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居ないと解っていても、無意識に手が残片を探り、凹む枕に残香を求めて頬を寄せる。 十日目の朝。 ふと、ここ暫く感じたことのない、半分忘れかけていた違和な感覚に、躊躇いを覚えて動きが止まる。 恐々と身を起こし、そっと床に足を着く。予想が外れたときのために、歩行器を片手で掴みながら足に力を入れた。 立てた。いつもより幾分高い視界に、部屋の眺めも色も、何もかもが違って見える。 それでも怖い。だから歩行器に片手を添えながら、ゆっくりと一歩踏み出した。 歩ける。また一歩、また一歩、喜びと戸惑いを噛み締めながら足を出す。 歩行器から手を放し、足踏みをする。少しだけ飛び跳ねてみる。片足でくるりと回る。 喉元が、唇が震えていた。鼻の奥がつんと痛み、目頭が熱い。 立てた。歩けた。軽やかにとまではいかないけれど、補助なくして、私は自力で動いている。 現状を受け入れるまでに、結構な時間を要した。 爽快で歓喜雀躍な幸福感と、何かの終わりを告げる喪失感が鬩ぎ合う。 何故、幸福感だけに浸れないのだろう。何故、私の心は鬩ぎ合っているのだろう。その答えを知ることが何よりも怖くて、込み上げる全ての感情に蓋をした。 全てが元に戻っただけだ。喜ぶ必要も、悲しむ必要も何処にもない。 声は相変わらず出なかった。もしかしてと、試しに適当な言葉を吐き出してみたけれど、空気が漏れるだけで響きはない。 それでも、こうして少しずつ私の身体は回復している。直に声も戻ってくるだろう。 昼過ぎ、時間を見計らって、この状況を山下と嶋田にメールで報告した。 嶋田からは返信があり、今直ぐにでも出勤したいと言い出しかねない私の思考を先行し、週明けまでの出勤停止を言い渡された。 さらに、この週末、例の食事会をも義務付けられた。それはそれで仕方がない。ここ数年、こんなにも長く顔を合わせていない時期などなかったのだから。 けれど、山下からの返信は、一向に届かなかった。 きっと仕事が忙しいのだろう。そう思っても、言い表せない不安が心で燻り続ける。 果たして私は、何時まで此処に居るべきなのだろう。歩けるようになったのなら、山下は直ぐにでも私から解放されたいと思うのではないか。 だとしたら、山下が帰宅するまでに、私は身支度を済ませて帰宅すべきだ。お礼の挨拶は、日を改めてすれば良い。 けれど身支度と言っても、バスタオル姿で此処に運ばれた私だ。此処へ来てから、山下が買い揃えてくれた寝衣は数着あるものの、外着もなければ靴もない。財布も部屋の鍵もない。 当然、山下の部屋鍵も持ち合わせていないのだから、鍵を掛けずに此処を去ることなど出来ない。 結局、私は最後まで厄介者だ。慣れ親しんだベッドに腰を下ろし、額を擦りながら自嘲した。 動けるようになったものの、何をするわけでもなく暇を潰す。 山下の部屋を探索するのは失礼だ。喉の渇きを覚えても、冷蔵庫を開けることすら気が咎める。 元々、テレビも余り観ない。そんなことで一々腹を立てる男ではないと解っていても、これ以上の出費を山下に課せることはしたくない。 そこで、この十日間、山下にいくら散財させてしまったかと考えた。 目に見えない苦労や時間は、計り知れない。その恩は、今後どうにか返していこう。 けれど、目に見える物は別だ。これは直ぐにでも、今日にでも清算しなければ気が済まない。 携帯をメモ帳代わりに、頭で算盤を弾く。 領収書やレシートさえ見せてもらえれば、ものの数分で終えることのできる作業だけれど、何かをしていなければ居た堪れなかった。 与えられた物を思い出すため、この十日間を振り返るのに、溢れるのは沢山の想いばかりで胸が痞え、作業が捗らない。 この胸の痞えを取り払いたい。こんなものは要らない。こんなものは必要ない。 だから歌う。声は出なくても構わない。心の中で歌えばいい。 それなのに、この歌にさえ、山下の鼓動が息衝き始めている…… お遣い帰りの道で、通りの向こうから響く声に足を止めた。 その声の主を確かめれば、あの異質な男子が、カブトムシを高々と掲げ、朗らかに歌っている。 