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 逆戻りした山下の部屋の中。ソファーに下ろされ、赤い箱のチョコレートを山下から手渡された。
「晴香の右足、ガラスが刺さってる。かなり痛いだろうから、それ食べて我慢して」
 本当に痛かった。刺さったガラスに触れられるだけで、ぞっとする痛みが、足先から脳天に走る。
「う、動かないで晴香! それじゃ抜けな……」
 酷い顔をしていたのだろう。
 床に跪く山下は、私の顔を見上げた途端に言葉を止め、そこから見事に押し黙った。

 慣れ親しんだベッドに運ばれ、鼻水を啜り上げながら、紅茶も啜る。けれど背凭れ男は、背凭れを志願してくれず、先程から、あれやこれやと動き回って落ち着かない。
 さらに、消毒が終わってからというもの、一向に私と目を合わせようとしない山下は、本日四度目の、同じ台詞を私に放つ。
「晴香? 眠くなったら、寝ちゃいなね?」
 再び私を受け入れてくれた山下の優しさは、痛いほど解る。
 それでも、何故こんな態度を取られるのか、皆目見当がつかなかった。

 先程、勢いで私にキスをしてしまったことを、悔やんでいるのだろうか。
 それならば、私は平気だ。そんなことで、勘違いをするようなことはないし、誰に言うつもりもない。
 けれどそれを、山下に伝えても良いのだろうか。逆にぶり返らせ、変に煽ってしまうのではないか。
 それでも迷ったところで始まらない。第一、山下は目を合わせようとしないのだから、伝える術もない。

 しっかりと着込んだガウンを、脱ぎ始めたところで唐突に掛かる山下の声。
「な、何やってるの晴香? やめてよ。着てて!」
 そんなことを言われても、これ以上着ていたら逆に汗を掻く。だからその言葉には従わず、困惑気味に山下を見ながらガウンを脱げば、又もや飛び出す叫び声。
「脱ぐなら寝てよ!」
 この言葉で、昂ぶっていた感情が、一気に爆発した。
『何故、私を避け続ける! 邪魔なら邪魔と言え!』
 声にならない声で喚き、睨みつけながら、山下へ向けて脱いだガウンを投げつけた。

 山下は一瞬だけ驚きに目を瞠り、けれど直ぐに真顔へ戻ると、足元のガウンを拾い上げる。
 そして、依然として睨み続ける私の元へゆっくりと近づき、ガウンを私に差し出した。
 首を横に向け、視線でそれを拒否すれば、上から大きな溜息を吐く山下が、私の顎に手を掛ける。
「さっき、拒絶したのは晴香でしょ? 俺だって、理性の限界があるの」
 一体、山下は何を言っているのだろう。私は何も拒絶などして……あれか。
 でもあれは、拒絶したわけではなく、息が苦しくて押し退けただけだ。
 そうしたら山下が、あの蔑むような眼で私を射抜いたのであって、私は何も悪くないし、そんなことで理性の限界を問われても困る。

「何、その顔? 何で晴香は、俺が悪いみたいな顔をしてるわけ?」
『息が苦しいのに、お前が続けるから、私は仕方なくだな』
 両手で自分の首を絞め、息苦しいを表現してから、一本指を突き出し、上下に振って文句を垂れる。
「ちょ、ちょっと待って晴香。ごめん、その、もしかして、初めてだった…り?」
 その言葉で私の動きが止まり、表情から返答を読み取った山下は、骨をもぎ取られた動物のように、力なくその場へ崩れ落ちた。

 両掌で額を覆い、俯きながら小さく震える山下の姿に、不安が込み上げ、固唾を呑んだ。
 先程の私と同様に、鼻水を啜り上げる山下は、俯いたまま決して目を合わせようとはせず、何度も謝罪を繰り返す。
「ごめん。ごめんね晴香。大切なものなのに、俺、あんなにしちゃった……」
 何故そこまで大袈裟なことを言うのだろう。別に後生大事に取り置いていたわけではないし、機会がなかったから、たまたまそうだっただけだ。
 やはり、山下にはちゃんと告げたほうがいい。私は、それを根に持ち、脅迫するつもりなどない。
 期待も勘違いも、私の辞書にはないのだと言うことを、はっきりと伝えなければ。

