シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 19 (最終話、原作/OVA準拠編)

 ヤンは確かに、予定よりもずっと早くイゼルローンへ戻って来た。
 物言わぬ、冷たい死体になって。
 血だまりの中にひたり、掌はべったりと血に汚れ、止血のために自分で縛ったらしいスカーフもすべて真っ赤に染まり、ヤンのその姿を見た瞬間、シェーンコップは自分の血が凍るのを感じた。
 ヤンの血を止められなかった、自分のスカーフ。その場にあっても、ヤンを助けることのできなかった自分。
 足元からすべてが消えた。世界はすべて灰色に塗り潰され、時折視界をよぎるのは、ヤンの流した血の色の赤だけだ。自分が、歩いているのか息をしているのか誰かと話をしているのか、明確に知覚できず、動いて聞こえるのは、ぱきぱきと自分の身内で割れる、凍った血の音だけだった。
 ヤンは死んだ。腿に空いた小さな穴が、大動脈を裂き、流した自分の血に溺れるように、ヤンは死んだ。
 乾いて、色のない皮膚。動かないまぶた。きちんと軍服を着せられ、そうすればまるでちょっと眠っているだけのような、疲れ切った寝顔と誤解する自分を嘲笑う余裕が、シェーンコップにはまだない。
 世界など滅びろと、吐き捨てるように思った。ヤンが必死に救おうとして、そしてヤンをこんな風に見殺しにした世界を、シェーンコップは心の底から憎んだ。
 怒りと呼ぶことすら足りない、憤怒の感情。凍りついた血管の中を、ざりざりとシェーンコップの身内を削りながら流れてゆくそれ。真空になった自分の体の中を、冷たい溶岩のようなそれだけが満たしている。
 シェーンコップは、何もかもを憎んでいる。同盟も、帝国も、民主主義も専制政治も、政治家も軍人も、軍服もベレー帽も、階級章も腕章も、傷だらけになっても丁寧に磨いて来たブーツも、錆などひと筋もつかせないように誇りを持って手入れして来た戦斧も、ヤンひとりを守れなかったこの世界の、何もかもを、シェーンコップは腹の底の底から今憎んでいる。
 そうして、何よりも、自分自身を。血を流して死んでゆくヤンの元へ、駆けつけられなかった自分を。ヤンをひとり、薄暗い艦内のどこかで、誰に看取られることもなく、手を取られることもなく、孤独に逝かせてしまった自分自身を、シェーンコップは今誰よりも何よりも憎んでいる。
 護ると、誓ったのではなかったのか。盾になる自分の身など惜しくないと、そう繰り返し思ったのではなかったのか。忠実な犬だと、高く頭を上げて胸を張って言ったくせに、主人の最期を守れも、看取りもできずに、なぜ自分はのうのうと今ここで生きて、息をしているのか。
 何のために、一体何のために、自分は今までヤンの傍らにあったのか。ヤンを護るためと、それだけが自分の生き甲斐で死に甲斐なのだと、言わずにヤンに誓い続けて、結果がこれか。結局何も果たせずに、自分の主人であり、自分の還る場所であり、自分の死に場所であり、自分の、繋がってひとつになってしまった魂の片割れのこの男の、死に顔を黙って見下ろすしかできないのか。
 ヤンの流した血の匂い。シェーンコップの全身にはそれがまといつき、染み付き、洗っても洗っても落ちないその匂いを、もうシェーンコップは自身の匂いのように、消したいのかこのままにしておきたいのか分からずに、まるでそれがヤンの形見のように、シェーンコップは誰にも見せずに自分の肩を抱く。
 そうして、なぜ、と思う。なぜひとりで、こんな風に逝ってしまったのかと。自分を置いて。自分に、守らせてもくれずに、勝手にひとり先に逝ってしまったのか。
 ヤンの死に顔を隠すように、シェーンコップはカプセルの上からそこに掌を広げた。
 時間を見つけては、シェーンコップはヤン──の安置された遺体──に会いに来る。今では、不眠はシェーンコップの、歓迎されざる友であり、それには酒も効いた試しがない。
