シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 19 (最終話、捏造生存編)

 どれだけ願っても、届かない祈りはある。血を吐くほど努力をしようと、無駄に終わるのが人生だ。それを知り尽くして尚、シェーンコップは今、必死でヤンの腿からの出血を止めようとしていた。
 おまえらなんぞに、ヤン提督を殺させてたまるか。
 心の中で叫ぶ。
 ヤンには、もう少しましな死に方がふさわしい。訪れた平和を安逸に貪って、あまりの長閑なだらしなさに周囲を小言を言われるような人生を長々と送った後に、彼を慕う人たちに囲まれて、眠るように穏やかに逝く、ヤンにふさわしいのはそんな死に方だ。
 こんな、薄暗い艦隊の通路の隅で、自分の血だまりにひたって死ぬなど、ヤンには絶対にふさわしくはない。
 ユリアンに切って来させた、帝国軍の軍服のベルトをヤンの肉の薄い腿へ食い込ませて、そこから腐って落ちるならそれでもいい、脚が1本失くなろうと、助かればいいんだと、物騒なことを考えながら、シェーンコップは止血に必死だった。
 ヤンの全身をひたした血の量はすでに致死に十分な量に見えたけれど、ヤンはまだ薄目を開けて、瞳を動かして、自分を救おうとしているシェーンコップやユリアンを確かに認めている。
 まだ大丈夫だ。望みはある。シェーンコップは自分に言い聞かせるようにまた思った。
 ユリアンは励ますようにヤンの手を取り、ヤンの血の気のない顔を覗き込み、大丈夫ですよ提督、大丈夫ですから、と震える声で繰り返している。
 息をしているのかどうか、定かではない青白い唇が動き、スカーフを取り去った首が細かく痙攣するのが見える。眠たげに落ちかけたまぶたの向こうで、今いる薄闇よりもさらに濃い、今は不安になるような闇色の目が、ゆっくりと左右に動いてシェーンコップで止まる。
 「・・・シェーンコップ・・・。」
 弱々しい、息ばかりの声で名前を呼ばれ、ベルトを締め上げる手を止めずに、シェーンコップはヤンの方へ、今は赤みを増した灰褐色の瞳を動かした。
 「もう、いい・・・」
 真っ赤に染まった、ヤンが自分でそこに巻いたスカーフを押さえているシェーンコップの手へ、のろのろと自分の手を添えようとして来る。
 「無理しなくていい・・・わたしはもう、助からないから・・・」
 「ヤン提督!」
 ユリアンがその弱気──あるいは、単なる現実──を制するように叫んで、さらに近く顔を寄せた。
 ヤンの言葉に取り合わず、シェーンコップはまだ流れ続けている血へ向かって舌打ちをし、まさか自分の手をヤンの血で染めることになるとはと、忌々しげに思うのが現実逃避だと言う自覚もない。
 そこに巻かれているのが自分のスカーフで、それでは血は止まらないと言う事態に、恐ろしいほど皮肉を感じて、これは自分に対する罰かと、いっそう強くヤンの傷へ強く掌を押し付ける。
 「・・・シェーンコップ・・・。」
 まだ感じる痛みにかすかに眉を寄せ、ヤンは持ち上げた腕の先で、シェーンコップへ触れて来る。苦しげに、呼吸すらもう喉を行き来させる力もなさそうに、
 「もう、いい──」
 ヤンには決して見せたことのない形相で、シェーンコップは突然大声を出した。
 「うるさい!黙ってろ!」
 倍の数の敵へ向かってゆく時でさえ余裕を失わないシェーンコップは、今はその余裕とやらのひとかけらもなく、消えかけているヤンの命に、ヤン自身がもう執着を捨て掛けているのに、文字通り鬼の形相で憤怒を露わにした。
 自分の声の大きさに自分で驚いて、シェーンコップは震える声を必死で抑える。抑えたところで、消える激情ではなかったけれど。
 「──黙ってろ。勝手に逝っても、俺が必ず引きずり戻す。絶対にだ。」
 死に掛けているヤンを目の前に、シェーンコップは我を失っていた。こんな態度に、ユリアンが驚いて、ヤンよりもシェーンコップを見つめて、動揺と混乱と焦燥の上に、ゆっくりと恐怖の色が浮かんで来るのを確かに見た。
 「中将・・・。」
 ユリアンのつぶやきを聞き取り損ねたまま、シェーンコップは自分に触れたヤンの手を取り、握りしめ、食い縛った歯列の間から絞り出すようにヤンの名を呼んで、
 「行くな。まだ、行くな。」
 声が必死に抑えた激情に震えてかすれて、シェーンコップの目にはもうヤンしか映らず、ヤンはそのシェーンコップを力なく見つめていたけれど、どういうつもりだったのかもう半分閉じ掛けている目をさらに細めて、ごく淡い笑みを浮かべる。
 ユリアンがその笑みに励まされたように、ヤンの上へ再び覆いかぶさるようにしながら、ヤンの名を大声で叫んだ。
 「まだです、提督、まだです!諦めないで下さい!」
 ヤンは声の方へ顔を傾け、ユリアンを見て今度ははっきりと分かるように微笑むと、やれやれと言うように眉をわずかに上げた。
 「・・・畜生。」
