ。

「最後まで、本当にあんたは親不孝者だよ! あの厄介者はどうすんの!」
 母を罵倒する祖母の声が、病院廊下の椅子に座る私の耳にも届いていた。
 足元を見つめ、サンダルの中の指が、交差する術をわけもなく眺めながら唇を噛み締める。
 突然、見慣れた赤いサンダルの奥に、艶々した黒い革靴が現れ、それと同時に頭が揺さぶられた。
 驚きながら見上げた先には、厳しい顔をしたスーツ姿の男性が私の頭を撫でていて、その顔と同じような厳しい声で、きっぱりと言い切った。
「勘違いするな。君は決して厄介者ではない」
 そしてその男性は、私にそれだけ言い残すと、母の病室に消えて行く。
「はじめまして。経理部の嶋田と申します――」

 母が他界したのは、翌年の夏休みだった。
「晴香は人魚姫のお話が苦手でしょ? でもお母さん、このお話が大好きだった……」
 なんとも不思議な話だが、母の最期の言葉はこれだった。
 死ぬ間際の会話というものは、もっと感慨深いものだと思っていた。
 愛しているだとか、強く生きなさいだとか、そんな言葉を投げかけてくれるものだとばかり思っていた。
 だから、母が息を引き取ったことに気が付かず、その先に続く言葉を、私はいつまでも待ち続けた。
 けれど、薬缶が沸騰を知らせるような甲高い機械音が病室内に響き渡り、祖母とともに、数人の白衣を着た人々が慌しくやってきた。

「ご臨終です……」
 日付と時間を淡々と読み上げた後、聴診器を首からぶら下げた男性が、憐れむように私を見ながら呟いた。
 これもまた可笑しな話で、そんな母の死に方に実感など湧くはずもなく、涙が零れることも、母に縋りつくこともしない私を、祖母は憎らしげに蔑んだ。
「こんな厄介者のために、命を落として……」

 母の葬儀から日の経たない頃、私は祖母の家を飛び出した。今思えば、これを家出と呼ぶのだろう。
 祖母の風当たりが強かったからだとか、我慢の限界だったなどという理由からではなく、魔が差したといった感じで、つい、ふらふらと、気づけば衝動的に身体が動いていた。
 飛び出した先で、ふと、私の視界に鯉幟が映し出された。
 鯉幟と言っても、端午の節句に用いられるような立派な代物ではなく、道路端に設置された、風速や風向きを運転者に知らせるあれだ。

 正直言って少し、否、かなり気を違えていたのだと思う。
 するすると柱に攀じ登り、その鯉幟を固定具から外すと、急いで岩場に走り、季節外れなそれを腰に巻きつけ海へ飛び込んだ。
 私は人魚姫の物語が苦手だ。それでも母は、大好きだったと言った。
 母の気持ちなど、きっといつまで経っても私には解らないだろう。
 それでも思う。母は、海の泡になってしまったのだろうか……

 人魚姫の真似をすれば、母の言葉の続きが解るのではないか。母が最後に、何を私へ告げたかったのかが解るのではないか。そんな子ども特有の浅墓さで、澄んだ碧い海の中を遊泳する。
 ところがそこで、何かの気配を感じた。
 その方向に眼をやれば、あの異質な男子が驚きに眼を見張り、こちらを見つめていた。
 ただでさえこんな格好で、さらに人様の物を盗み、こんなことを仕出かした自分だ。
 疚しさと、後ろめたさと、恥ずかしさと。男子の見開かれた目が、私にそんな正気を取り戻させた。

「に、人魚が居た! に、人魚を見たんだ!」
「こ、こい、海女さんを人魚と間違えとー!」
「ち、違うっ! 白くない! 緑だった! それに、俺らと同じくらいの女だった!」
「人魚の呪いてよ!」
「や、やべぇよ、逃げらっ!」