「ム〜ンリ〜バ〜!」 祖母の住む町に赴いてから、母が二度と口ずさむことのなかった歌。私が初めて覚えた歌。 この歌は、こんなにも明るく、楽しげな歌だっただろうか。 母の歌う、儚い夢を馳せるような優しい音色ではなく、強さと誇りと勝利の篭る音色。 私はそんな男子の歌声に救われた。歌えば、強くなれる気がした。歌えば、願いが叶う気さえした。 だから私は、これを歌うことで気持ちを奮い立たせた。どんなに辛くとも、私は決して一人じゃないと。 私を愛してくれた母が居た。私を想ってくれる人がいる。そうやってハッピーエンドを願い歌うんだ。 けれど山下は私と真逆で、カブトムシを手にしたあの男子のように、誇らしげに歌う。 あの男子と同じように、山下は笑みを湛えてその曲を口ずさむんだ。 それを口ずさむ山下の背後に、エンドロールが見えた。 願いを達成したからこそ、それを歌い、それが喜びや誇りとなって表れる。 どちらも想いが籠もっているには違わない。それでも私の想いは一方通行だ。 羨ましかった。私も何時か、山下のように、あの男子のように、この歌を歌いたい…… 鍵を差し込む音。山下の帰宅を告げる音。つい昨日までは、笑みの広がる音だったはずなのに、今日は何故か牢獄の鉄格子のように重く響く。 けれど、姿を現した山下の、いつもと変わらぬ声に、いつもと変わらぬ顔。 「晴香、ただいま」 それは、煩悶していた自分が情けなくなるほど、呆気ない幕切れだった。 急激に、肩の力が抜けていく。可笑しな程、変な笑いが込み上げた。 十日間、山下には迷惑も苦労も掛けた。もらった側は、感謝の意が込み上げて、妙な感情が宿ってしまうのも無理はないが、した側の者に生じる感情は達成感だ。 遣り遂げた思いで満たされ、早く羽を伸ばしたいだろうと思う。 一刻も早く、山下を私から解放してやりたい。それが、今の私にできる最大の恩返しだ。 携帯を片手に、ベッド脇からすっくと立ち上がる。 少しはにかみながら、立てること、歩けることを動作で伝えるけれど、山下は、驚くわけでもなく、喜んでくれるわけでもなく、ただ微笑みを浮かべた表情のまま、何一つ、このことには触れなかった。 ゆっくりと山下へ歩み寄り、動けるようになったと携帯に文字を打ち、それを読ませる。 けれど山下は、たった一言発しただけで、後は何も語らない。 「うん。そうだね」 そんな山下の余所余所しさに、侘しさが込み上げた。何故未だ私が、此処に居るのかが解らず戸惑っているのだろう。そんなことは解っている。引き伸ばそうとしているのは私だ。 終わりの鐘は鳴ったんだ。それなのに、何故私はこんなにも逡巡しているのだろう。 決めたはずだ。自分にできる恩返しは何なのかと考えて、一刻も早く実行すると決めたはずだ。 大きく息を吸い込んで気を取り直し、また携帯へ文字を打ち込む。 『今までの領収書はあるか?』 「ん? なんの?」 『私に使わせたお金を清算したい』 「あぁ、そんなのいいよ。レシートもないし」 山下は軽くあしらうように告げると、買ってきた食料品の片付けに精を出す。 だから私は向きになり、忙しなく動く山下に、長めの文を差し出した。 『そういう訳にはいかない。今日一日考えていたが、相当な金額になるはずだ』 「一日中、そんなことを考えていたの?」 『当たり前だ。じゃなければ、お』 そこまで打ち込んだところで、山下が私の手から携帯を引き抜いた。 「じゃなければ、何? 晴香、ごちゃごちゃ煩い!」 幾筋にも眉間に皺を寄せた山下は、そう声を荒げながら、取り上げた携帯を真逆に圧し折り、ゴミ箱へ投げつけた。そしてそのまま私に背中を向け、最後の言葉を吐き捨てる。 「出て行けよ……早く出て行けばいいだろ?」 山下には本当に感謝している。言葉では言い尽くせないほど、感謝している。だからこんな喧嘩別れのような真似だけはしたくなかった。 それでも私は、此処に居るべきではない。 山下の苛立ちが空間に満ちて、全てで私を拒絶しているのが解る。 最後に感謝の意を述べたかった。けれど携帯を失った今、想いを伝える手段がない。 だから山下へ向けて、精一杯の深い辞儀をしてから、玄関に向けて踵を返す。