 血が止まったのが、止血のためかそれとももう流れる血がないからなのか、シェーンコップはついに傷口から手を離し、すくい上げるように、両腕の上にヤンを抱え上げる。
 「運ぶぞ。先にユリシーズに行って、輸血の準備をさせろ!」
 後ろで成り行きを見守っていたマシュンゴに、シェーンコップは怒鳴って指示を与え、長身がさっと走り出すのを見てから、ユリアンへ向かってあごを振り、自分の前へ行かせて、シェーンコップはヤンを抱えてユリシーズへ急ぐ。
 下目に、ヤンのまぶたが震えているのを確かめながら、ヤンがまだ自分と共にいることを何度も何度も確認した。
 まだだ。流れた血の分、軽くなっているはずのヤンを運びながら、何か励ます言葉でも掛けようと思うのに、食い縛った歯列を少しでもゆるめれば、そこから漏れるのは呻く声だけで、まだだ、大丈夫だと頭の中でユリアンがそう言った同じように繰り返すのは、ヤンに向かってではなく自分に向かってだった。
 何も信じられない。自分の思うことも、こんな時に祈るべき神とやらも、前を走るユリアンが時々振り返りながら、提督、もうすぐですからと叫ぶのも、そして己れが振り続けて来た、刃こぼれひとつない、鏡のように磨き込んだ戦斧も。
 人殺しには、命を救う力はないのか。ヤンのために敵を殺し続けて、積み重ねた屍の高さも、ただ無力を露呈するだけなのか。
 何もかもだ。何もかも、シェーンコップのして来た何もかも、それはすべてヤンのためだった。ヤンを生かせば、死なずにすむ人間の数が増える。敵にせよ味方にせよ、ヤンは無駄に死者の数を増やすことを好まなかったし、ヤンに命じられて人を殺して戻って来るシェーンコップたちを、ヤンは、まるで自分がその手を血に染めたように、やるせなく見つめたものだった。
 ヤンの殺意ではない。シェーンコップの殺意でもない。ヤンに命じる誰かさえ、殺意など存在はせず、それが戦争なのだと、互いに、行き場もない感情を視線で交わすだけだ。
 そして今、誰かの殺意によって、ヤンは死に掛けている。誰だ。誰が提督を殺そうとした。提督が邪魔なら、目に入らないところへ行け。そして自分たちで殺し合え。殺すならもっとましな、英雄に相応しい死を用意しろ。そうしたら、俺が相手をしてやる。ヤン提督に届く前に、俺が全部皆殺しにしてやる。ひとりひとり、全部俺が相手をしてやる。丁寧にひとりひとり、心を込めて殺してやる。提督を殺す気なら、まず俺を殺せ。俺を殺してみろ。ヤン提督を殺すなら、もっと、もっと──
 さすがに重みにだるくなった腕を、一瞬足を止めて、その上に改めてヤンの体を揺すり上げる。弾みで、胸から落ちたヤンの腕が、のろのろと、けれど自力で元の位置へ戻り、そこからさらに動いて、シェーンコップの胸に触れて来た。
 「シェン・・・」
 声には、さらに息が多く混じり、その近さでなければ呼ばれたとも聞き取れなかったろう。
 「提督。」
 また足を早めながら、シェーンコップはやっと声を返した。
 ヤンの目が開き、もう一度、シェン、と短く切って呼んだのが、ふたりの時だけのあの呼び方だったのか、呼吸が続かないだけだったのか、シェーンコップには分からない。
 ユリシーズからは、すでに移動式のベッドが出され、そう言った通り輸血の用意をした軍医と看護兵が、ヤンの到着を待っていた。
 紙のように白いヤンの顔色へ、軍医が顔を歪め、
 「全力は尽くします。」
 後は振り返りもせずに、ヤンを中へ運んでゆく。
 「お前さんも一緒に行け。提督を死なせるな、絶対にだ。」
 ユリアンにその後を追うように指示すると、ユリアンは驚いてシェーンコップを見つめてから、一緒には来ないのかと、養父そっくりの切なそうな目をして、
 「提督は死なせません、絶対にです。では。」
 こんな時にふさわしいのかそうではないのか、切れるような鋭い敬礼をして、ユリアンも姿を消した。
 数分足らずでユリシーズが発進した振動があり、シェーンコップはやっと足元へ大きく息を吐いた。
 その場に残ったマシュンゴに、行くぞとあごをしゃくり、歩き出した途端、ぐらりと足元が揺れる。みっともなく倒れて、マシュンゴが助けに腕を引き上げて来るより先に、シェーンコップは呆然としながらもまだふらつく足で自力で立ち上がっていた。
 壁に手をつき、ヤンの重みで半ばしびれたままの腕を肩から眺めて、そうして、壁についた自分の真っ赤な手形が、ヤンの血だと気がついてから、その手形を作った拳で、壁に穴の開くほど強く殴った。
 「クソったれども!」
 思わず帝国語で罵ったのが、正確に誰のことなのか、シェーンコップにも分からなかった。ヤンを殺そうとした連中のことには間違いなかった。そして同時に、そこに、間に合わなかった自分への呪詛も含まれていることに気づくと、顔なしの彼らよりも、自分への怒りが募り、全身から血の噴き出すような激情が改めて血管を沸騰させ、真っ赤に染まる視界が、自分の怒りの血のせいか、ヤンの流した血のせいか、あるいは憤怒を通り越して、今自分は血の涙を流しているのかもしれないと、シェーンコップは思った。
