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Not Alone Again - 承前

 テダヤはここ数年、ほとんど自室から出ない生活を送っていた。
 200歳をとうに越えて、クエントにいれば村を出て、ただひとり瞑想する暮らしへ移るはずだったけれど、強制転移されたヌルゲラントでは、村人たちが新しい土地へ馴染むのに精神的な支えとなり、ただでさえ子どもの滅多と生まれないクエント人の間で、たとえテダヤひとりであろうと姿を消すことを、誰もが恐れた。
 もう少し、もう少しと思っている間に、30年が瞬く間に過ぎ、そして数ヶ月前に部族に神の子が生まれ、ヌルゲラント全土に少しばかりの混乱を巻き起こす羽目になった後で、テダヤは相変わらずあれこれの責任を背負い込んで、掟を破って神の子を目の前で逃がしたシャッコへの責も一緒に、他の部族からの叱責の矢面へ立った。
 神の赤子が神殺しの男と一緒に姿を消したということは、つまりそういうことだと、ただそれだけを繰り返し、シャッコは自分の言う通りに動いたに過ぎないと、主張は最後まで変えずに、結局は誰もがテダヤの頑なさに負けた形になった。
 クエント人の中でも、ヌルゲラント生まれのクエント人の中でも、テダヤは最年長のひとりだったから、どんな失策──と、誰かが言った──があろうと、それほど厳しい追求はない。それを見越して、テダヤはシャッコの行動も含めて、すべて自分の責任とした。シャッコは審問の前に厳重にテダヤにそれを言い含められ、何をどう訊かれようと、言われた通りにしただけだと、意に反してはいたけれど言い続けた。
 そうして、神の子が姿を消した事件は、まったく解決はせずにひとまずは終わった。
 終わってなどいないことを、シャッコは知っていた。テダヤも知っていた。いずれあの男、神殺しの触れ得ざる者、キリコ・キュービーが、また姿を現すことを、ふたりだけは確信していた。
 あの神の子をキリコがどうするのか、神殺しの男が、神の赤子と一緒に消えて、それが一体何を意味するのか、シャッコはキリコについては安心していたけれど、テダヤは何か感じるところがあるのか、あれ以来普段よりも口数少なく、常に傍らにいるシャッコにも、胸の内を漏らさなくなっていた。
 グルフェーから、商人の護衛の話が持ち込まれて来たのは、そんな時だった。


 シャッコの村には星間無線の設備はない。
 シャッコたち生粋のクエント人と違い、ヌルゲラントの住民は地上に住む者も多く、あれこれの機械や武器を使うことを厭う必要のない町がいくつかあった。
 30年経っても、シャッコはまだ地上の町の人間たちのやり方には馴染めず、仕事の依頼のやり取りで最低限言葉を交わす程度で、親しく付き合うことはない。必要がある時だけ地底の村から出て、彼らの町へ行く。用を済ませばさっさと去る。彼らはシャッコたちをそこそこ歓迎してくれるけれど、彼らがシャッコたちの村へ来ることはなかった。
 町のおかげで、ベルゼルガの用意もできるし、整備もできる。他の星と連絡も取れる。それをありがたくは思っても、やはり自分たちが生まれ育って学んだやり方とは違うと、不愉快に近い違和感を拭えない。
 生まれ育ちの違いだ。仕方がない。
 町へ行くたびに思う。近頃では村を出て、地底を出て、地上の町へ住むことを選ぶクエント人たちも少なくはない。シャッコの村の人の数は減るばかりだ。久しぶりに生まれた子どもは神の子だった。村にやっと人間がひとり増えると思っていたから、皆ひそかにあの赤子のことを残念がっている。
 そして今、シャッコもこの村を、そしてヌルゲラントを離れようとしていた。
 少し冷ました湯で茶を淹れ、それを手にテダヤの部屋へゆく。シャッコは町から戻ったばかりだった。テダヤはもう、何が起こったか気づいているのではないかと思いながら、扉のない部屋へ、そのまま体を運んだ。
 寝台に横たわり、枕に置いた頭はこちらを向いていた。足音が聞こえていたらしい。テダヤは、そこへ椅子を引き寄せ腰を下ろすシャッコを、じっと眺めていた。
