9月 23, 2009
を集計したのはキリスト教徒。
隣人を愛しなさい。ただし無神論者、イスラム教徒、ホモセクシャル、ヒスパニック、保守的キリスト教徒、最近の移民、ユダヤ人以外なら。
その他にも、先住民やらカルト教団員やらいっぱいいるんでしょうねー。素晴らしい国ですねー。アメリカンジョークですねー。
日本の思考弾圧も始まる事ですし、そろそろ新国家ができるかもしれませんね。
おっとこれは私の小説のネタだ。
事実は小説よりも奇なんて事はあまりないから安心したほうがいい。
少なくとも私が見てきた世界では。
思考弾圧を弾圧するのは思考弾圧なのではないだろうかという円環的疑問は答えが出なくて面白いですよね。
禅問答、ウロボロスの問い、あるいは哲学。
これらの答えを探そうとするのは甚だ時間の無駄だと主張したいところ。
ま、するのは勝手ですがね。
勝手だけど私には聞かないでくれ。
Filed under:
社会,
言葉 by yui
9月 23, 2009
私は常々、才能なんてものは育った環境・見てきたものによると言っていたけど、そうじゃないかもしれないと思い始めた。
亜人は何故いないのか、という所から、人間は長いあいだ進化していないという考えに及んだ。
だけどどうだろう。
たしかに死の危険とかの部分ではほとんど進化していない。
だけど親以上の世代の「血」が進化していると考えれば、そちらに栄養がいかないのが納得できないだろうか。
自分から見て二世代上が、小さい時から絵を描いていたとする。
記憶と能力と筋力の発達が刻まれた体が、子供を生む。
その子供は親の性質を少しは引き継ぐはず。親が絵を描いていて、子も描いたとすれば、体は絵を描く事が生きるのに必要な事と認識するかもしれない。
そして同じく子供を生む。
その子供はより「絵を描くこと」に対して進化しているんじゃないだろうか。
目や、物の見え方、空間把握、たぶん何もやっていない家系の子供よりも「絵を描くこと」に特化した体を持っているはず。
あくまでも想像だし、根拠も無いけど、親の性質を受け継ぐという特性を持つ以上、そう考えるのが自然なんじゃないだろうか。
「生きるのに必要」と遺伝子が記憶していれば「その行動」をするのを好むようになるはずだし。
であるから、才能と呼ばれる性質の一片には、血が関係していると思う。
自覚せずに磨く能力こそ、才能と呼ぶに相応しい。
あとは環境で身についた能力も。
となると私は音楽と数学の才能がある事になるけど、センスとか気力があるのかはまた別問題。ウウム。
この件の真理は解明できなそうだ。