 「行きましょう、敵の生き残りの確認をしなければ。」
 マシュンゴが、上官の肩へそっと触れる。代わりに運んで来ていたシェーンコップの戦斧を、恐る恐ると言う風に差し出して来るのに、シェーンコップはヤンの血のまだ乾かない手で受け取り、命を奪う武器の軽さと、抱いて運んだヤンの死に掛けの重さと、様々のことが一度に頭の中に押し寄せ、混乱したまま、今はマシュンゴの促す通りに足を前に出すだけだった。


 ユリシーズに遅れること数時間、シェーンコップたちはできる処置をすべて済ませ、ヤン暗殺未遂の現場を後にした。
 シェーンコップたちの手に掛からなかった敵は全員服毒自殺を図り、彼らが帝国軍人を装った地球教徒だと判明すると、明確になった敵の正体へ全員の怒りが真っ直ぐに向き、今すぐにでも奴らの残党を探しに行こうと勝手に早る部下たちを、今は逆に冷静になったシェーンコップがなだめて、まずはイゼルローンへの帰路を急ぐ。
 パトリチェフは残念ながらレダU内で発見時にはすでに死亡、スールは幸いに比較的軽傷で、ヤン同様出血のひどかったブルームハルトは、元々の頑健さのおかげか、話のできる程度で生き延びていた。
 「ヤン提督は──?」
 真っ先に訊くのは、警護のためにその場にいたと言う立場上当然ではあったけれど、自分もまだ安定している状態ではないのにと、シェーンコップは年若い部下へ薄く苦笑いを向けて、子どもにでもするように頭を撫でてやった。
 「ユリシーズに渡した時には生きていた。大丈夫だろう、散々俺たちを救って来た人だ、悪運は強いはずだ。」
 「少々要領が悪くても、魔術師ヤンですもんね。あの人が生きていないと、これから先が面白くないですからね。」
 無理に笑って見せると傷が痛むのか、眉を寄せてうめくのに、シェーンコップは無理をするな、ゆっくり休めと言い置いてからブルームハルトの傍を離れた。
 装甲服のままのせいで、まだ血の匂いがする。浴びた敵の血ではなく、ヤンの血の匂いだ。消し去りたいような、このまままとい続けていたいような、どちらとも決められずに、誰もいない狭い通路で、シェーンコップは再び壁を拳で殴りつける。
 恐らく今、全速力でイゼルローンへ向かっているユリシーズへは、この暗殺計画のために故意にまかれたらしい妨害電波の影響がまだ残り、連絡は入れられずにいる。ヤンが無事なのかどうか、手当ては間に合ったのか、それとも手遅れだったのか、イゼルローンに戻るまでは分からないだろう。焦燥ばかりが先に立つ。誰もいないところで歯を食い縛り、シェーンコップは喚き散らしたいのを必死で耐えた。
 後始末を終える前に、シェーンコップはレダU内の、ヤンへ割り当てられていた部屋へ行き、ヤン暗殺のためにそこへ真っ直ぐ向かった敵がまだ残っているかもしれないと言う理由で、部屋の中を探索した。
 開けっ放しのスーツケース、起き出してそのままのベッド、出る時に消し忘れたらしいランプの明かり、脱ぎ捨てたパジャマ、いかにもヤンらしい乱雑な部屋の様子だった。
 読み掛けで置かれた本、そして本の傍らに残された、薬の小さなボトル。ラベルに、導眠剤と書かれているのを読み取って、シェーンコップは新たな怒りでこめかみの辺りへ痛みすら感じ、自分の歯軋りで頭蓋骨が鳴る音を聞いた。
 あちこちにまだ濃く残るヤンの気配へ、一瞬自分がここで何をしているのか、この艦内でさっき何が起こったのか、すべてを忘れそうになって、ヤンの血の匂いすらそこから消え去り、シェーンコップは確かに数秒、少し前の過去へ引き戻されていた。
 自分を見上げて微笑むヤン、血の色のきちんとある唇、あちこち好き勝手に跳ねる黒髪へもぐり込む、自分の指先、取り替えた自分のスカーフを巻いた、男のそれにしては細い首──シェーンコップの匂いがあれば眠れると、ヤンはあの時そう言ったのではなかったか。
 眠れずに薬を使い、ぼうっとしたまま、ちゃんと逃げて隠れることもせずに、あの様か。ドジが過ぎる。少々間の抜けたところがあるのは承知の上だが、これはあんまりだ。挙げ句に、もういい、だと。無理をするな、だと。人の気持ちも知らずに、勝手に諦めようとしただと。
 ろくでなしめ。シェーンコップは、悔しさにまた歯噛みする。
 死ぬなど許さない。勝手にひとりで先に逝くなど許さない。虐殺者なら虐殺者らしく、自分だけは最後まで生き残ると、そう胸を張って言え。でなければ、死んで行った者たちが浮かばれない。人殺しなら人殺しらしく、最後まで冷酷に、自分の命にだけは執着しろ。死んでいいのは、俺が護って先に逝った、その後だけだ。俺の死に場所のくせに、先に死ぬなど有り得ない。俺のために生きると言え。俺のために生き延びろ。俺がそうして今生きているように、俺のためにだけ、生きろ。生きてくれ、頼む。