 数人の男子たちは、無我夢中で我先にと陸へ戻っていく。
 そんな様子を岩場の影からこっそりと伺い、男子たちが姿を消して初めて、溜め続けていた息を吐き出した。
 人魚の呪い。その話は、私も母から聞いていた。
 幼い人魚は、自分を見た人間の心を奪う。そしてそれを、死ぬまで返さない。
 心を奪われた者は、何をするにも満たされず、幸せを感じることのできないまま、その生涯を終える。

 あの男子が気の毒になった。
 自分は人魚などではない。けれどあの成り行きからいけば、きっと眠れぬ夜が続くだろう。
 男子を追いかけ、真実を告げようと思い立つ。それでも、自ら犯した過ちも、それと同時に告げなければならない。
 良心と保身。その二つを天秤にかけ、保身が勝ってしまった私は、結局、告げるどころか身を隠すように、その男子をやり過ごした。
 そして、良心の呵責に苛まれたまま、その夏を最後に、私はこの海の町を後にする。

 家を飛び出した私の前に、あの艶々な革靴を履いた男性が現れた。
 隠すように丸めた鯉幟と、ずぶ濡れの身体。けれど、男性は初めからそれを知っていたように、驚くことなく大きなタオルで私を包んだ。
 それから、靴同様に艶々と輝く車を顎で指し、有無を言わさぬ態度で告げる。
「話がある。乗りなさい」
 警察の人なのだと思った。私の罪を問質し、罰するためにやってきたのだと。
 だから素直にそれへ従い、神妙な面持ちで後部座席に収まった。

 その男性は私の隣に乗り込むと、制服を着た運転手に向かって、やはり顎だけで指図する。
 合図とともに車はゆっくりと動き出し、自分の近い未来を馳せて、身体が震えた。
 けれどその男性は、想像と違う言葉を、想像通りの声で淡々と告げる。
「お母さんが亡くなったことで、君の保護者権がお父さんに移った。意味は分かるな?」
 意味は何となく分かった。学校のプリントで、保護者と印字された欄に、母が署名と印を押すあれだ。
「お父さんは、君を東京に戻すことを希望している。だから君は、これから東京へ行く」
 それでも、自分にお父さんが居るなど初耳で、会ったこともなければ、名前すら知らない。
 だから、戦々恐々としながら、その男性に問いかける。
「お、お父さんと暮らすの?」
 すると、男性は悲しげに微笑むと、私の頭をなでながら、その答えを返した。
「いや、君は全寮制の学院で過ごすことになる」

 嶋田と名乗るその男性は、事務的で、単発的な命令口調を投げる人だった。
 車が着いた先は紛れもなく祖母の家で、なぜか青ざめ、慌てふためく祖母を制止させると、上辺だけ丁寧な言葉を放つ。
「彩香さんのお嬢さんは、こちらでお預かり致します」
 その言葉で、眼を見開いた祖母が一瞬だけ私を見た。けれどその後すぐ、「清々する!」と祖母は吐き捨て、それからは最後まで私を見ることはなかった。

 風呂へ入るよう命じられ、大人たちの遣り取りの、その後の展開は解らない。
 それでも風呂から上がれば、小さな鞄に私の荷物は纏められ、母の遺影がその上に乗っていた。
 訳のわからぬまま嶋田に促され、私は黒塗りの車の後部座席に身を置いた。
 車が走り出し、たった一度だけ、後ろを振り返る。
 けれど、振り返ったそこに祖母の姿などあるはずもなく、やっぱり私は厄介者だったのだと確信して、微かに自嘲した。

 嶋田に連れられ東京にやってきた私は、寮制の整った、私立小学校へ編入した。
 中学からは、六年制の全生徒寮生活が強いられるが、小学生の寮入居者は数えるほどしか居ない。
 私はそんな数少ない生徒に分類され、制服を支給され、個室を宛がわれ、そして孤独だった。
 それでも中学に進学すると、他の子よりも優遇されている自分に気付く。
 何から何まで、自分は特別扱いだった。二人部屋が絶対な寮生活で、私だけは個室を宛がわれ、その部屋には風呂もトイレも設置されていた。
 全体行動では、必ず筆頭に掲げられ、苦手科目は教師陣の個人授業が施される。
 そんな私は、必然的に校内でも寮内でも浮き、必要最低限でしか言葉を交わさない日々が続く。

