伝説のコンビニは不況のあおりを受けて閉店しました

3月 20, 2010

高校の時からだけど、どうにも私には「学校を卒業して働く」というのが理解できない。
業種にもよるけど、大抵は学校の勉強など役には立たない。
ならば、学校は必要ないんじゃないだろうか。
逆に役立てるのなら働く必要がないんじゃないだろうか。
この理論の中に矛盾は存在しない。
それでいて面接の時には「入社時の利益」だとかを聞かれる。
学んでいないのだから、利益が生まれるはずがない。生まれるのだとしたらそれは労働力だけ。それ以外はありえない。

何が言いたいのかといえば、誰でもできる仕事を選ぶ奴は学校に行く必要がないということ。
働きたいのなら、働くための学校を作るべき。
逆に働く事を教えないのなら、働くのが主流の現代の風潮はおかしい。
勉学に励むものは皆平等に保護されるべきである。
志持たざる者は働けばいい。

何を学ばせているのかと訊かれて「協調性」やら「努力・忍耐」やらと答える教育者は皆死ぬべきだ。
「学ぶ楽しさ、または入り口を教えている」で及第点。
昔からベタな中二病として「何故勉強しなければいけないのか」という問いがある。あれは正しい。
勉学の道に進むのなら、労働の必要はないからだ。
誰もその正論に答えられず、中二病の一言で済ませてしまう社会こそ歪んでいるのではないだろうか。


私はよく悟りという言葉を使いますが、これは肯定的な意味で使っているわけではありません。
否定的、もしくは諦観を持って使っています。
全てを諦観し、愚かしさを指摘する気にもならない境地、それが悟りなんだと私は思います。
仏教ではオブラードに包んでいますが、要するに「人なんて価値ないから勝手に滅びちまえ」と言っています。
悟りを覚える、即ち覚悟する──それこそが仏教の説く解脱であるはず。
それを私は死と説く。
何も見ず、何も考えず、全てに目を瞑る。

私は悟った上でなお事実に目を瞑り、生きる。
何故なら、悟りすらも無意味だからである。
何事も無意味で、等しく無価値であるからこそ私は生きられる。
絶望する必要はどこにもない。絶望する望みがないのだから、しようがない。
それに気付いてこその、アホな悟り。
知ってしまえば生きるために働くなんて馬鹿らしいと思う。

終末思想とも違うし、従来の悟りとも違って、私の悟りは論理を組み立てた悟りだから、誰にでも分かりやすく説明できる。
納得できる人がどれだけいるかは分からないけど、矛盾はない。
世が世だからいくらでも布教できるんだろうけど、悟ってしまえばそんな事も必要がないと自分で否定できる。
自分も納得させられる、どんな理不尽も自分に押し付ける事ができる。
最高にステキでクソな悟りだよ、ホント。

Leave a Reply