 そう心の中でヤンに向かって叫び続けるのが、ヤンが自分に向かってそう言っているのだと、シェーンコップが感じ続けていたことだった。
 ヤンのために生きるシェーンコップには、これからも生き続けるためにヤンが必要だった。ヤンがいなければ、シェーンコップにはもう生きている理由がない。そして、還る場所もない。
 ヤンを失くせば、シェーンコップにはもう失う何も残っていない。空っぽの自分。喪われた魂。ヤン以外のためには、惜しい命ではない。いつ死んでもいい。けれどシェーンコップが死ぬのは、ヤンを護るためだけだ。今はその時ではない。ヤンを護れなかった自分には、死ぬ資格すら、今はない。
 生きる甲斐もない代わりに、死ぬ甲斐もない。それは困る、と、ヤンの口調そっくりにシェーンコップは思った。
 貴方に死なれては、俺が困る。俺を、捨てないでくれ。こんな風に置き去りにしないでくれ。頼むから、俺をひとりにしないでくれ。何もかもに見捨てられて、ひとりぼっちだった俺を、またひとりぼっちにするのはやめてくれ。
 「ヤン提督・・・。」
 やっと絞り出した声で、ヤンを呼んでいた。届かないその声がひどく震えているのに、泣いているのかもしれないと頬へ触れたけれど、目も頬も乾いたままだ。
 ようやく再びどこへともなく歩き出した時、振り切れた感情は一体どちらへ向かうと脳が判別しかねてか、口元には昏い虚ろな笑みが浮かんで、通り過ぎた部下の敬礼にも、そのぎょっとした驚きの表情にも、シェーンコップは気づかずに肩を落として歩き続ける。


 出血多量による衰弱、低体温のショック、少なくとも出血は止め、輸血はぎりぎりで間に合い、ユリシーズ内で絶命だけは逃れたけれど、完全に危険を脱したわけではないと、シェーンコップはイゼルローンへ戻ってキャゼルヌから説明された。
 「イゼルローンに戻るまでに死ななかったのが奇跡だそうだ。」
 要塞で改めてヤンを引き取った軍医が、容態を何とか安定させてからそう言ったと、キャゼルヌがまだ暗い声で言う。ヤンを真似たように、ヤンの回復を待ちながら酒の量が増えているのか、目元に薄暗い隈が見える。
 ヤンがユリアンの保護者であるように、ヤンの保護者であるキャゼルヌは、ほんとうの家族のようにヤンを心配してうろたえている。それを見るとシェーンコップは逆に冷静になり、自分の動揺はうまく隠して、戻って以来ヤンの傍を片時も離れようとしないユリアンを、穏やかに労ることさえした。
 ブルームハルトは、まだ安静をと言われているにも関わらず、すでにひとりで動き回り始めていて、ずっと微睡んだままのようなヤンを何度も見舞い、顔だけ眺めて自分のベッドへ戻って行くを繰り返している。
 ヤンは死んではいない。少なくとも、まだ。時々目を開け、そこにいるユリアンを認めはして、けれど意識がはっきりした状態が長く続くことはなく、撃たれた傷の回復も遅れていた。
 長い間の不眠を取り戻すように、ヤンは微睡み続け、それも安らかかどうかを知るのは本人だけだ。うなされたり、苦しげな寝言を言ったり、そんなことはないとユリアンは言い、そうかとシェーンコップはうなずくだけだった。
 ヤンを心配する余りに、身近な人々は精神的に疲弊し始め、微睡み続けるヤンとは逆に、皆に不眠が伝染していた。顔を合わせては話すことと言って特に変化のないヤンの容態しかなく、青白い顔のまま意識を漂わせているヤンの運命が、自分たちのこれからに直結すると言う現実に、誰もが暗い気分に陥らずにはいられなかった。
 ひとつだけ幸いと言えば、ヤンの暗殺未遂を知ったカイザー・ラインハルトが、上辺だけではない親身な見舞いと容態伺いの連絡を直接寄越し、ヤンが話ができる程度に回復するまでは会見を無期限に延期すると告げ、暗殺計画の黒幕である地球教の残党については、次はカイザー自身がその標的になるだろうと言う見通しにより、帝国側も彼らの行方の追求探索の手を緩めず、発見次第全力を上げて殲滅に掛かると、そうはっきり宣言した。
 自身の手で連中を追い詰め、皆殺しにしてやりたいと思っているシェーンコップ──だけではない──は、ヤンを放っては今は動けないことを悔しがりはしながら、帝国に本気で追われれば連中も下手に動けもすまいと、ヤンの身辺がしばらくは静かになるだろうことを予想はして、ありがたくも思いはするのだった。
 そうしてある日、ヤンは暗殺未遂の日から初めてはっきりと目を開き、ゆっくりと首を振るように左右に顔を傾けて、そこにいるユリアンへ向かって、確かな声でユリアンを呼んだ。
 ユリアンはたっぷり10分間、ヤンの手を取り、ヤンが自分の手を握り返して来ることを確かめ、ヤンに声を掛け続け、ヤンがまた微睡みの中へ戻ってはしまわないと見届けてから、急いで軍医を呼びにゆく。