 項垂れ続ける山下の肩を叩き、私を見てくれと頼むけれど、山下は顔を上げることなく、そんな私の手を握り締める。さらにそのまま、肩から手を外して口元に宛がうと、そっと私の手の甲へ口付けた。
 床に跪き、頭を垂れ、座る私の手の甲へ触れる唇。
 忠誠を示すような、何かの儀式に似たそれを、呆然と他人事のように見下ろしていた。
 けれど唇を離した山下は、ようやくゆっくりと顔を上げ、私の手を握り締めたまま鮮明に語る。
「好きだよ晴香。君と出会えたことを誇りに思う」

 それは、言葉通りの誇らしげな笑顔だった。澄んだ少年のような笑顔だった。
 全てに圧倒されて身動きが取れない。それでも頭は思考を重ねる。
 今、この男は何と言った? 私を好きだと言わなかったか?

 飛び退けるように手を引き抜き、山下を見つめながら何度も首を横に振る。
 嘘だ。聴きたくない。嫌だ。信じたくない。
「晴香、俺は……」
『嫌だ! 聴きたくない!』
 目を閉じ、両手で耳を塞ぎ、しつこいほど首を横に振り続けた。
 けれど耳を塞ぐ両手を押えられ、強引にマットへと下ろされる。
「晴香。逃げられないよ。逃がさない。納得できる答えをもらえない限り、俺は晴香を逃がさない」

 押さえつけられた手首から、山下の熱が伝わってくる。
 首を振り続けることは止めた。それでも顔は上げられない。
 けれど、そんなことには構わず、私の顔を覗きこみながら山下は問う。
「俺は晴香が好きです。晴香は俺をどう想ってますか?」
 なんでこの男は、こんなにも直球を投げるのだろう。
 それでも私は、この男のこういった潔さに惹かれる。
 思い遣りとも違う、親切とも違うこの男の優しさに癒され、温かさに触れ、私の砦は崩れ落ちた。

 それでも怖い。想いを受け入れるのも、想いを語るのも、怖くて堪らない。
 私の願いは叶った例がない。叶うわけがないんだ。それなのにどうして……
「嫌いでもいい。好きじゃないでもいい。だから晴香の返事を聴かせて?」
 嫌いなわけがない。好きじゃないわけがない。私はこの男が好きだ。ずっと、ずっと前から。
 鼻の奥が痛い。目から熱いものが零れ落ちる。それなのに、この男から目が離せない。

『好きです。私も好きです』

 言葉になることのない息が、震えながら空気に溶けていく。
 伝わるわけがない。届くわけがない。それでも山下は私を抱きしめた。飛び切りの笑顔で抱きしめた。
「ありがとう晴香。俺も好きです。晴香のことが大好きです」
 額に顎に両頬に、十字を切って施される優しい口付けを、唇を噛みながら受け入れる。
 中心に戻って止まる山下の唇を、少しだけ見つめた後、目を閉じた。
 ゆっくりと唇が重ねられ、知らず知らずのうちに息を止めていた。だから山下が口元で囁く。
「晴香、息を止めないで……」
 小さな音を立てて唇が離れ、そしてまた重ね合う。ゆっくりとそれを繰り返しながら、山下は囁く。
「歌うときみたいに、唇が離れたら、ブレス」
『お? おぉ!』

 足の痛みで目が覚めた。どうやら私は、柄にもなく泣き疲れ、キスの途中で眠りこけたらしい。
 相変わらずうつ伏せに突っ伏して、山下が静かな寝息を立てていた。
 時計の針は、まだ今日を差している。それでも後、一時間程で明日に変わる。
 ゆっくりと身を起こし、心拍に合わせズキズキと痛む足を摩る。
 願いは叶えられたと思っていた。けれど声も戻らなければ、足の痛みは酷くなる一方だ。
 山下が、もぞと動き、寝返りを打つことなく腕の位置を変えた。
 閉じられた瞼に掛かる前髪を、指でそっと払い、山下を見下ろしながら想いに耽る。

