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 晴香、君が夢と全く同じ体勢で倒れているのを発見したとき、可笑しな話だけれど、なぜだか俺は、ここから十日なのだと自分に言い聞かせていた。
 あの夢の老婆が告げた言葉。通常ならば、そんな他愛もない夢の話など信じたりはしないのだけれど、君の異変を知らせる夢だっただけに、その言葉が真実である気がしてならなかったんだ。

 俺に与えられた十日間。俺の願いが叶う十日間。
 やっと触れることができたのに、思わず握り締めた君の手は凍るように冷たくて、抱き上げたときの君の身体は燃えるように熱い。
 さらに君は意識をも失っていたから、医学を齧ったくらいの者でも、入院という文字が頭を掠める。
 だから、管理人に救急車を呼ぶかと尋ねられた時、俺は咄嗟にそれを否定し、自分が運ぶと言い切った。最もらしい言い訳を述べながら、自分の我が侭に縋りついたんだ。

 何も知らない君を無理やり俺の部屋に連れ帰り、果たしてその判断は正しかったのだろうかと、何度も何度も自分に問いかけては、不安だけが募った。
 余りにも静か過ぎる君の寝息に恐怖すら抱き、温もりを確かめずにはいられなかった。
 君がまた、手の届かないところへ旅立ってしまうのではないかと、怖くてたまらなかったんだ。

 首の下に腕を差し入れ、愛しくてたまらない君を、泣きそうになりながら見下ろす。
 けれど、額に唇を押し当てた途端、君は大粒の涙を幾筋も馳せながら、自由にならない身体を懸命に動かし、俺の胸に顔を埋めた。
 きっと君は、熱に魘されていた君は、俺ではなく違う誰かを想い、縋りついたのだろう。
 それでも良かった。代替でも構わない。
 凛とした君が誰かに縋る。それほど君は、傷つき弱っていた。喩え代替だとしても、その役目を担うことができて嬉しかった。

 一人で居ることが当たり前な君は、二人で居ることに苦痛を覚え、差し出した俺の手を、視線だけで容易く振り払う。
 成す統べなく床に転がって、動かない下半身を拳で何度も叩きつける君。
 そんな君を助けるために腕を伸ばすけれど、君は視線を反らすことで拒み続ける。
 意地を張るのもいい加減にしろと、苛立ち紛れに君を抱き上げて、絶対に視線を合わせようとしない君を、トイレに押しやり扉を閉める。
 震えながら唇を噛み、それでも毅然とした表情を保とうと懸命になる君。
 俺の差し出す腕は、助けているつもりが、反対に君を傷つけていたのだと、そこでようやく気が付いた。

 親父の助言通り、歩行器を部屋に運び入れたとき、ようやく君は顔を上げて俺を見た。
 力の加減が解らずに、一歩進むのにも数分を要する君。それでも俺は手を貸さず、ただ君の行動を見続ける。
 倒れてから、初めて自分一人で事を成し遂げた君は、倒れてから、初めて誇らしげに顎を上げた。
 そんな君の姿を見て、涙が出そうになったんだ。
 どれだけ君は強いんだ。そして、どれだけ君は一人だったのかと……

 何でも一人で抱え込む君は、俺の存在意義を端から否定する。
 誰かに頼ることは、決して敗北ではないと君に解って欲しかった。
 手を伸ばしてくれることを、待っている人間がここにいるのだと、君に気づいて欲しかった。
 なぜこんなにも、君は孤独を貫くのだろう。その理由が解ったとき、俺は震えた。

 熱が下がり始めた君は意識が朦朧とすることもなくなって、益々俺に頼ることを忌み嫌う。
 だからその日から俺は、休みを返上して出勤を再開した。俺がこれ以上休んだら、君は自分を責め始めてしまうだろう。
 階下の一家に事情を告げて、何か異常を感じたら、直ぐに連絡をもらえるよう言付けた。
 俺の部屋から響く不気味な歩行器の音を、訝しがっていた階下の一家は、率直に事実を告げることで、途端に笑顔へ変わる。そして、快く協力を申し出てくれた。
 この一件があったからこそ、俺は迷うことなく事実を社へ報告した。
 親父の病院で、既に社主と嶋田さんには説明したけれど、それだけでは足りない気がしたんだ。