 駆けつけて来た軍医は、ヤンの脈が、必死に探らなくても指先に伝わって来るのにやっと安堵の笑みを浮かべて、もう大丈夫だと、嘆息するように言った。
 要塞内が、歓喜の声に湧いた。すでに体力の限界だったユリアンは、キャゼルヌとアッテンボローに強引に自室へ送られ、とにかくまず寝ろとベッドに放り込まれた。
 安心して眠れるのはユリアンだけではなく、人工の夜がたっぷりと更けた頃、随分と久しぶりに人々は、ヤンが死ぬと言う悪夢見ずに眠った。
 シェーンコップはユリアンの代わりにヤンの傍らへいて、寝ずの番はもう必要もなかったけれど、事件以来不眠が根付いてしまったのかどうか眠れる気もせず、レダUから持って戻ったヤンの荷物の中から取って来た本を膝の上に開いていた。
 読むと言うよりも、紙に印刷された文字のインクの盛り上がりを指先で撫でて、ヤンの目がたどっただろうその並びをなぞっているような、そしてゆっくりとページを繰るたびに、恐らくヤンの指先が触れただろう端辺りへ自分の指先を滑らせて、シェーンコップはヤンの読書の様を感じている。
 時々、インクに触れる指はそこから離れ、近頃それが癖になった、襟元のマフラーをいじる。元はヤンのものであるそれを、決して形見になどならないようにと、祈りながらシェーンコップは身に着け続けていた。
 また指先を本に戻すと、無意識に、片手を空けて毛布の下へ滑り込ませ、ヤンの手を握る。意識ははっきりしても、まだ貧血のあるヤンの指先は冷たく、それをあたためるためのようにゆっくりとこすった。
 ページを撫でる指とヤンの指をこする動きが一緒になった時、不意にヤンの指が動いて、シェーンコップの手を握ろうとして来た。
 「提督──? 起こしましたか?」
 触れた指は遠のかせずに、顔を近づけて小声で訊くと、ヤンはシェーンコップへ笑みを向けてゆるく首を振る。
 「・・・君の匂いがしたから・・・。」
 声はまだ細く弱い。
 「コロンは、近頃つけてませんが。」
 深刻そうな表情は向こうへ置いて、シェーンコップも微笑んで見せた。
 「なくても、君の匂いはすぐ分かるよ。」
 それだけしゃべるのに、もう疲れたと言う風にヤンがため息をつき、シェーンコップから手を離してのろのろと毛布から腕を差し出して来る。
 シェーンコップは椅子ごとベッドへ寄って、ヤンの手を自分の頬へ取った。
 「ユリアンは?」
 「今夜は部屋で寝てますよ。今頃は夢の中で、貴方に紅茶でも淹れてるかもしれませんがね。」
 「紅茶か・・・いいな、紅茶が飲みたいな。」
 「ブランデーはしばらく抜きにして下さい。軍医に叱られるのは真っ平だ。」
 消毒薬の匂いのするヤンの掌へ、シェーンコップは唇を寄せる。ヤンはシェーンコップの、少しざらついた頬を撫でて、ひどく安心したような表情をそこに刷いた。
 「君はいつでもあたたかいな。」
 「医者の許可さえ出れば、いつでも貴方の毛布になりますよ。」
 「君と寝てもいいかって訊くのかい? 他に訊くことが山ほどありそうなのに?」
 「医者はその手の質問には慣れてますよ、訊いたって顔色ひとつ変えない方に賭けましょうか。」
 「いいよ、そんな賭け、わたしには分が悪い。医者には君の方が縁がありそうだから。」
 ヤンが目を細めたのは、シェーンコップの体中に残る傷跡のことを思い浮かべたせいだった。しばらく、見ても触れてもいないそれらが急に懐かしくなって、ろくに身動きもしていないせいで何をしても痛む全身でも、シェーンコップに今抱きしめられたいと思う。
 全身が、紙のように薄くもろくなったような気がする。毛布に覆われた自分の体の嵩が、半分になったように見えるのは現実か気のせいか、シェーンコップへ伸ばした腕の皮膚の色がひどく悪いのは、自分でもよく見えた。
 「ほんとうに、死ななかったんだな、わたしは。」
 うつらうつら、不眠の時の浅い眠りとは違う微睡みの中で、何度も何度も恐ろしい昏さの中へ引きずり込まれたのを憶えている。音はなく、見えるものもなく、手足を伸ばせばその昏さの中に飲み込まれ、胴体だけの虫になったようにそこへただ転がり、時間が進んでいるのか戻っているのか、次第に無音の頭が混乱し始めて、思い浮かべるすべてが混沌の中に流れ出して、自分の皮膚の境界が曖昧になった。闇とひとつになり、いや自分は元からこの闇そのものだったのだと思い始める頃、開いた目の中に光が飛び込んで来て、ユリアンの顔が見えた。声が聞こえた。これは夢かと見極めようとすると、再び昏さに引き戻され、混乱が再開する。
 昏さの中で、何度も自分は死んだのだと思った。思って、止血の処置をしていたシェーンコップの、自分を怒鳴る声を思い出していた。
 勝手に死ぬなと言われたのだったろうか。死んだって引きずり戻してやると、シェーンコップはそう言ったろうか。