 この男は沢山のものを私に呉れた。けれど私は、この男に何が返せるだろう。
 これからも、声は出ず足は動かず、この男に迷惑を掛け続けて生きていくのだろうか。
 それは嫌だ。それはできない。この男は幸せになる権利がある。否、幸せになって欲しいんだ。
 もう充分だ。こんな私を好きだと言ってくれた、それだけで充分だ。
 消えよう。まだ歩けるうちに。今度こそ、この男を解放しなければ。
 あぁ、お母さん。私も人魚姫のお話が大好きです――

 辛うじて、左足にもまだ感覚がある。右足は、痛むけれどちゃんと動く。
 最後の歩行。そんなことを考えたら、可笑しな笑いが込み上げた。
 さて、これから私はどうするか。とりあえず、少しの間だけ嶋田の厄介になろう。そうだ私は厄介者だと、偉そうに踏ん反り返って度肝を抜いてやろう。
 仕事を探さなければな。きっとまた、酷い雷が嶋田から齎されるだろう。そうしたらどうしようか、お前の言う通り手を伸ばしたけれど、届かなかったじゃないかと文句を言うか。
 偶には泣いて甘えてみるか。それなら嶋田も、きっと許してくれるだろう。

 玄関へ続く扉に手を掛けたときだった。取っ手に掛けられた私の手に、重ねられる温かな手。
「何処へ行くの? 俺を置いて」
 取っ手の代わりに、自分の手を握らせる山下の姿が、暗澹たる部屋の中に浮かび上がる。
「どうやったら解ってくれる? 晴香が居なきゃ意味がないって……」
 息を呑む私を余所に、この暗闇の中、迷うことなく唇が重ねられた。
 そして、着込んだ上着のボタンに手を掛けながら、淡々と告げる。
「知ってた? 幼い人魚はね、自分を見た人間の心を奪うんだよ」

 何故突然、山下はこんな話をしだすのだろう。
「心奪われた人間は、何をやっても満たされず、幸せにはなれない」
 これは多分、人魚の呪いの話だ。私が、あの異質な男子に掛けてしまった呪いの話だ。
 どうしてこの話を、山下が……
 上着が衣擦れの音を鳴らして床へ落ちる。それでも山下の手は、未だ私のボタンに掛かる。
「だけど一つだけ、その呪いを解く方法がある。人間に生まれ変わったその人魚を探し出し、一生傍に居ればいい」

 引き寄せるように私の腰を抱き、吸い付くように覆う唇。
 その片手間で、寝衣のボタンが外されていく。
「元々、その人魚に心を奪われてるんだ。そいつは、その人魚しか愛せない……」
 最後までボタンを外すことなく、山下の手は私の襟元を撫でる。
 両肩から寝衣が滑り落ち、胸の谷間ぎりぎりでそれは止まった。
「嶋田さんから聞いたんだ。俺の見た人魚は、晴香だろ?」

 全ての動きを止めて、山下が私の目を覗きこむ。
 瞬きすることも忘れ、山下の瞳に吸い込まれていた。似ていて当然だ。碧海の中でも判る。
 忘れられない。この真っ直ぐな瞳に私は射られた。
「離さない。晴香が居なければ、俺は満たされない」
 温かな手で両頬を包まれた。ゆっくりと瞳が近づいてくる。それでも目を逸らせない。
「覚悟して。晴香は俺を、好きだって言ったよ」
 息が止まるほどきつく抱きしめられ、唇は私の首筋を這う。
 目の前に、もうあの瞳はない。それでも尚、目は見開いたまま天を仰ぐ。

 唇は首筋を辿り、露になった肌を這い、そして鎖骨を挟む。
「選んで晴香。止められなくならないうちに」
 下唇が、産毛を撫で上げるように、そっと胸の谷間を往復する。
「悩んでる暇はないよ。俺は晴香の全部が欲しいから。心も身体も全部」
 駄目だ。全てをこの男に奪われたいと、捧げたいと想ってしまった。
 身も心も全部、持っていかれたいと、心から願ってしまった。
 それでも心は鬩ぎ合う。願って良いのだろうか、傍に居て良いのだろうか、こんな私で……
「晴香、傍に居て…傍に居てくれるだけでいい。ただそれだけで、俺は満たされる」