 浅い眠りに訪れる、真っ赤な悪夢。人を殺し続け、その誰もがヤンに見える、血まみれの夢。
 導眠剤を飲んでたんだそうだ。薬でぼうっとして、何が起こってるのかも分からなかったのかもな。
 キャゼルヌが、まったくあいつは最後まで、と付け加えて、できるだけ軽く言おうとした声の最後を詰まらせた。それを聞いて、シェーンコップは喉を塞がれた息苦しさに、言葉を失ってそこへ立ち尽くした。
 自分がいれば、ヤンはそんなものを使って眠ろうとする必要はなかった。自分がいたなら、ただヤンの肩へ腕を巻くだけで、安らかな眠りを約束できた。
 ヤンが眠りたいと言った。シェーンコップはそれに手を貸した。ヤンを眠らせながら、自分も、信じられないほど安らかに眠ることができたのだと、今になって気づく。
 互いのぬくもり。穏やかな、静かな眠りを欲していたのはヤンだけではなかった。それが必要だったのは、シェーンコップも同じだった。
 ヤンを喪って、シェーンコップはその眠りを失い、今はシェーンコップが、ヤンの眠れない夜を我が身に引き取っている。
 眠りの訪れない重苦しい頭の中に、ヤンの血まみれの死に顔が重なり、シェーンコップのすべてはそれで埋め尽くされ、血の混じった疲労の泥まみれの脳が、ひと時の休息も得られずに朝を迎えて、その泥が全身すべてを満たすのに、それを取り除く術も疲れ切った脳では思いつけない。
 ヤンはもう、目覚めることのない眠りを眠り、シェーンコップは悪夢のない眠りを求めている。失って初めて、それがどれほど大切か思い知る。
 眠りたいと、シェーンコップは思った。ヤンの傍らで、目覚める明日のことを少しだけ考えながら、そこでだけは様々な煩いを忘れられるはずの、安らかな眠りが欲しいと思った。
 ヤンだけが与えてくれる、その安らぎ。自分がヤンに与えていたと思っていたそれを、自分はヤンから与えられていたのだと、失って気づく自分の愚かしさ。
 自分は何も分かっていなかったのだ。何もかも遅過ぎた。もっと、伝えたいこと、聞きたいことは山ほどあった。いつか言おうと、そう思っていた何もかもがただ無駄になる。
 明日があると思い込めたのは、ヤンとの"今"が穏やか過ぎたからだ。死ぬなら自分だ、そしてヤンの傍にいれば、きっと長生きできるだろうと冗談交じりに考えていた自分は、今手ひどいしっぺ返しを食らっている。
 「貴方は、ひどい人だ。」
 つぶやきながら、唇が苦笑にねじ曲がっている。自分を嘲笑う気持ちもこめて、シェーンコップやカプセルの上に広げた掌を動かし、まるでヤンの頬を撫でているような仕草をする。そうしながら、もう一方の手は首に巻いたスカーフに触れ、それは誰も知らなかったけれど、ヤンが取り替え、残して行ったスカーフだった。
 そしてもうひとつ、近頃はもう上着のポケットに入れたままの、折りたたんだ紙。掌をそこへ乗せると、かさかさと乾いた音を立てる、ヤンが、シェーンコップに乞われて自分の名を書いた、あの紙。
 何度も開いて眺めて元通り折りたたんで、そうし続けて、端は曲がり、折り目は少し黄ばみ、乱暴にすればそこから裂けてしまいそうに、それを、シェーンコップは握れば壊れるガラス細工のように扱う。
 ヤンの書いた字。ヤンの手指がペンを握り、そこへ表した線。ヤンがいたと言うあかし。シェーンコップは、肩の触れる近さで、その字を書くヤンを見ていた。
 生きていたヤン。そして今ここで、死んでいるヤン。ヤンはふたつに引き裂かれ、その間にシェーンコップは立ち尽くしている。
 ろくでなし、と唇が形を作る。それはひとり先に逝ったヤンに向けたようにも、ヤンをひとりで逝かせた自分に向かってのようにも、どちらにも取れる、そんな響きだった。
 ヤンは眠っている。この世では二度と目覚めることはない。悪夢もないのだろう、きっと。
 「まったく、羨ましい限りですな、閣下。」