 それなのに、この闇の中にシェーンコップの姿が見えないのはどういうことだ。死んだ自分を、シェーンコップは追い掛けては来ないのか。死ぬ時はひとりだ。それは知っている。死んでしまえばひとりだ。分かっている。けれど、昏さの中で、闇と溶け合ってしまった自分の傍らに、シェーンコップの匂いもぬくもりもないことが、ヤンには納得が行かなかった。
 いつの間にか、シェーンコップを自分とひと続きのように思って、自分のいるところにはシェーンコップが必ずいるはずだと考え始めていたことを、シェーンコップに伝えていなかったことを、ヤンはその時死ぬほど──文字通り、死ぬほど──後悔した。
 闇の中で自分の手足を探すようにシェーンコップの気配を探して、二度と会えないのだと思って、ヤンは泣いた。涙を拭う手はなく、拭ってくれたかもしれないシェーンコップはそこにはいなかった。
 そうして今、ヤンは確かにシェーンコップに触れている。自分は確かに、あの闇から引きずり戻されたのだ。
 「早く動けるようになって、カイザーに会わなければな・・・。」
 膝にあった本を閉じ、それをベッドの端へ放って、シェーンコップがいっそう近くヤンへ顔を寄せて来る。
 「いっそもう死んだことにして、すべて忘れて姿を消してはどうですか、提督。」
 声も表情もこの上なく真剣に、低めた声でシェーンコップはそう言った。ヤンは一瞬真顔になり、それから、やれやれと言う見慣れた表情を浮かべて、口元を苦笑でゆるめた。
 「それは無理だ、シェーンコップ。わたしは死んではいないのだし、わたしが死ぬと起こる問題を、死んだことにしてしまったらわたしは解決することができなくなる。」
 「そんなこと、貴方の知ったことじゃあない、他の連中に任せればいい。貴方がこれ以上、命まで掛けてその問題とやらを心配する必要はない。こんな風に死に掛けて、この下らない世界への義理は十分に果たしたと思いますがね。」
 「・・・確かに、受け取り損ねた給料と年金分くらいは働いたかもしれないな。」
 引きずり込まれていた闇の黒の深さを思い出しながら、ヤンは言った。
 「でもシェーンコップ、わたしは、その問題をユリアンに押し付けたくはないんだ。わたしが死ねば、間違いなくユリアンはわたしの後継者として祭り上げられる。あの子にはまだ、大人になる時間が、もう少し必要なんだ。」
 いつの間にかヤンの手を両手で覆うように握って、祈りにも似た形で、シェーンコップはヤンへ向かってため息をこぼした。
 「坊やはもう、十分に大人だと思いますがね、提督。」
 ヤンとは違った意味で、ユリアンを導いて来たシェーンコップが、言い含めるような響きで言う。ヤンはそれへ浅くうなずいて、けれど意見を翻すことはしなかった。
 「君もわたしも、子どもでいることを許されなかった。ユリアンも、わたしとこの忌々しい戦争のせいで、真っ当に子どもであれたかどうか怪しいところだ。だからこそ、もう少しだけ、わたしはユリアンが、わたしの、ただの息子でいられる時間を与えたい。どうせじきに、ユリアンがわたしの息子だと言われるよりも、わたしがユリアンの父親だったと言われるようになる。わたしは、ユリアンを大人にするのではなくて、ユリアンに大人になって欲しいんだ。」
 「・・・私たちが、無理に大人にされてしまったからですか。」
 うん、とシェーンコップを見つめて、ヤンはうなずいた。
 死んだことにして姿を隠せと言ったのは、たった今思いついたことではなかったけれど、そう言ってヤンが素直に従うなどとシェーンコップは端から考えてはいなかった。ヤンの回答はシェーンコップの予想通りだったし、言い出せば決してそれを曲げないヤンの頑固さを、シェーンコップは思い知っている。
 そうして、ヤンらしい答え方だと、妙な満足の仕方をして、シェーンコップはヤンの掌へ向かって苦笑をこぼす。
 「要するに貴方は、自分の命よりも、ユリアンにとって良い父親であることを選ぶと、そういうわけですね。」
 「せっかく助かった命だ、最大限、ユリアンたちのために活かすよ。」
 ユリアンたち、と言うのには、一体誰が含まれているのだろうかと思いながら、シェーンコップはヤンの頬へ手を伸ばして、さすがに長い間手入れもできずにまばらに伸びたひげへ、物珍しさで指先を滑らせた。乾いてひび割れている唇は痛々し過ぎて、シェーンコップはそこへ指を伸ばすのは今は我慢した。
 「結構、貴方がそう言うならそういうことだ。私に余計な口出しをする権利はない。ですが提督、ひとつだけ約束していただきたい。」
 「なんだい──?」
 シェーンコップが、見慣れた人の悪い笑みをごく薄く浮かべたのに、ヤンは警戒心を隠しもせずに、疲れの色の濃い眉の辺りをぎゅっと寄せる。
 シェーンコップが、深く息を吸った。
 「ユリアンのために良い父親であろうとするなら、貴方の飼い犬のためにも、これからも変わらず良い飼い主でいていただきたい。一度飼った犬を捨てるのは、ひどいルール違反だ。」