 心は未だ迷っている。それでも山下に全てを委ねよう。
 この男は、そう簡単に間違った判断を下さない。実直故に、心にもないことを口にもしない。
 私は光が、光の全てが欲しい。だから、その全てを私に注いで欲しい。
 だらしなく垂れ下がっていた腕を動かし、山下の頭を掻き抱いた。
「晴香……」
 胸元で、ただそれだけ呟いた山下は、少し震えながら私を抱き上げる。

 何度この腕に、この胸に抱かれベッドへ運ばれただろう。
 それでもこれは意味が違う。多分これから私は、本物の光を手に入れる。
 私の光は、掴むことができるのだから。この手に抱くことができるのだから。

 いつまでも続く五月雨のように、優しく温かい唇が私の元へ降り注ぐ。
 つと、唇が離れたとき、歌うように息を吸い込めば良い。
 上手く呼吸ができたと満足気に笑みを浮かべれば、私を見下ろす山下の巧笑が漏れる。
 それでも、絹のように滑らかな舌が滑り込んでくると、忽ち余裕を失くして身体が固まった。
「晴香、舌の喧嘩だよ。どっちが強いか、舌で戦うの」
 おどけた口調からして、本来の意味合いは違うのだろう。それでも何か納得するものがある。
 舌の攻防戦だ。掬い、絡ませ、吸い上げ、どちらが先に屈するか、熾烈な争いをするんだ。
 けれど、まだ私には無理そうだ。舌が触れ合うだけで、身体はびくっと飛び跳ねる。

 この男は、その微笑みで私が蕩けそうになると、知っているのだろうか。
 恥らうことなど何もないのに、その微笑みを見ると、思わず唇を噛み締めたくなる。
 そんな私を見て山下がまた微笑むから、また私は唇を噛むの繰り返しだ。
 胸の律動が早過ぎて、呼吸が追いつかずに息苦しい。
 裸なら、皓々とした光の下で何度も見られているのに、今の方が恥ずかしくて堪らない。
 山下の眼差しが違う。触れ方が違う。ただそれだけで、身体が熱を帯びる。

 外側から包み込むように、山下の掌が私の胸を覆う。
 高鳴り続ける鼓動に気づかれそうで、胸を腕で隠してしまいたい。
 混乱し、そうやって本当に動き出した腕を、山下の両手が阻む。
 指と指を絡ませ、繋ぎ合わせた手を、そっとマットの上に縫いつけられた。
 感情が昂ぶり、既に盛り上がり始めた乳首を口に含まれ、不穏な身体に漣が立つ。
 鋭い吸気とともに頭が仰け反り、繋ぎ合わせた手を強く握り締めた。

 山下から齎される逆巻く快意を、どう表現したら良いのか解らない。
 声は出ない。そう解っていても、歯を食いしばらなければ、声の塊が飛び出しそうだ。
 これはもう、私の知っている自分の身体ではない。
 制御することができず、勝手に跳ね、弾け、仰け反り、そして震え続ける。
 気が狂いそうだ。訳の分からない激流に呑み込まれそうで、堪らなく怖い。
 抱きしめて欲しい。微笑んで欲しい。大丈夫だと囁いて欲しい……

「晴香? 晴香、大丈夫だよ…大丈夫。……怖い? やめようか」
 温かな肌が重ねられ、私の髪を梳きながら、大好きな微笑みを浮かべて山下が囁く。
 どうしてこの男はこうやって、私の欲しいもの全てを与えてくれるのだろう。
 いつもそうだ。いつだってそうだ。そして必ず、私に選択肢を与えてくれるんだ。
 溢れ止まないほど愛しい。やめない。やめたくない。私は光が欲しいから。
 心も身体も何もかも、どうか貴方の色で満たして欲しい。