 当然その日の昼休み、俺は嶋田さんから呼び出された。
 要約された、君の身の上話を聞かされた上で、改めて嶋田さんが俺に問う。
「晴香が君に対して鎧を脱ぎ始めている。あの子の全てを背負う覚悟がないならば、どうか今すぐ手を引いてくれ」
 それでも、嶋田さんは最初から俺の答えを知っていたはずだ。
 でなければ、こんな大事な話を俺に漏らすはずがない。
 だから俺は、鼻の奥に湧く痛みを隠し、嶋田さんへ深く頭を下げた。
 声が震えて、何も言葉を発することができなかったけれど、俺の気持ちは嶋田さんに届いたらしい。
「晴香を傷つけたら、私が承知しない」
 それだけ言い残すと、嶋田さんはその場を去った。

 本当に、嶋田さんと君はそっくりだ。本物の親子以上にそっくりだ。
 そして、嶋田さんが君を、どれほど愛しているのかが解る。
 君を想う年月は一生彼に敵わない。それでも、君を想う深さは俺だって負けないはずだ。
 ならば、俺は俺の遣り方で、君への想いを貫こう。君に届くことを信じて貫こう……

 相変わらず声の出ない君は、無表情の仮面を脱ぎ捨て、必死で表情を変えた。
 そうやって、懸命に俺へ意思を伝えようとした。
 それが、どれほど愛しい仕草だったかなど、君は知りもしないだろう。
 そして俺が、君のその仕草を見たいがためだけに、意地悪をしていたことにも気付いていないだろう。

 決して卑猥な意味ではなく、俺は君の胸が見たかった。けれどこんな言い訳をしたところで、その動機は自分が満足を得るためだけの不純なものだ。
 それでも初めて君の胸を見たとき、どれだけ俺が震えていたか君は知らない。
 ホクロがなかった。君の左胸には、あのホクロがなかったんだ。

 君の髪を洗いながら、思わず、大好きな歌が口から漏れた。
 その歌を聴き、君は少し驚いたように俺を見上げる。
 君の着信音が、この歌だということを知っている。
 何か悔しいことがあると、その曲を口ずさむことも知っている。
 けれど俺は逆に、喜びを感じるとこの曲が口から漏れる。
 だから見上げた君の顔は、『お前は今、辛いのか? 悔しいのか?』と、俺に問い掛けていた。

「違うよ晴香。嬉しいんだ」
 風呂場でそんな言葉を放てば、卑猥な意味に取られてしまっても無理はない。
 けれど無垢な君は、そんなことなど微塵も考え及ばないのだろう。
 きょとんとしながら首を傾げ、変なやつだとばかりに眉根を寄せる。
 きっとこの歌は、君にとっても何か大切な意味を持っているのだろう。
 それをいつの日か、君の口から聞けることを願う。少しずつ、自分を語って欲しいと願う。

 初めて君の名を呼んだとき、君は驚きで目を見張り、そして直ぐに、嫌悪感を露にした。
 それでも俺は、その名で君を呼び続けた。何度も何度も子守唄のように君へ囁き続けた。
 遂に君はそれを当たり前のように受け入れて、俺の呼びかけに躊躇することなく振り向いた。
 君への想いが膨らみすぎて、堪らない。仕草一つで多くを語るんだ。
 今まで見過ごしていたその事実に気づき、想いは許容を超えて溢れ出す。

 自分の名を受け入れた君は、それから、徐々に徐々に、沢山のことを自然と受け入れ始めてくれた。
 差し出した俺の手を、躊躇うことなく握り締める君。
 携帯を握り締めながら、俺の身体に凭れ掛かる君。

 君の性格をそのまま表したような、芯のある真っ直ぐな髪を指に絡ませ弄べば、君は片方の口端を持ち上げ、嘲り笑う。
 ただ君の髪に触れていたかっただけなのに、三つ編みが結べないのだと勘違いした君は、そうやって俺を挑発する。
 こうやって、いつまでも君の傍に居たい。
 ずっとこのまま、君の足が動かなければいいだなどと、思った俺を許して欲しい。

 夢のような十日間だった。早すぎる十日間だった。
 明日君の身体は、その機能を取り戻すだろう。なぜかそう確信しているんだ。
 そして君は、ここから、俺の許から去っていく。
 逢えなくなるわけじゃない。それでも、君を手放したくない。
 けれど、去っていく君を、俺は引き止められないだろう。

 俺の十日が終わる。
 彼女の傍に居たい。そう願い続けた俺の十日が明日で終わる――

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