 ヤンの表情が、警戒から驚きに一瞬で変わる。そうして、素早く眉が開いた後で、シェーンコップが見覚えている、あのやるせない表情がそれに上書きされると、自分が死の淵をさまよう間、シェーンコップが一体どれほどの苦痛に耐えたのかを悟って、シェーンコップへ向かって両腕を伸ばして来た。
 小さく何度も首を折って、シェーンコップへ約束を誓うと、
 「おいで、シェーンコップ、わたしの犬。」
 小さな声で言い、シェーンコップを手招く。
 シェーンコップは、明らかに薄さの増したヤンの胸へ、用心しながら頭を乗せ、ヤンの、骨のさらに目立つ手首が時々こめかみに当たって痛むのを我慢しながら、ヤンが自分の髪をくしゃくしゃに撫でるのへ、じっと目を閉じた。
 ヤンの心臓の音がかすかに聞こえ、あの時探り損ねた脈の、今は首筋に確かに打っているのへも耳を澄ませて、もう絶対に主人の傍を離れるものかと、犬の気持ちで誓っている。
 ヤンが、シェーンコップの髪へ、犬にするように頬ずりした。


 ヤンはしばらく車椅子の生活を強いられ、ようやく行われた和平交渉の会見の時も、まだ自力では歩けなかった。
 シェーンコップはリンツの他数名のローゼンリッターを伴って、警護の名目でヤンの傍をひと時も離れず、過剰にも見える警戒の様子を帝国側の一部の将官たちが不愉快に取ったようにも見えたけれど、カイザー自身は当然のことだと自分の部下たちの不満を抑え、弱ったヤンを気遣いながら、ふたりは込み入った話をした。話し合いの場に、自分は部屋の壁紙の一部と言って同席したシェーンコップに、カイザーは一瞥をくれただけだった。
 数日に及んだその話し合いで、カイザーはヤンの申し入れのほとんどをそのまま受け入れ、互いに、これ以上無駄な殺し合いをしたくはない、自分たち自身も含め、10年後の、自分たちの子どもたちの静かな時間のためにと、無期限の停戦に合意した。
 民主主義を、今は滅ぼしはしないと言うカイザーの決定に、帝国のすべてが納得するとは思えなかったけれど、あの男の言うことになら従い、そして逆らう者は容赦なく、カイザー自身の手で罰せられるだろうとヤンは確信していた。
 あんな力は自分にはない。欲しくもない。艦に戻りながら、ヤンは改めてそう思った。
 イゼルローン要塞の放棄、帝国への返還も、和平の条件に含まれていたから、同盟側に──カイザーの認識では、ヤンに──残されたハイネセンへ、要塞内の軍人と家族、そして非戦闘員の住民すべてを移動させるのに、キャゼルヌはしばらく事務処理に忙殺されることになった。
 移動作業の最中に、地球教の残党がカイザー暗殺計画を実行、けれどそれを予想していた軍務尚書が彼らを罠に掛けて一網打尽にし、間違いなく全員処刑にしたと、短く一報が入ったのに、アッテンボローとポプランが真っ先に祝いの大騒ぎを言い出した。
 「まあいいか、イゼルローンとも今度こそほんとうにお別れだしな。」
 ヤンがそう言ったものだから、最後のどんちゃん騒ぎは、後でキャゼルヌに、3人揃って大目玉を食らうひどさになった。
 「先輩、ほんとうに何もせずにイゼルローンを帝国に渡すんですか。」
 以前のヤンの小細工のことを、キャゼルヌにひったぱかれてまだ痛む頭を撫でながら、アッテンボローが耳打ちして来る。
 「そうさ、そうするって言うのも条件のひとつだ。ひとつでも違えたら、カイザーは今度こそ容赦なく全力で我々を潰すとそう言った。そう言うことだよ、アッテンボロー。」
 軍の規模も大幅に縮小される。基本的には軍事行動はほぼゼロにまで制限され、少なくともこれから数年は、災害時の出動程度しか出番はないことになっている。
 それでは帝国が攻めて来たら、空手のまま殺されて終わりじゃないかと反論され、
 「攻めては来ないよ。向こうも、無抵抗の非戦闘員を殺したいわけじゃないんだ。」
 ヤンの言葉には、いつもの通り、奇妙な説得力があった。
 やれやれ疲れたと、ヤンは忙しさの合間に、シェーンコップに連れられ、最後にもう一度秘密の部屋を訪れ、そして例の図書室へ、まだ傷の痛む足を引きずりながら運んだ。
 「これを全部持って行きたいが、読めないんじゃしょうがないな。」
 天井まで届きそうな本棚を見上げ、心底残念そうにヤンが言う。
 「これから来る帝国軍の、いい暇潰しになるでしょうよ。」
 「そうだといいがね。」
 埃の見える本棚へ、さして期待はしていない風にヤンがぼやく。
 シェーンコップはヤンをその場に置いて数分姿を消し、再び本棚の間から1冊の本を手に現れると、それをヤンに手渡した。
 ずっしりと重くてぶ厚いその本には、三次元チェスでの勝ち方と言う、ヤンにも辞書なしで読める、これ以上ないほど分かりやすい題名がつけられていた。
 「小官にもやっと、三次元チェスのやり方を習う時間ができそうですからな。」
 「じゃあわたしは、ハイネセンへ戻ったら、トマホークの手入れ方なんて本を探そうかな。」