 絶対に離すものかとばかりに抱きついて、大好きな馥郁の香りを放つ首筋に顔を埋めた。
「そんなにくっついたら、バレちゃうよ。凄く震えてるんだ。心臓が口から飛び出そう」
 不思議なその言葉に、埋めた場所から顔を上げて、山下の瞳を覗き込む。
「晴香を壊しちゃいそうで怖い。嫌われそうで怖い」
 自分が震えているのだと思っていた。どきどきも、震えも、自分だけのものなのだと。
 だから、同じだったのだと知って、張り詰めていたものが徐々に弛んでいく。

『好きです。大好きです……』
 山下の頬に手を当て、問われたわけでもないのに、そんな言葉が口を吐いた。
 声はない。それでも想いは届く。
 山下の顔が苦しそうに歪む。好きは愛という音に変わり、震える声がそれを運ぶ。
「愛してる…愛…してるよ、晴香」

 ゆっくりと、ゆっくりと繋がっていく。山下の熱いものが私の中へ沈んでいく。
 破瓜の痛みは強く激しく、細々に千切れて、粉々に砕けてしまう気さえした。
 それでも、痛みより悦びの方が遥かに勝る。
 私は光を掴んだ。光を抱きしめた。そして、光を手に入れた――

 碧き神秘な世界を、ただ一人漂っていた。
 肌に纏わりつく長い髪と、くぐもる世界の音に、濁った視界。
 息苦しさを感じながら、どこまでも続く深い底へ止まることなく墜ちていく。
 淡かった碧海は、いつしか濃く蒼く深まるけれど、私の周りだけは眩い光が射していた。
 光に包まれ、つややかな円柱を伝い、彫刻の施された壁を擦り抜け、老婆の待つ部屋へ向かう。

 光の中央に、藍色のヴェールを被った老婆が揺らめいている。
 老婆は私の姿を見て取ると、口元で優弧を描き、にと笑う。

『お前の本当の願いが叶ったようだね。ならば約束通り、声と足を返そう』

 老婆は懐から二つの小瓶を取り出すと、私へ向かってそれを放る。
 小さな泡を伴って、重力に負けることなくゆっくりと、二つの小瓶が私の手中に納まった。
 両手のひらで包み込んだ小瓶を見下ろして、解せない想いを呟く。

『これでは、貴女に何一つ得がない』

 私の言葉は泡となり、口元を旅立った瞬間、弾け消えた。
 それでも老婆は、ゆったりと首を横に振り、口を閉じたまま優しく語る。

『いや、私は、一番の願いが叶ったがね?』

 老婆が、顔を覆う藍色のヴェールを捲る。
 小さな泡を吐き出しながら、揺らめく老婆の素顔を見やり、そこで泡が消えた。

『お、お祖母ちゃん……』

 髪が波打つ。視界が狭まる。世界が揺れる。
 頭上から段々と淡い碧さが戻り、夜の終わりを告げ始めた。
 夜が終わる。それは、夢が終わりを迎えるとき。

『全く、あんたは最期まで厄介者だよ。幸せになんなさい。お母さんの分まで……』

 眩い光の中に、老婆が消えてゆく。
 まるで光と同化するように、溶けるように消えてゆく。

『お祖母ちゃん! お祖母ちゃん!』

 老婆を追いかけ、懸命に手を伸ばすけれど、私の光がそれを拒む。
 これ以上、追いかけてはいけないと、私の前に立ち開かる。
 そして、私の名を何度も呼んだ――

『…晴…香、…晴香』


 身体を揺さぶられ、夢から覚めた。
 ベッド脇の小さな照明が、橙色の優しい光を放ち、私の髪を梳く山下の姿が目に入る。
 けれど山下は、少し悲しげな微笑を浮かべ、思わぬ言葉を口にした。
「晴香、嶋田さんから電話……」

 声の出ない私に、嶋田が電話を寄越すとは思わなかった。
 起き抜けで、今が何時なのか解らないけれど、外の暗さからしてまだ陽は昇っていないだろう。
 それでも、山下から渡された携帯を握り締め、そっと耳に当てた。

「晴香か? 今し方、紀伊のお祖母さんが亡くなったそうだ――」

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