 茶の入った小さな碗を差し出すと、テダヤはゆっくりと体を起こし、両手を差し出してそれを受け取った。
 「グルフェーへ来いと、連絡があった。」
 熱くはない茶へすぐ口をつけたテダヤへ、シャッコは足元近くへ視線を落としたまま伝える。
 「そうか。」
 茶碗からほとんど口を離さず、テダヤはもうほとんど歯の残っていない口を動かして、不明瞭に相槌を打った。
 「やはりあやつらは無事であったか。」
 どこか笑いを含んだような声音だった。
 骨と皮膚ばかりの、色の悪い指で、それでも碗を抱え込む仕草は優美だ。この手も、シャッコやキリコと同じように、戦場でATを駆ったことがあるとは信じ難く、今では枯れ木のような彼の横顔を、シャッコはまじまじと見つめる。
 「それで、おまえはいつ発つ?」
 あまりにあっさり問われて、シャッコははっとあごを引いた。息を飲んだシャッコへ鋭い視線を投げて来て、テダヤは200歳を軽く越えるとは一瞬信じられない強い眼力で、シャッコの頭の中を見透かすように、少しの間目を細めた。
 「・・・今おれが動けば、またうるさく騒ぐ連中がいる。」
 実のところ、さして重要とは思っていない懸念を、一応口にした。
 表面は不問に付されたことになっているけれど、シャッコ──とテダヤ──が何か隠していると思っている人間は少なからずいる。あの神の子をひそかに匿いいずれ担ぎ上げて、ヌルゲラント全土を掌握しようとしているとか、部族すべてを統べる企てがあるとか、そんな下らないたわ言を、本気で信じている。
 ヌルゲラントではほとんど最年長のテダヤは、それだけで尊敬の対象だったし、でしゃばることなく、古き良きクエントのあるべき姿を表わしている彼に心酔しているクエント人は数多い。そしてそれを、当然面白く思わない連中もいる。そんな連中へ睨みを効かせるために、シャッコは常にテダヤの傍らにいるのだ。
 神の子の事件は、そういう連中にとっては、テダヤとシャッコの信用を失墜させる絶好の機会だった。残念ながら、赤子を放逐するのが掟とは言え、皆久しぶり──あるいは初めて──に見る神の子の裁定の儀式のあまりの不手際ぶりに、面目を潰したのはテダヤたちではなくあちらの方だった。
 テダヤの"失策"が結局大目に見られたのも、彼らが無様を先に晒したおかげだった。
 クエント人でないキリコに、クエントの掟など通用はせず、けれど30年前の神殺しの事件でクエントとの関りは異常なほど深いと知れ、放逐すべき神の子を神殺しの男に委ねて何がおかしいと、ほとんど啖呵でも切るように、テダヤは連中を前に声を張り上げて言い切った。
 迫力に飲まれ、皆黙り込み、結局それもそうだと誰かがこそこそと言い出し、納得した風ではなかったけれど、もう誰もテダヤと言い争いなどしたいとは思わないようだった。
 そんな風にうやむやに終わってしまった事件を、今シャッコが動けば、必ず再び持ち出す連中がいる。その機会を虎視眈々と狙っていると知っているから、シャッコは今、一応テダヤへそれを思い出させるつもりで口にした。
 「それでもゆくのだろう、おまえは。何しろあの男がおまえを呼んでいる。おまえは行かねばならない。」
 また茶を口元へ運び、静かに、まるで詠うようにテダヤが言った。
 「おまえはもうゆくと決めている。わしらのことは心配するな。後のことは何とでもなる。」
 喉が渇いていたのか、空になった茶碗をこちらへ戻して来たので、シャッコは目顔でもう1杯いるかと訊く。テダヤは小さく首を振り、そのまままた枕へ頭を戻して横たわった。
 胸の前へ手を重ね、そうすると、ほとんど嵩のないように薄い彼の体だった。
 「ル・シャッコ、おまえは気づいているのだろう、おまえの運命は、あの男に結び付けられている。もう、おまえの意志など関りはない。あの男の意志すら、どこまで関りがあるか知れたものではない。」
 きちんと名前を呼ばれて、シャッコは少し背筋を伸ばした。シャッコの手なら、指先に乗りそうな空の茶碗を両手の中にそっと収めて、テダヤが天井へ視線を据えたまま低く言葉を継ぐのを、じっと待っている。
