Not Alone Again 3
まだ日は高かった。キリコが不意に手を止め、そろそろヴァニラたちの家へ戻ると言った。「昼メシの時間だ。赤ん坊も腹を空かせている。」
別に逆らいもせず、シャッコも工具を置いて、キリコと一緒に立ち上がった。
「おれはまた戻って来るが、おまえはどうする。」
「別にやることもない、おまえと一緒でいい。」
「それとも、家に残って赤ん坊の子守でもするか。」
「・・・おまえがそう言うなら。」
真面目にシャッコが答えると、キリコはそれをおかしがったのか、わずかに眉を上げて、
「・・・冗談だ。」
と笑いを含んだ声で言う。
使いかけの道具はそこに残したまま、赤ん坊の方へ行こうとして、キリコはそこで足を止めた。そうして、自分のすぐ後ろに立っているシャッコの方へ振り返ると、突然その腕を引いて、並んでいるATの間へ体をすり込ませて行った。
明かりをつけないままの倉庫の中は薄暗く、やっと入り口の辺りへ差し込んで来る陽射しをATに遮られれば、ほとんど夜のように暗くなる。ATの脚部分にシャッコの背を押し付ける形に、キリコはシャッコの首筋に両手を当てて、じっと目を細めた。
「クエントの地下も、暗かったな。」
キリコから目をそらさずに、けれどシャッコは黙ったまま、キリコより先には動こうとはしない。
腕を伸ばして、やっと届くシャッコの肩の高さだ。自分へ向かって、わずかに体を傾けているシャッコの首に、キリコはやがて心を決めたように、両腕の輪を縮めて絡ませて行った。
少し遅れて、シャッコの両腕が背中と腰に回って来る。耐圧服を着ていなければ、腕の形がはっきりと皮膚の上に伝わる。大きな掌が、キリコの右肩──ATなら、赤く塗られる方だ──を包み込んで、キリコはもう少し体を寄せるために、ブーツの爪先をぎりぎりまで立てた。
自分の体は、すべて揃っている。両腕も、両脚も、手指も脳も、何もかも。緑の血に染まっていた、半分にちぎれたテイタニアの体の重さを思い出していた。彼女を抱きしめたのは、あれは、彼女に対するキリコが見せられる唯一の思いやりだった。誰も、フィアナの代わりにはなれない。テイタニアは、キリコとよく似ていた。自分自身を目の前に置かれたように、だから見つめ続けることなどできずに、最後の瞬間にだけようやく、キリコはテイタニアを見つめ返すことができたのだ。
自分の感情を、言葉で表す術を持たないキリコには、死に際のテイタニアを抱きしめることしかできず、あれを彼女がどう理解したのか、それは永遠にわからない。愛ではない。テイタニアは、戦場で自分の腕の中で死んで行った戦友だった。死んで逝く時はひとりだ。だからせめて、最後の瞬間に、孤独ではないように。
キリコを、今シャッコが抱きしめている。丈高い体を少しかがめて、キリコの方に添わせて、シャッコの体は全部揃っているし、この男はきっと、死ぬ時は無言のまま死ぬのだろう。何も言わず、何も語らず、キリコとそっくりに、ただ黙ってその時を受け入れて、恐らく、その時がついに来たことを心のどこかで喜びながら、目を閉じるその瞬間に、満足の微笑みを浮かべて、この男ならそんな死が想像できる。
フィアナとキリコが一緒にいたのを、間近で見ていた、数少ない人間のひとりだ。次第に弱ってゆくフィアナを、キリコが必死で何とかしようとしていたのを、シャッコはそこで見ていた。キリコに手を貸し、必要ならふたりを助けて、そうして、キリコがフィアナと一緒に眠ったまま、宇宙をさまよい流れてゆくと、そう決めた時にも、カプセルを送り出すその場にいてくれた。
なぜだかはわからない。この男はいつも、キリコが必要なものを黙って差し出してくれる。何もかも、シャッコのこの優しささえ、あのワイズマンが仕組んだことかと、疑心暗鬼に陥らないでもなかった。それでも、今は差し出されたあたたかな腕を拒めない。
もう、ひとりはいやだ。
キリコは、片腕を外し、シャッコの肩に触れた。そこから腕を肘まで撫で下ろし、自分を不思議そうに見下ろしているシャッコに上目の視線を返して、ほとんど何の意味もなく、うっすらと微笑んで見せる。
何を求めているのか、よくわからなかった。淋しさと、名づけてしまえば陳腐な感情のせいなのかもしれない。彷徨(さまよ)うことに倦んで、今日だけを生きてゆくことに、もう疲れ切っているのかもしれない。
これはきっと、卑怯なことなのだろう。自分の面倒に、シャッコを引きずり込もうとしている。シャッコはそれを拒まない。拒まない理由があると見当はついているけれど、キリコ自身の身勝手であることは間違いがない。今日1日ずつしか生きられない男が、明日と明後日と1年後と、そうやって未来だけを背負って成長してゆく赤ん坊を抱え込んで、そうしてキリコは変われるのだろうか。キリコの中の何かが、神の子を育てることで変わるのだろうか。
ひとりはいやだ。キリコはまた思った。
変わるにせよ変わらないにせよ、ひとりで、明日を見据えることは恐ろしかった。誰かが、一緒に赤ん坊を抱き上げてくれる誰かが、必要だった。
シャッコの指先が、驚くほど静かに、けれど確かな強さで、キリコの頬に触れた。あごが持ち上がり、喉が伸びた。ふたりの回りでだけ、空気が動きを止めた。
呼吸が間遠になる。重なった唇の分だけ、胸がもっと近寄る。一緒にいてくれと、キリコは唇の間で、通う呼吸に言わせた。もうどこへも行くなと、シャッコの呼吸が応えた。
喪い続けることに疲れて、キリコはもう、どこへも行かないために、シャッコの腕の中にいる。
ATの間の、ひと色濃い闇の中で、ふたりはそうして抱き合ったままでいた。重なった呼吸が、そこでだけ密度を増した空気をかすかに揺らして、けれど気配はそれ以上どこへも漏れてはゆかない。
少し離れて聞こえる赤ん坊の健やかな寝息だけが、今はふたりの耳に届く唯一だった。