 思い余って、特別扱いは必要ないと、嶋田に告げたことがある。
 けれどそれを、経済的理由として捉えた嶋田に、なんなく切り返された。
「君がそんな心配をする必要はない」
 授業参観には、嶋田が必ず現れた。面談も進級式も、体育祭も文化祭も、スーツ姿の能面顔ではあったけれど、必ず顔を出してくれた。
 だから薄々感じていた。きっと嶋田が私のお父さんなのだと。そして嶋田には、家庭があるのだと。

 そんな折、修繕のため寮閉鎖の長期休暇で、行き場の失くした私は海外旅行を強いられた。
 けれどそれを強く拒み、宿直室での生活を申し出れば、呆れ果てた嶋田は、最低限の譲歩だと文句を言いながら、私を自宅へ招いた。
 こうして訪れた嶋田の部屋は、物の見事な鰥の巣だった。
 夥しく積み上げられた明細書、請求書の山と、いつの時代の代物なのかすら、全く解らない塵。
「だから呼びたくなかったんだ!」
 思わず痙笑する私を見て、顔を赤らめ吠える嶋田は完全にいつもと別人で、その食い違いに、ますます可笑しさが込み上げた。
「笑うなっ!」
「笑ってなどいない」
「嘘を吐け! 明らかに笑っていたじゃないか!」

 なぜ母は、この人と結婚できない理由があったのだろう。
 そんな疑問を抱き始めた頃、学校に一台の車が私を迎えにやってきた。
 学生では、とても足を踏み入れることなど出来そうにない高級と名の付く料亭で、その女性は私を待っていた。
 射るような眼で私を一瞥すると、嗄れた声でその人は語る。
「女狐は、死んでも尚、跡を濁す」

 祖母と同年代なその人は、やはり祖母と同じような言葉で私を蔑みながら、決して世の中は平等ではなく、生まれながらの階級が存在するのだと、延々に講釈を垂れ続けた。
 そしてその後、高額の小切手と、何枚にも連なる書類を私に突き付け、署名を要求した。
 さらに、母への侮辱も忘れない。
「淫乱で強欲な母親の血を受け継ぐ娘だが、このくらいの金で満足だろう?」
「仕舞え。そんなものいらん」

 嶋田のように顎で小切手を指せば、その人は、後れ毛を撫で付けながら嘲笑う。
「厄介者の分際で、何を偉そうに」
「貴様に、迷惑を掛けた覚えはない」
「田舎者が! 身分を弁えろ!」
「田舎者で結構だ。それを恥じる気など微塵もない」
「こ、このっ!」
 掌が私の頬に降ってくる。それでもそれを、避ける気もなければ止める気もない。
 いつの世も、先に手を出した方が負けだ。
 それが弱者へ向けられたものならば、そいつの器はそれ以下だ。

 私は勝ったのだと言い聞かせても、込み上げる悔しさを拭いきれなかった。
 けれどそこに形相の嶋田が現れ、狼狽する女性を尻目に書類を掴む。
「し、嶋田、なぜお前がここに……」
「この子は、私の娘です」
「何を言っておる、この娘は……」
「私の娘です!」
 そして、脅しとも言えそうな啖呵を切ると、小切手諸とも真っ二つに書類を引き千切った。

「晴香!」
 無我夢中で夜道を走るけれど、私を追いかける嶋田が、初めてその名を叫んだ。
 振り向くものかと決めていたのに、母だけが呼び、母だけが囁いたその名前に、思わず嗚咽が込み上げ、足が止まる。
 俯いたままその場に佇んで、その視界に嶋田の靴が現れたところで想いを告げた。