 「何と言ったか、あの神を名乗った男は、あの男が殺した神は、何と言う名だったか。」
 眠っているように、半分閉じられた瞳の色が、すっと遠くなる。テダヤが思い出そうとしているその名を、シャッコが先に口にした。
 「ワイズマン。」
 「おお、そうだった、ワイズマンと言った。あの神が、どこまで地図を描いて行ったのか、もう誰にもわからん。おまえのことも、神の差し金に違いない。あの男がおまえを求めるなら、おまえはゆくしかない。神の意志に逆らうな。おまえにとっては、あの男が神だ。」
 静かではあったけれど、何かに憑かれたように、テダヤは珍しく口数が多い。時々息継ぎのタイミングを忘れたように、言葉の途中が中途半端に途切れる。シャッコは知らずに、体を前に傾けて、テダヤの口元へ耳を寄せるようにして、彼の言葉に聞き入っていた。
 「あの男は神になることを拒んで神を殺したが、結局我らの許へ戻って来た。神の子を抱えて消え、そしてまた現れた。あの男は気づいてはおるまい。その方が良い。自身が神であるなどと、悟らぬ方が良い。悟らぬために、あの男には誰かが傍らに必要なのだ。あの男を、ただの人間にとどめておくために、おまえはあの男の許へゆくが良い。あの者は、孤独に倦んでおる。神ですら、共に過ごす友を必要とする。神ですらな。」
 友、と言う言葉が、シャッコの胸に重く落ち込んでゆく。出会いの最初から、これは定められたことだったのだろうか。今またキリコが自分を手招きしているのも、何もかも30年前のあの頃から、あるいはすべての人間が生まれた最初に、すべて定められていたことなのだろうか。
 テダヤが、枯れ枝のような手を、シャッコへ向かって伸ばして来た。シャッコはその手を取り、そっと握った。
 「おまえはもう、充分このわしやクエントに尽くした。後はおまえの好きにするがいい。あの男の傍へ、ゆきたいのだろう。あの男のゆく末を、見守りたいのだろう。ゆくがいい、あの男の許へ。あの男が神の赤子をどうするつもりか、最後まで見届けて来るがいい。」
 「・・・それが、このおれの役目なのか。」
 どこか迷いを込めてシャッコがそうつぶやくと、テダヤがふっと微笑みを浮かべた。
 「行って、あの男に訊くが良い。あの男が、おまえに何を求めているのか。おまえはもう、とっくに知っておろうが。」
 テダヤの、慈しみに満ちた笑みに、シャッコはやはり見通されていたのだと思った。
 キリコを、ずっと求め続けていたことも、キリコが、シャッコを忘れてはいなかったことも。神の赤子はまるで、ふたりを再び結びつける口実ででもあるように、キリコからこうして連絡がなくとも、シャッコはキリコと赤子を探しにゆくつもりでいた。ほとぼりが冷めた頃を見計らって、ヌルゲラントを出るつもりでいた。
 ただひとつ、テダヤのことだけが気掛かりだったけれど、こうして背中を押されれば、もう躊躇いはなかった。
 故郷ではないヌルゲラントに名残り惜しさは湧かない。ただ、キリコの許へゆくと言うことは、テダヤを置き去りにすると言うことだ。それだけは心にとどめて、シャッコはもう一度、テダヤの手を握った。
 キリコが呼んでいる。キリコが待っている。今ではもう、何よりも大切なものになってしまったキリコが、シャッコへ来いと言っている。
 父のようであり、師のようでもあったテダヤをここに残して、シャッコはヌルゲラントを出てゆく。あの男のために。キリコのために。
 テダヤがまた微笑んで、それから、眠るためかもう黙って目を閉じた。
 シャッコは、テダヤの手を薄い胸の上にそっと戻し、そこへひと時、自分の掌を重ねる。細かに皺の寄ったテダヤの手の皮膚の、頼りなく柔らかいその感触に目を細め、ここから出てゆく準備のために、シャッコは音は立てずに弾みをつけて、大きな仕草で立ち上がった。

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