パラドクスとは、誤読を狙った文章だ

3月 1, 2009

1から丁寧に読めばなんて事は無いのですよね。読めない人が多いだけで。なんという出落ち。
キンコン西理さんが「TAKESHI’S」批判(笑)してたからじゃないよ!
ついでに前に見た時に書けなかった私の感想を書こう。
北野武は昔から相手に分からせるように作品を作っていない、というより、難解そうな作品を作って評論家気取りを弄んでいるだけだと思うんですよね。
もしかしなくても、私のこの感想も見抜いているはず。絶望先生風に言えば心の予防線。言う必要がないですね。
たまに真面目な作品を織り交ぜる事によって実は何かあるんじゃないかと思わせる。
それとも、まったく考えの及ばない境地にいるのでしょうかね。
何にせよ他人の考えなんて口から聞いてすら本当かどうかなんて分からないので別にそこは良いでしょう。
見たのがかなり昔なので覚えている範囲ですが、あれは二つの単調な話を場面ごとに分割して繋げただけなんじゃないですかね。
それに意味のない場面を加えて難解だと見せかけている。
きっと監督本人も面白いなんて思ってないんじゃないかなあ。
世論の様子を見て北野武が楽しむ、むしろそれが彼にとっての作品なんじゃないでしょうか。
とかもっともらしい事を書いてお茶を濁そう。私にはそれぐらいしか推測できないのう。


さて、アキレスと亀のパラドクスのお話。
パラドクスとは訳せば”逆説”の意味ですが、どちらかと言わずとも日本では”矛盾”の意味に使われていますよね。
変に英語表記をするからこそ分からなくなる。それこそが真の矛盾なんじゃないでしょうか。
アキレスと亀の矛盾、こう書けば分かりやすいです。
アキレスも外国の人なので、ここは日本人らしく韋駄天としましょう。
以下wikiさん改稿。

あるところに韋駄天と亀がいて、二人は徒競走をすることとなった。特に競争する意味は無いけれど。
しかし韋駄天の方が足が速いのは明らか(韋駄天は一日に200km走る)なので亀がハンデをもらって、いくらか進んだ地点(地点A とする)からスタートすることとなった。

韋────A────

スタート後、韋駄天が地点 A に達した時には、亀は韋駄天がそこに達するまでの時間分先に進んでいる(地点B)。
─A・韋───B───

韋駄天が今度は地点 B に達したときには亀はまたその時間分先へ進む(地点 C)。同様に韋駄天が地点 C の時には亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたっても韋駄天は亀に追いつけないことになる。

結論、追いつけます。何故ならその考えは文章を一方向からしか読ませないように誘導しているから。
たぶんSVOという欠陥語順だとそうとしか読めないのでしょうね。真実の文章は以下。

韋駄天が地点Bについたとき、亀はまたその時間分進む(地点C)。
が、ここで亀の速度が記されていない事に気付いている人はどれだけいるのか?
韋駄天と亀の速度は等速ではない。つまり最初から図で時系列を示すと(Cの次の地点をDとする)、


1 韋 ─────B───────
2 ───────韋C──────
3 ──────────D────韋

こうなるというワケ。説明するのも馬鹿らしいですね。その一瞬〱を繰り返すなんて言語道断、無意味です。
というかね、なんで最初に速度を定義していないのか分からない。だからややこしくなるんだよ。
古代人は頭まで化石化してるんじゃないんですかね? ええ?
欠陥語順の主語動詞目的語なんてのはやめて早く主述式にしたらどうなんでしょうね。いやあんまり関係無いとは思うんですが。
数学の問題を文学問題として片付けようとするから矛盾が起きるのです。
小学校で習わなかったんですか? 時間・距離・速度の問題は不明なものはちゃんと定義しろって。
ピュタゴラスの時代にはないですよねー。ごめんね。
しかし、それをいつまでも引きずっているというのは愚の骨頂です。私の完璧なる解を見てひれ伏しとけ!
ようはこれに尽きますよね。桶は桶屋。
PCでも.txtをPhotoshopで処理しても無駄なように、数学問題を文学問題にしてはいかんのです。
哲学と文学は違うって? 柔軟に考えない奴に哲学を語る資格はないですよ。
じゃあ馬鹿にしたついでにもう一つ、wikiさんのアキ亀の下にあった馬鹿らしい話を。

これは物体の運動に関するものである。矢が飛んでいる様子を考えよう。ある瞬間には、矢はある場所に位置している。僅かな時間だけに区切って見れば、矢はやはり少ししか移動しない。この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから、その瞬間だけは同じ場所に留まっているであろう。次の瞬間にも、同じ理由でやはりまた同じ場所に留まっているはずである。こうして矢は、どの瞬間にも同じ場所から動くことはできず、ずっと同じ場所に留まらなくてはならない。従って、飛んでいる矢は止まっている 。

これは先程と同じように、矢の速度をまったく無視しているから起こる矛盾ですね。
この時代の人からしたら今の人達は中学生でも神に見えることでしょう。
まず、矢には速度がある。だからどんなに短い瞬間を切り取ったとしても、必ず少し動いている。もしも止まっているのならそれは静止画。
留まらなくてはいけないっていうのが間違っているんですよね。矢のどこにそんな義理があるんだって。
今いいこと言いましたよ私!
決め付けは良くないよゼノン君。これ以上書く事があろうか、いや、ない。以上Q.E.DDDDDDDDDDDDDDD!

くっだらな。
哲学を数学や文学の型に当てはめるのはナンセンスだと、哲学の神様が言っているようです。
どれもこれもヒルベルト・プログラムが悪いんだ……。,-,_

ここで一つ思いついた言葉を。
数式は世界で最も美しい文学の一つだ
なかなか良いと思う。

……、こんな当たり前の事をさも堂々と書いていたら頭が悪くなりそうだから気をつけよう。

22時、間違っていた図を訂正。はずかしー。

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