「お、お父さんだと…思って…た」
「お父さんに、なりたかった」
 間髪なく吐き出されたその意味有り気な言葉に、泣きっ面のまま嶋田を見上げる。
「お母さんに断られた」
 私とは反対方向へ眼を反らし、拗ねたように唇を突き出しながら、その後嶋田は母に求婚したことを簡潔に述べた。
「振られたのか」
「びょ、病気のことがあったから、断ったに決まっている」

 頭の中に、母と歌った大好きな曲が流れ出す。
 嶋田の告白も、私を庇う戯言も、嬉しくないはずがなかった。
 嶋田のこれまでを振り返れば、例え血が繋がらなくとも、この人は私のお父さんだ。
 こうやって、私を迎えにきて、一緒に夜道を歩いてくれる、私のお父さんだ。
「その、俺の家に来るか?」
「断る」
「母娘に、ダブルで拒絶された俺は可哀想だ」
「自分で言うな」

 母とは、同じ会社に勤めていたのだと嶋田は言った。そして母の相手は、自分の親友だとも言った。
 結婚できなかった理由は知らないが、あの女性の話から察すれば、身分違いな恋だったのだろう。
 そして、確実に高額だと予想される私の学費も、きっとその人が出資しているはずだ。
 戸籍を見れば、何らかの情報を得ることができたと思う。それでも私はそれをしなかった。
 私の父親は嶋田だ。母親に逆らうこともできず、身分違いであることを払拭することもできないような男など、私は父親と認めない。
 見てくれだけな、力量のない王子様など、人魚姫の中だけで充分だ。
 いつか必ず清算する。これまで私に使った全てのお金を、その人に叩き返して清算する。

 直ぐにでも働き口を見つけ、この生活を捨てやりたかった。
 けれど、未成年者が何を言うかと再三嶋田に説教され、学院に留まることを約束させられた。
 上に進級することを嶋田は望んでいたけれど、これ以上の借金を背負うわけにはいかない。
 嶋田がまた、あれやこれやと口を出すだろうから、何も言わずに事を進めたものの、三者面談で呆気なくそれは露見し、当然嶋田の雷が落ちた。
 それでも頑として折れない私に、到頭根負けした嶋田が、例によって最低限の譲歩を申し出た。
「人事に話は通す。だから、四月から俺と同じ会社で働け」

 それは願ってもない話だった。嶋田の勤める会社は、世間でも名の知れた一部上場企業だ。
 高卒の人間が、おいそれと就職できるような会社ではない。
 そして何よりも、母が勤めていたという会社だ……
 けれどそこで、祖母の言葉が頭を過ぎる。遠い昔から、ずっと私に圧し掛かる言葉。
「私は、厄介者にならないか?」
 すると嶋田は、そんな私の言葉を鼻で笑い飛ばしながら明言した。
「そんなものは、自分で証明しろ。厄介者になるかならないかなど、自分次第だ」

 その後の盆暮れ正月を、嶋田の家で過ごすようになった私は、あの夥しい明細書、請求書の山を片付ける手伝いに没頭した。
 そんな私を見て、嶋田は次々と難儀な課題を充てがい続けた。
 これが功を奏したらしく、嶋田に勧められて受けた日商簿記検定の合格級が上がり、そして遂に、学歴のない私が、税理士の受験資格を手に入れるまでに至る。
 だから高校を無事卒業し、嶋田のお蔭で今の会社へ就職した私は、当然経理部へ配属された。
 そして、高卒という不利な条件は、資格によって打ち消されていることも知った。

 会社での嶋田は、鬼のような男だった。
 厄介者になるかならないかなど、自分次第だと明言したくせに、彼は確実にその道を突き進んでいる。
 余りにも不用意なその言行に半ば呆れながら、書類を手渡しがてら嶋田に囁く。
「なるほど。母が断った理由はこれだな」
 その台詞に嶋田は固まり、何かを思い悩むよう頭を抱え続けてその日を終えた。
 けれど翌日、誰もが目を疑った。そして、耳も疑った。
「さぁ皆さん、今日も一日、頑張りましょうね!」
「課長、悪いことは言わん。今すぐ病院に行け」
「何を言っているのかな菊池くん。私は今も昔も、仏のシマさんでしょう?」

