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Not Alone Again - あなたが笑う

 例の赤ん坊の世話は、すっかりココナたちとシャッコに任されて、けれど時折、助けたのはおまえだと言う視線に耐えかねて、キリコは赤ん坊の日光浴に付き合うことがあった。
 1時間足らず、日当たりのいい裏庭に寝転がしておくだけだけれど、それでも陽射しの強さによっては、こまめに日陰に移動させたり体を裏返したり、機嫌が悪ければ泣き続ける時もあるし、案外と面倒だ。
 赤ん坊に付き合いつつ、時間を潰すために、キリコはたいていその時間を銃やATの細かな部品の手入れに使い、まだ自力ではあまり動けない赤ん坊を、すぐ手の届く傍に置いて、けれど機械油や煤まみれの部品に触われないように、充分距離を置いて、赤ん坊は、無言で手を動かし続けるキリコを、一体何が面白いのか、じっと見つめていることがよくあった。
 キリコは、赤ん坊が健やかであることには関心があったけれど、成長それ自体には特に興味はなく、自分たちと同じものを食べるようになれば楽だとか、喋れるようになれば意思の疎通ができるとか、養い親と名乗りを上げたくせに、赤ん坊に対しては自分の都合しか考えていなかった。
 自分だけに育てられるよりは、ココナたちやシャッコに育てられる方が絶対にいいと、それだけは譲らず、実際にそれは真実だったろうし、キリコの赤ん坊と、ココナたちが呼ぶその赤ん坊は、キリコとふたりきりで放浪(さまよ)っていた時に比べれば、ずいぶんまともに他人に反応するようになったように見える。
 泣き方で何が必要かと、聞き分けすらできなかったキリコは、赤ん坊にとってはただの能無しだろうし、できることと言えば、泣き止むまで辛抱強く抱いていることくらいで、ふとキリコは、この赤ん坊の不幸は、神の子とされてしまったことではなく、自分に育てられる羽目になったことではないかと、本気で考えることがあった。
 ココナたちやシャッコがいる。それで勘弁してくれ。
 声は掛けない。けれど赤ん坊を見下ろして、キリコは何度も何度も心の中でそう思う。
 毛布の上で手足をばたばたさせている赤ん坊を、キリコは片手でころりと引っ繰り返した。まだ寝返りはきちんと打てないので、うつ伏せのままだと呼吸ができなくなることがある。この姿勢の時は絶対に目を離すなとココナに言われているから、キリコは作業を中断して、じっと赤ん坊に視線を注いだ。
 体はなかなか動かせなくても、顔の向きは変えられる。何が面白いのか、右左と、赤ん坊は何度も顔の向きを変えて、そうしながら手足をばたばた泳がせて、まったく言葉になっていない奇妙な声を上げ続ける。
 瞳が動いて、キリコを眺めたり、その後ろにある屋敷を眺めたり、時々陽射しがまぶしいのか一人前に目を細めてみたり、一時もじっとはしていない。忙しいなと、キリコは赤ん坊に目を据えて思う。
 今日は機嫌がいい。泣き出す様子はなく、キリコだけが傍にいるのに、不満もないようだった。
 まるで空気で余分に膨らんだように、関節の周囲がふっくらと丸い手足。爪すらあるのが奇跡のような、小さな小さな手と爪先。体の線はどこもただ円く、ミルクの甘い匂いばかりがする。
 柔らかく盛り上がった頬を、ちょっとつついてみたくなって、キリコは部品を磨いていた布の、なるべくきれいな部分で自分の手を拭いた。何が触れても汚れてしまいそうに、赤ん坊の肌は真っ白だ。爪の先が当たらないように気をつけながら、キリコは赤ん坊へ人差し指を差し出した。
 頬に触れた途端、不思議そうに赤ん坊がキリコをじっと見て、それから自分に触れた指を眺めて、そうして、自分ではないそれに触れるために、小さな手を伸ばして来る。小さな指が、つたなく動いてキリコの指をつかんだ。ぎゅっと握り込んで、何が面白いのか満面の笑みを浮かべる。赤ん坊の好きにさせて、キリコは指を取り上げようとはしなかった。
 おもちゃのように、キリコの指を軽く振り回して、そうやって握られれば案外力は強く、キリコがそろそろ取り上げようと手前に引くと、まるで競争のように引き返して来る。遊んでいるつもりはなかったけれど、赤ん坊にとっては、これがキリコに遊んでもらっていることになるらしかった。
 赤ん坊のための時間とは言え、真面目に取り合う気のないキリコは、さてどの段階で、どの程度の強硬さでこれを中断させようかと、自分の指を取り返す算段をつけ始め、赤ん坊はそうされまいと、もっと強くキリコの指を引っ張る。
 引っ張るだけに飽きたのか、その次には口の中へ運び込み、あっと思う間もなく、生えかけの小さな歯がするどく立つ。
 「噛むな。痛い。」
 案外と本気の声で言うと、ちょっと驚いたようにまん丸な目をキリコの方へ見開いて、それから、けらけらと甲高く笑う。笑う合間に、また歯が立った。
 「噛むな。」
 痛いのはほんとうだった。噛むなと言うのも本気だったけれど、なぜか赤ん坊の口の中からすぐに自分の指を引き抜く気にはならず、それが楽しいらしい赤ん坊が、きゃっきゃと笑い声を立てるのに、キリコは赤ん坊の好きにさせている。