 また今夜も、どうせ眠れないのだと決めつけて、シェーンコップはヤンの死に顔を見守っている。1日過ぎれば、1日死に近づく自分の何もかも、すべて手応えはなく、時間はただ、放っておいて冷めたコーヒーほども意味は持たない。
 シェーンコップは、自分の愛した──愛する──稀代のろくでなしへ向かって、虚ろに微笑み続けている。
 ヤンに触れられない指先は、襟元のスカーフに触れたままだった。


 ああ、久しぶりだとシェーンコップは思った。ゆっくりと訪れて来た眠気。体と足の運びを重くし、まぶたも半ば落ちて、それを元に戻す力がなく、シェーンコップは血を流しながら目の前の階段を上がる。
 この全身に掛かる重みは、自分が殺して来た者たちの魂の重みだろうか。引きずられれば、ゆく先は地獄か。
 そう思って、シェーンコップの口元に笑みが浮かぶ。
 よしてくれ、俺が行くのはあの人のいるところだ。あの人が地獄にいるわけはないんだ。
 シェーンコップは階段を上がる。1歩1歩、血の足跡を残しながら、生きたあかしにしては物騒なその痕跡を、シェーンコップはやっと足を止めたそこで、振り返り、確かめる。
 血だまりに坐り込む。落ちる肩の上で、頭がひどく重い。眠い、眠くてたまらない。こんな強烈な眠気は、一体いつ以来だ。少なくとも1年、最後にヤンと、安らかに眠ったのはいつだったろう。
 提督。ヤン提督──。
 背中と口元へ流れる血。舌を動かすと鉄の味が喉へ流れ込み、咳き込みそうになっても、もうその力も残ってはいなかった。
 眠気。睡魔がすぐ目の前でダンスを踊っている。ああ、久しぶりだ。
 眠りと言う友と袂を分かって1年、長い1年だった。やっと眠れる。恐らくもう、目覚めることはない。目覚める必要はない。ヤンの傍らで眠った同じ眠りを、シェーンコップは永遠に眠るだろう。
 ぐっすり眠りたかった。夢のない、静かな眠りへ落ち、そこへ横たわり、あらゆる煩いを置き去りにして、もうシェーンコップが想うのはヤンのことだけだ。
 会いたいと、そう思い続けた1年が、ようやく報われる。そのはずだ。ヤンの差し出す腕、その中へ倒れ込んで、何も考えずに眠ればいい。
 眠れない夜に、ヤンとの記憶をひとつびとつ数え続けた1年。
 派手に仕立てた舞台で、随分とつまらない死に方だけれど、揃えたつもりもなくヤンの間の抜けた逝き方と似たり寄ったりでいいじゃないかと、シェーンコップは心の中でひとり喝采している。
 これから、足をもつれさせるようにしながら、ヤンに会いにゆくのだ。眠りたいんだと、そう言ったヤンのそのままを口移しにして、眠らせてくれと、シェーンコップはヤンに言いにゆくのだ。
 貴方はひどい人だ。私を置き去りにして。こんなに主人思いの犬を、捨て置いたままにして。だからこれは罰だ。貴方はこれから、ずっと私を傍に置いて、もうどこにも行かないと、絶対に私を捨てたりしないと誓い続けることになる。貴方の都合など、犬の知ったことじゃない。貴方は犬の頭を撫でて、いい子だと言い続けることになる。
 そうだ、犬はいい子だった。飼い主のいない1年を、確かに耐えたのだから。
 ろくでなしの飼い主を、犬は寛大に許すのだ。許して、そうしてもう、飼い主の許を絶対に離れることはない。
 私の飼い主は、貴方だけだ、ヤン提督。
 狭まる視界に、シェーンコップは自分を恐怖の表情で見上げる敵の姿を見、次第に遠くなる音の中に、シェーンコップは確かに、自分を迎えに来たヤンの声を聞いた。ヤンのあたたかな掌が、肩に触れるのを感じた。
 おいで、シェーンコップ、わたしの犬。
 血まみれの口元で、シェーンコップは微笑み、そうしてそれきり、彼の時間は動きを止めた。


 信じられないほど安らかな死に顔で逝ったその男の傍らに、黒髪の人影を見たと、その場にいた数人がした証言は、けれど公式の書類からは削除され、その真偽を確かめる術はなく、証人たちももうこの世には残っていない。

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