 家計の遣り繰りは、簿記論に比べれば断然楽だ。
 管理人が常在しているところでなければ、絶対に認めないと嶋田に脅され、保証人を頼む予定だっただけに、仕方なくその条件を飲んで、今の部屋を借りた。
 それでも都内にしては相当家賃が安く、そして相当にボロい。けれど、そんなものは気にならない。
 法の網目を掻い潜るような汚い遣り方だが、交通費全額支給の会社に、一番高い路線での通勤額を提示し、反対に、一番安い路線で会社へ通う。
 そんなものをこつこつと貯め、ボーナスには一切手をつけず、数百万では利かないであろう借金返済のため貯金を繰り返した。

 嶋田の下で働き始めて四年の月日が流れた春、今期新入社員たちが、こぞって各部署へ挨拶回りを繰り広げた。
 毎年行われる面倒な行事だが、仕事の手を休め、彼らの挨拶に耳を傾ける。
 けれど、真新しいスーツを着たその中の一人に、私の目は奪われた。
 その男を見たとき、背中に虫唾が走った。古傷を抉られたような、何とも言えない感情が溢れ出す。
 似ていた。あの時の異質な男子に、その男はとてもよく似ていた。

「晴香は、あの新入社員の子をよく見ていたね。一目惚れでもしたのかな?」
「そんなこと、あるわけがなかろう」
 毎月、仕方なく連れ出され、仕方なく奢られる嶋田との食事会。
 毎日会社で顔を突き合わせているのだから、こんな機会を設ける必要などないと主張しても、容易く躱され今に至る。
 相変わらず、こうやって無粋なことまで問質してくる嶋田だが、流石の私もその質問には驚いた。

「あの山下くんは、晴香と同じ駅に住んでいるんだよね。ほら、交通費の支給で、それを知ったよ」
 そのことは既に知っていた。帰宅途中の構内で、その男に出逢ったからだ。
「そうらしいな。先日、改札で挨拶をされた」
 すると嶋田は、鼻の穴を広げ、薄気味悪い笑みを私に向けた。
「へぇ。そうなんだぁ。運命的な二人だね」
「なぜ、そう話が飛躍する」

「話は変わるが、お前は鴨井を知っているね?」
 鴨井とは、新人教育を担う人事部の社員で、私の肌を粟を立たせ、こめかみの筋を怒張させ続ける男でもある。
「お前と鴨井が付き合っていると、社内ではもっぱらの噂なんだが……」
「はっ?」
 思わず声を荒げて、嶋田の顔を直視した。あんな男と付き合えるのは、奇特な人魚姫くらいなものだ。
 領収書を見れば、そいつがどんな人間なのか直ぐに解る。
 あいつは紛れもない詐欺師だ。何も知らない新人に付け入り、金を巻き上げていることも知っている。
 そんな男の何処に、惚れる価値があるのだろう。あいつと付き合うなど、恥辱以外の何物でもない。

「変なことを聞くが、お前の胸にホクロはあるか?」
「あぁ?」
「何も見せろとは言っていない。ただ、正直に答えろ。これは重要な問題だ」
 私のホクロに、どんな重要性があるというのだ。それでも、その嶋田の真剣さに、仕方なく返答した。
「左にも右にも、ホクロなどない」
 ところがそこで、丁度良い具合に、襖で仕切られた隣の個室から、何かが折られるような鈍い音が静かな部屋に響き渡った。
 一瞬、その音に気を取られ、隔てた襖へ眼を走らせるものの、嶋田の声で、視線も引き戻される。
「その言葉に嘘はないな?」
「ない。疑うのか?」

