いっしょにかーりんぐ
考えれば考えるほど、文体について考える必要はない、書くべき事を書くべきだと思えてくる。
何度頭に主語がつこうが、何度同じ接続語がつこうが、何度文頭が「そ」になろうが、それが必要ならそれで良い。
有名な小説だって、2ページぐらい会話のみが続いてるなんてザラにある。
読むほうはたぶん、まるまる1ページ続いてるレベルじゃないと気付かない。それが面白い小説だと思う。
これは変だ、これは変だと禁則処理を自分で増やしていくから書けなくなる。
そんな気がした。
面白い小説ってのはそんなものに縛られていないと思う。
あと面接がくるたびに、空白期間に関する愚かな質問をされたらどう返そうと思ってだんだんいらいらしてくるあたり、音大に対して相当のプライドがあるらしいという事に思い至った。
履歴書も読めないのか、とか、読んだら分かるとおりを枕詞にしてみようと考えるあたり、すごいプライドだ。
音楽に関するプライドなんて無いと自分では思ってるから、すごい驚き。
新しい自分発見!? みたいな。
自分を客観的に見ようとする行為、それはとても不毛な行為なのかもしれない。というかそうだナ。自分じゃわからん。
私だって自分を客観的に見ているつもりでも、今上に書いたような事はあまり書きたくないと無意識に避けていたし。
~だろう、~だろうと仮説を立てたところで答えの無いものばかりがあふれている世界。
なんてステキなんだろうね。
世界に絶対など、あまりない。
でも思えばソロは絶対に同輩後輩にやらせたくないだとか考えてたり、リーダーは自分以外ありえないと思ってたから、昔から実はプライドが高かったのかもしれない。
大学で演奏系取らなくなったのも「こんなアホらと一緒にやりたくない」だったし。
そうか私は人を見下していたのか……。いやそれは知ってたけど。
思い返せば音大に進んだのも先輩や同輩に「やっぱ一味違うぜ!」って思われたいのもあったし、そして何より実は卒業後の今の状態を予想していたのもある。
音大を出たって免罪符(なるかは知らないけど)があれば就職しないで音楽やってたり小説書いても良いはずだってね。
もちろんその頃は今みたいに「無理だからしない」ではなかったけど。
「できるだろうけどやりたくない」と「無理だからしない」はかなり違う。
こういうかっこ悪い事を素直に書けるようになったのも悟ってきたおかげか。
でも未だに中二臭くも思う辺り、永遠に主観から逃れられることはできないようだ。そりゃ当然か。
なーんてくだらない事を言っていないでピアノの練習をしないと。実は練習中に書いたでござる。
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