 「噛むな。」
 キリコがそう、仏頂面で言うたびに、赤ん坊はいっそう嬉しそうに笑って見せる。
 「愉しそうだな。」
 不意に背後から長い影が差して、シャッコがそこに立っていた。
 「おれは別に愉しくない。」
 「赤ん坊は愉しそうだ。」
 「だろうな。」
 赤ん坊は、突然現れた人影をシャッコと見分けたのか、そちらへ視線を移動させてまたキリコの指を噛み、それから再びキリコへ視線を戻した。そしてまた笑う。それにつられたように、シャッコも薄く微笑んだ。
 キリコの傍らへ腰を落とし、赤ん坊に指を取られているのを見て、さらに笑みを深くする。
 「おれの指を噛むのが楽しいらしい。何が面白いのかさっぱりわからない。」
 「赤ん坊とはそういうものだ。」
 ふたりがそうやって言葉を交わすのに、瞳を動かして声の行方を追い、忙(せわ)しく表情が動く。キリコの指は口の中に入れたまま、赤ん坊は自分の世話をする大人ふたりが目の前に一緒にいるのに、何か多大な幸福感に満たされるらしく、さっきよりも激しく手足を動かして、もっと大きく声を立て始めた。合間に、キリコの指を噛むのは忘れない。
 「痛い。噛むな。」
 相変わらず、ゲームのように同じ言い方を繰り返して、それでもキリコは預けた指を遠ざけようとはしない。噛んでキリコがそう言うたび、赤ん坊は満面の笑みを浮かべる。
 「おまえが構うから、うれしがっている。」
 「構ってるわけじゃない。」
 心外だと言いたげに、キリコは憮然と言い返した。
 不機嫌に泣かれるよりはましだからだ。ただそれだけだ。
 それでも、赤ん坊は、そうすればキリコが反応を返すと知って、同じことを繰り返している。キリコは、赤ん坊が喜ぶと知って、指を預けたまま、半ば上の空で噛むなと言い続けている。シャッコはそれを眺めて、おかしそうに笑っている。
 「噛まないように躾けるのは一体どうすればいいんだ。」
 この赤ん坊の世話はおまえの役目だと言わんばかりに、キリコはシャッコに向かって言った。
 「言葉が分かるようになれば言うことを聞くようになる。」
 「だからそれは一体いつだ。」
 赤ん坊には、常にクエント語で話し掛けているシャッコは、口辺を下げて肩をすくめ、
 「さあな。」
 他人事のように言う。
 キリコがむっとしたのに、またおかしそうに笑みを返し、シャッコは何か早口に赤ん坊に話し掛けた。クエント語は当然キリコには分からず、シャッコに何を言われたのか、赤ん坊はそれではキリコの指を解放しようと、そう決めたように大きく口を開けた次の瞬間、がちんと音がしそうにその口を素早く閉じた。
 「痛い!」
 今度こそ本気でキリコは小さく叫び、
 「終わりだ、放せ、放せ!」
 さすがに本気で手を引けば赤ん坊がかなうはずもなく、案外素直にキリコの指を放し、そうしてまた、けらけらと笑い声が立つ。キリコは忌々しげに痛む手を振って、それから、うつ伏せだった赤ん坊を、きちんと丁寧に仰向けに転がし直した。
 「ATの方がよっぽど扱いが楽だな。」
 「赤ん坊とATを一緒にするな。」
 シャッコはまだ笑っている。
 赤ん坊は、空を仰ぎながら、目の前のふたりに、見ているこちらが笑い出しそうな笑みを向けて、今は自分の両手の指を全部口の中へ差し入れようとしていた。
 「噛めれば何でもいいんだろう。」
 赤ん坊相手に、まるで八つ当たりのようにキリコが言う。赤ん坊はキリコの方へ顔を向け、またけらけらと笑い声を立てた。
 「ああすれば、おまえが何か言うとわかっているからだ。」
 仏頂面だろうと命令口調だろうと、キリコの反応がただただ面白いらしい。これが成長すれば、自分やシャッコのようになるとはまだ信じられず、キリコは小さく首を振る。
 神の子だのヌルゲランドだのを差し引いても、これは充分未知の生物だ。こんなものを6人も育てたココナやヴァニラを心から尊敬して、頼むから1日も早く、せめて言葉が通じるようになってくれと思う。自分がクエント語を使えるようになる方が早いかもしれないと、ちらりとシャッコを見て思った。
 「子守を代わるか。」
 キリコよりはずっとましに赤ん坊を扱うシャッコが、穏やかに提案する。2拍置いて、けれどキリコは首を振った。
 「いや、いい。まだ作業が残っている。」
 分解した部品をちらりと見て、また汚れを拭う布を取り上げた。
 「そうか。」
 シャッコはゆっくりと立ち上がり、もう一度赤ん坊の方へ微笑みかけて、後でなと、屋敷の中へ戻ってゆく。
 赤ん坊はキリコを見て、キリコは自分の手元と赤ん坊を交互に見て、もう少ししたら日陰に移動させようと思いながら、日光浴はまた無言に戻る。
 よだれに濡れた小さな手や口元が、きらきらと陽射しを集め、キリコ──とシャッコ──の赤ん坊は、楽しそうに笑い続けていた。

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