 帰り際、偶然出会した我が社の社主に、初めて声を掛けられた。
 正確に言えば、私の隣に立つ嶋田へ、声を掛ける序でだったのだが……
「菊池くんと言ったね。どうかな、我が社に不満はないかね? 未だ我が社には女性の管理職が居ないからね。なかなか女性社員の声が、私の元に届かないのだよ」
 堂々たる風格と、よく通る声。貫録という言葉は、この人のためにあるようだと思った。

 何もない。とても満足だと、本来ならば答えるべきなのだろう。
 それでも、自ら問い掛けておきながら、私のような平社員の申し出に一々腹を立て、根に持つような男であれば、この会社の未来は危ぶい。
 何やら試すようで申し訳ないが、それよりも何よりも、自分の意思を曲げられない。
「各階で、女子トイレの老朽化をよく耳にします。決して豪華なものを望んでいるわけではありませんが、改善の意には私も同感です」
 隣で嶋田が、無言のまま身体を震わせていた。多分この後、絶対に雷が落ちるだろう。
 嶋田にも申し訳ないが、これだけは譲れない。私は嘘が苦手だ。

 社主はそのまま時を止め、堪え切れなくなった嶋田は、怒るどころか腹を抱えて笑い出した。
 けれどそれから暫くして、女子トイレはえらく豪華に改装された。
 序でに、鴨井は突然の玉の輿結婚を決めて退職し、私の血管も通常の流れを取り戻し始める。
 鴨井のことはどうでもいいが、女子トイレの改装には、何か閃くものがあった。
 我が社の社主は、下っ端の声にも耳を傾けられる、意外と良い男らしい。

「はるくわ……」
 うわ言を唱えながら寝返りを打つ男。この男と初めて出逢ってから何年経つだろう。
 まさか自分がこんな境遇に陥るなどとは、予想だにしなかった。
 山下には本当に感謝している。そして、一生頭が上がらないだろう。

 嶋田は相変わらず、妙な怪文メールを私へ送りつけ、私の眉間を刺激する。
『菊池くん、ほら、手を伸ばせばすぐそこに……』
『お前の戯言』
『いや、そうではなくて、願い事は身近にあるのだという意味なんですが』
『そうか。ならば願おう。メールを送ってくるな\(^0^)/』
『随分楽しそうだね(≧▽≦)』

 私の願い。山下の寝顔を見つめながら、嶋田の言葉を考えていた。
 夢の中の老婆も同じことを私に訊き、そして私は、その問い掛けにこう答えた。

『暗闇は嫌だ。光が欲しいんだ』

 夢の中とはいえ、何とも滑稽な願い事を唱えたと思う。
 電気をつければ、光は差す。日が昇れば、太陽が包む。そんなものは、願わなくとも誰もが叶うことだ。
 それでも、私の願った光は、そういった具象的なものを差しているわけではなく、多分、暗闇を孤独。光を希望として、語ったのだと思う。

 それならば今、私の願いは叶っている。
 携帯という武器を手に入れ、部下とも打ち解けたりと、格段の進歩を遂げた。
 孤独というものは、厄介者と同じで、自分次第でなんとかなるものだということも知った。
 暗闇という孤独は消え、希望という光が射している。だから、私の願いは叶ったはず。
 けれどその反面想う。私は山下にとって、歴とした厄介者だ……
 厄介者という汚名を返上したい。それは、この部屋から、山下の許から去らなければ叶わない。
 それでも、この山下が放つ不安や心配を拭い去る安らぎに、私は甘えることを覚え始めている――


『さぁ、今日が期限だよ。お前の願いは叶ったかね?』
『叶ったはずだ』

『お前は、声を失う代わりに、この状況を手に入れた……』
『願いは叶ったのだから、声を返してもらえるのだろう?』

『今日が終わるまで、まだ時間がある。けれど今日が終わった時、私はお前の足を貰う』
『ま、待て! 叶ったのに、なぜ足を奪う!』

『己の心に聴け――』

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