 「本なぞいりません、小官が丁寧に、手取り足取りお教えしましょう、閣下。」
 うきうきとシェーンコップが言うのに、ヤンはいいっと歯を剥き出しにして否定の返事を返し、紙とインクと埃の匂いに紛れて、ふたりは揃って本棚の間に滑り込む。いっそう薄暗いそこで、イゼルローンでの、恐らく最後の抱擁を交わして、ヤンはシェーンコップに抱きしめられて、大きなため息をこぼした。
 ヤンを気をつけながら本棚へ押し付けて、口づけから逃げられないように腕の輪の中へしっかりと閉じ込めておいて、
 「ひとつ、お訊きしたいことがあるんですがね、閣下。」
 ヤンと額と前髪を触れ合わせて、わざとしゃべる息を掛ける。
 埃の匂いの中では、よく目立つシェーンコップのコロンの香りへ目を細めて、ヤンはシェーンコップの首筋へ鼻先をこすりつけた。
 「以前私に下さった本の栞の、あの字は一体何と書いてあったんですか。」
 まったく色んなことをよく憶えている男だと、ヤンは内心呆れて、けれどあの時適当にごまかしてしまったことをヤン自身が確かに覚えていたから、
 「──あれ、まだ持ってるのかい。」
 「もちろんです。何しろ、閣下からの唯一のプレゼントですからね。」
 「大袈裟だなあ、貴官は。」
 どう答えようかと時間稼ぎに、ヤンは自分からシェーンコップへ唇を押し付け、逆に上唇を少し強く噛まれて、開いた歯列の間へ素早く舌先を差し込まれた。
 少しばかり熱の入り過ぎた接吻がようやく解(ほど)けると、シェーンコップはひそめた声をさらにヤンの耳元に注ぎ込んで来る。
 「・・・貴方が死ななかったのが、私にとっては最大のプレゼントでしたがね。」
 そう言われて、ヤンは痛む脚に構わず、背伸びをしてシェーンコップへしがみついた。肩へあごを乗せれば、赤い頬を見られなくてすむ。
 ゆっくりと瞬きをして、ヤンはあの栞の字を目の前に手繰り寄せた。
 「・・・"字は目で読み、愛は心で読む"、誰の言葉か知らないが、あれにはそう書いてあったんだ。」
 ついに言って、ヤンは息を吐いた。数年越しの、決死の告白だった。それを聞いて、いつもの軽口も毒舌も出さずにシェーンコップは黙り込み、ただヤンを抱き返して、反った背中を大きな掌でゆっくりと撫でた。
 それからもう一度重なった唇が、まるで初めての時の少年めいた仕草で、ただ触れ合って離れ、再び重なっても静かに、ふたりは輪郭をひとつに合わせて、しんとそこに佇む本たちの群れに紛れ込む。
 本棚に並ぶ2冊の本のように、ふたりは粛然と体を合わせて、紙とインクの匂いに満ちたこの空間の一部になった、これがイゼルローンでの最後のふたりの時間だった。 
 ハイネセンへ戻ると、ヤンはキャゼルヌを補佐しながら、次第に公けの場に姿を現さなくなった。
 暗殺未遂の傷の後遺症で、足を引きずって歩くヤンの姿を誰もが見慣れた頃には、縮小された軍に、リンツは連隊長、事件を生き延びたブルームハルトは副連隊長のままでローゼンリッターの一部が残り、その中に含まれなかったシェーンコップは、いつの間にか誰にも知られずに退役を果たし、ほぼ同じ時期に、ヤンも健康状態を理由に軍籍を退いたと記録には残っている。
 大学へ戻ったユリアンは政治学を専攻し、英雄と称される養父のことを尋ねられると、
 「さあ、今は一緒には暮らしていないので。元気にはしていると思います。」
 言葉少なにそう繰り返すだけで、すっかり姿を消したヤンの消息を語ろうとはしない。
 カイザーがそう同意した通り、帝国は新生ハイネセンへ干渉はせず、あちらはあちらで直面すべき国内の問題が多くあり、新生ハイネセンもまた、長い戦争によって失った多くのものを取り戻しながら、少なくとも数年先のことを確かに考えられる静かな落ち着いた時間へ、やっと安住しようとし始めていた。
 大学卒業後、正式にキャゼルヌ情報通信委員長の秘書になったユリアンは、ヤンがそう予想した通り、今では滅多とヤンの息子と言われることはなく、ヤンのことを稀に誰かが思い出したように語る時には、ユリアンの養父と言った方が、すでに通りが良くなっていた。
 ヤンとシェーンコップが、軍を去って後(のち)どこへ隠れ住んで、どのように生涯を共にしたのかは、家族と親しい知人以外にはまったく知られていない。ハイネセンについに訪れた平和で穏やかな暮らしの中で、人々は戦争のことも過去の軍人たちのことも、速やかに脳裏から消し去ってゆく。
 ヤン・ウェンリー元同盟軍元帥は結局実子を持たないまま、最期はひ孫たち──ユリアンの実の孫たち──を含んだ家族とごく親しい友人たちのみに囲まれて、静かに眠るように逝ったと、後に出版された自著でユリアン・ミンツ最高評議会現議長が簡潔に述べるのみである。

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