否、返したはずだった。 右手首が枷られていた。手首の痛みに気づき、振り向いたときにはもう、唇を塞がれていた。 反動で仰け反る背中に、首に、山下の腕が巻きつき、指が私の髪を握り締める。 荒く激しい山下の欲望が、唇を伝い、口の中に激流の如く流れ込む。 驚きの余り、身体が硬直して動かない。眼を伏せることも出来ず、閉じられた山下の瞼を見続けた。 苛烈なその行為に、胸が苦しい。それよりも何よりも息が苦しい…… 生命の危機が呪縛を解き、耐え切れず、山下の胸を力一杯押して酸素不足を解消した。 けれど、荒い呼吸のまま見上げた先には、あの時と同じ、歪んだ山下の表情があった。 またやってしまった。懲りもせず、私はまたやってしまった…… 堪らずその場から飛び出した。左足の付け根が、力を入れるたびにツキンと痛む。 それでも走ることを止められなかった。あの顔は嫌だ。あの顔だけは二度と見たくなかった。 否、違う。現実を思い知らされるからだ。浮かれていた自分を戒める顔だからだ。 気づいてしまった。否、気づいていたのに蓋をしていた。私はずっと山下を…… 十日ぶりの外の空気。肌を刺すような冷たく尖った風が身体を突き抜ける。 裸足のひらが何かを踏んで、鋭い痛みが身体を廻る。 脚も足のひらも痛かった。けれどそれよりも、心のほうがもっと痛い。 私は二度も同じ男に恋をして、二度の期待を抱き、そして二度の傷心を味わった―― 最初は、あの異質な男子に似ているからだと言い聞かせ、山下を目で追ってしまう自分の行動に納得していた。 けれどいつの日からか、それは違う感情に挿げ替えられていた。 きっとそれは、チョコレートの陳列棚前で、あいつと遭遇してからだ。 真剣に真剣に悩んで、前から三番目のそれを手にした時だった。 「先輩、もしかして、金のエンジェルを狙っているとか?」 突然、後方から図星を言い当てられ、それを手にしたまま固まった。けれど、山下は笑うでなく、真剣な面持ちで私に言った。 「俺、今、銀のエンジェル四枚なんです。あと一枚がなかなか手に入らなくて」 「私は、おもちゃの缶詰など欲しくはない」 「え? いらないんですか? なら、当たったら俺にくださいよ」 初めて給料というものを貰ってから、週に二回ほどそれを買うようになっていた。 宣言通り、その副賞が欲しいわけではなく、ただ単純に、当たりを引きたかっただけだ。 私には、余り思い出という思い出がない。思い出とは、誰かとともに積み上げるもので、単独でできたそれは、思い出ではなくただの過去だ。 だから私は、母との少ない思い出に執着しているのだと思う。 歌も、このチョコレートにしても、幸せだと感じることのできた、数少ない思い出だ。 それでも赤の他人からしてみれば、大の大人がこのような振る舞いに興ずることを、滑稽として捉え、莫迦らしくも映るのだろう。 別段、笑われても構わない。好奇の目に晒されても気にならない。 けれど、同調されることを予期してはいなかった。 瞬間、世渡りの上手い男だと思った。この同調は、媚び諂いの一種だと。 ところが数日後の同じ場所で、一点を見つめ、悩みあぐねる山下の姿を目にしてしまった。 その横顔に、思わず顔が綻び、うっかりと、母の言葉が口を吐く。 「買ってやる。一個だけ選んでいいぞ」 私は赤い箱を掴み、山下は茶色い箱を掴む。ピンクや白の箱が登場しても、互いに食指は動かず、互いの色に手が伸びることもない。 陳列棚の前で腕を組み、首を傾げ、馬鹿馬鹿しいほど無意味な時を、互いに共有し続けた。 山下は携帯へ電話を掛けてくると、必ず真っ先に言う。 「菊池先輩、早く当ててくださいよ」 「そう簡単に当たったら、つまらん」 当たったら、今までの全てが終わってしまうような気がした。当てたいはずなのに、当たらなくてホッとする自分も居た。 山下からの着信をどこかで待ち続けている自分。スーパーで山下を探している自分。 嶋田が一目惚れの話を切り出したときも、結局は図星を言い当てられていたからこそ、驚いたんだ。 女子トイレは噂が飛び交う場所だ。大概は情話で、当然そこに山下の名も上がっていた。 輪に加わっているわけではないが、個室を利用する者には否が応でも伝わってくる。 二十歳そこそこの若く可愛らしい子たちが、懸命に自分を磨き上げながら、山下へ自分を印象付けようと躍起になっていた。 弾けるような笑い声が消え、ただ一人、鏡に映る自分を見ては、溜息を吐く。 「何を期待しているんだ。そんなことは有り得ないことだ」 それでもどこかで、想いを至らせる自分が居た。もしかしたらと、期待を抱く自分が居た。 けれどある日、山下と偶然にも一緒になった通勤途中で、それは終わる。 蔑むように私を見下ろし、嘲笑うように吐き出された山下の言葉。 「へえ。鴨井さんに言い寄られたんですか。モテるんですね先輩」 あの顔。その言葉。それは私を現実に引き戻してくれた。 期待などするからだ。期待など虚しいだけのものと、痛いほど知っている。 母は助からなかった。祖母は追いかけてなど来なかった。父も現れてはくれなかった…… 私の願いなど叶った例がない。期待を抱き、それに想いが籠もれば籠もるほど傷は深い。 だからその日から私は、自分の心に蓋をした。誰とも関わらなければ、こんな想いを抱くこともない。 私は光が欲しかった。けれど私は光が似合わない。 ほら、現に今だって、こんなにも心は欲しているのに、身体は暗闇を求めてしゃがみこむ。 暗闇は嫌だ。そんなものは言い逃れに過ぎない。私はただ単純に、光が欲しかった。 けれど、その願いは叶わない。 光。……山下 光。 この男はその名の通り、私の光そのものだった。仄暗い海の底に差す、唯一の光だった。 老婆の放った言葉はこれだ。あのような現実離れした夢の出来事を真に受けるなど、滑稽極まりないけれど、私の足は直に奪われる。そしてもう二度と、声が戻ることもないだろう。 傍に居たいと願い、声を引き換えにした。手に入れたいと願い、足を引き換えにした。 願いを達することができなかったのだから、もうどちらも戻らない。 それでもいい。私はこの十日間、本当に幸せだった。夢のような日々だった。それで充分だ。 左足の痛みが消えていく。否、痛みが消えるというより、感覚が失われていくのが解る。 まるで、刻一刻と泡になるようだ。そこまで想い馳せ、母の最期の言葉が脳裏に響く。 「お母さん、このお話が大好きだった……」 母は、愛する者の幸せを願い、消えていったのだろうか。自らの幸せよりも、それを選んだのだろうか。 今、空気の精になった母が、私の周りを飛んでいる気がした。 飛ばないで欲しいと切に願う。こんな私では、母に課せられる時間が長くなるだけだ…… 不意に、白いスニーカーが俯く私の視界に入る。 顔を上げれぬままの私に、震える声が降り注ぐ。 「晴香…帰ろう?」 どうしてこの男は、こんなにも優しいのだろう。追いかけてくる必要など何処にもなかったはずだ。 捨て去ればいい。突き放せばいい。それなのに、この男はそれをしない。 だから甘えてしまう。頼ってしまう。そしてそれが、期待に変わってしまうんだ。 もう二度と期待など抱きたくない。だから差し出された手を掴まず、視線を避けて殻に閉じ篭る。 お願いだから行ってくれ。私を残し、過ぎ去ってくれ。お前の優しさは、時に残酷だ。 何度も心で唱え、何度も縋りつきたくなる想いを殺す。 それなのに山下は、私の間近に背中を向けてしゃがみこむ。 「選ぶのは晴香だよ……」 私は光が欲しかった。私の願いは、手を伸ばせばすぐそこにあるのだと嶋田は言った。 期待などしない。勘違いもしない。それでも思う。この背中に手を伸ばしたい…… 『覚めなくていい! 光が欲しいんだ!』 声を失って、初めて良かったと思えた。それほどまでに、私は大きな声を上げて泣いていた。 届くことのない言葉を、何度も何度も叫びながら、私は大声で泣いていた。 懸命に腕を伸ばし、その大きな背中にしがみつく。 脈打つ首筋に顔を埋めれば、私を背負う山下がゆっくりと立ち上がる。 そして、歩き出した光が、そっと囁いた。 「ずっと聴こえてたんだ。俺を呼ぶ晴香の声が。光って、俺を呼んでくれていると……」 |
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