戻る1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21

そして続く道2

 車も使わずATにも乗らず、キリコが旅に出た。ほんの1週間ほどだとそれだけ言い残して、どこへ行くとも特には言わず、わずかな食料と野宿の準備をして、ある朝早く出て行った。
 ユーシャラはまだ眠っていて、シャッコだけがキリコを見送り、陽の沈む方へ向かって、キリコがひとりで歩き出す。
 どこへ行くと訊くこともできたし、行くなと言うこともできた。けれど、そのどちらもせずに、シャッコはただキリコの背を見送った。行くなと言って聞くような男ではないし、行く先を告げないのは言いたくないからだ。
 少しばかり不安のようなものを感じながら、キリコがいろんなことを口にはしないのと同じ理由で、シャッコも様々なことを飲み込んだまま、まだ冷える早朝、薄暗い道もない道を、キリコの背が小さくなるのを、シャッコは黙って見守っていた。
 ユーシャラを起こす時間まではまだだいぶあったし、ひとり時間を潰す気にもならず、シャッコは起き出したばかりのベッドへ戻った。
 隣りの、自分のそれよりは小さなキリコのベッドを、ついでのように一応整えて、帰って来た時のために、シーツも取り替えておくかと思いながら、自分の不安の正体が少しずつはっきりして来るのに、シャッコは手を止めずに知らん振りをしようとする。
 あいつは戻って来るだろうか。
 言ったことは守る男だから、1週間と言えば1週間で戻って来る。戻って来ないなら、最初からそう言うだろう。
 近頃ユーシャラは、キリコの名をそれなりにきちんと呼べるようになっていて、走っていて転ぶことも減った。シャッコが教えるクエントの言葉にきちんと反応を返すし、キリコの言葉にはまだうまく答えられないけれど、もう少しすれば、どちらの言葉もそれなりに使えるようになるだろう。
 キリコは決してユーシャラの成長を喜んでいるようには見えないし、そもそもそういう感情を面に出す男でもない。自分ひとりで育てれば、自分そっくりの、常に無表情で無感動な人間になってしまうと、それを心配したからこそシャッコを呼び寄せて、ふたりで一緒にユーシャラ──神の子として生まれた赤ん坊──を育てることに決めたのだ。
 戦いしか知らないのはシャッコも同じではあったけれど、シャッコには少なくとも、クエントと言う生まれた場所があったし、拠りどころとしての生まれ故郷があった。過去の記憶を改竄されたキリコには、そうやって心を寄せられる場所がない。シャッコよりさらに深刻に、根のない暮らしをしていたキリコにとっては、戦場だけが故郷であり、家だった。
 神の子を救い、その子をこうして育てる決心をしたと言うことは、戦場にはもう戻らないと決心したと言うことだ。少なくとも、戦いが日常の暮らしは捨てることにしたのだと、ふたりが言葉にはせずに合意したことだった。そのはずだった。
 それでも、他人の心のうちまではわからない。あらゆることに長け、少なくとも同族の心の中なら手に取るように読めるシャッコにも、キリコの考えていることはわからない。覗き込むような真似はしたくはないし、詮索はシャッコの好みではない。こうして一緒に暮らして、それでも互いの過去や様々な考え方など、わざわざ話し合うこともせず、戦場でそうだったように、視線を交わすだけで相手のその場での判断はすぐに理解できる。だから、言葉を尽くして話し合う必要がなく、それはそのまま、平和な日常にも同じように持ち込まれている。
 キリコの向かった先はどこだろうかと、シャッコは手を動かしながら考え続けている。
 1週間と言った、歩いて数日の場所なら、さほどの距離ではない。まさかこの星を出て行くわけではないだろう。
 それとも、気を変えたのだろうか。ここへとどまって、ユーシャラとシャッコが名づけた──キリコが、そうしろと言った──赤ん坊を一緒に育てることに決めた後で、急に気が変わったのか。やはり戦場が恋しい、子どもを育てる柄ではないし、ユーシャラはシャッコの方に懐いている、だからもう、自分はここにいなくてもいい、そんな風に考えていた素振りでもあったろうかと、ここ数日のことを思い出そうとした。
 風に吹かれる枯れ葉のように、足も止めずにさまよい続けて、やっと根を下ろすことに決めた暮らしの中でも、キリコは変わったようには見えない。無口も無愛想も相変わらずだ。ユーシャラにわざわざ笑い掛けることもしない。クエントの言葉を覚える方が先だと決めてでもいるのか、自分からは滅多と話し掛けもせず、シャッコはそれを不満に思ったことはないけれど、親代わりととらえれば、確かにキリコの態度は冷た過ぎた。
 けれどあれは、きっとユーシャラが神の子だからなのだろう。自分との関りは最低限の方がいい、抱いてあやす腕が必要なら差し出すこともやぶさかではないけれど、必要ないなら、振り返ることもしない。
 関わって来た悉くを破壊する羽目になるあの男は、だから誰とも何とも深く関わろうとはしない。ユーシャラを救おうと決心したことは、キリコにとっては、そしてシャッコにとっても、文字通り天地がひっくり返るような出来事だったのだ。
 あの男は、そうとはわかりにくいが、心底優しい男だ。
 まだ冷え切ってはいない自分のベッドへ、シャッコはまたもぐり込んだ。空のキリコのベッドの方へ向いて、まだ目を閉じずに、平たく整えられたシーツの表面の白さに、目を凝らしていた。
 どこへ向かうのだろうかと、また考えた。そして、戻って来るだろうかと同じ問いを自分のうちで繰り返してから、戻って来るさと、声に出して答えていた。それから、眠り直すために目を閉じた。


 いつもより少し遅れて再び目覚めて、ユーシャラをベッドから抱えて起こし、いつものように朝食を一緒に食べて、そうしていつもと同じような朝が始まる。
 食事の後片付けを終えてから、ユーシャラの顔と手をもう一度きれいに拭いて、シャッコはユーシャラを抱き上げて外へ出た。
 もうすっかり陽は高くなり、額の辺りに掌をかざして、シャッコはキリコが歩いて行った方向を眺める。乾いた地面には足跡はなく、キリコが去ったと言う証拠さえ今はもう見当たらない。
 「きこどぉこ。」
 遠くを眺めているシャッコの、いつもと少し違う空気を感じ取ったのか、家の方を振り返りながらユーシャラが訊く。舌足らずの今朝は、キリコときちんと発音できない。
 「シャッコ、きこ、どこ。」
 小さな手が、あごの辺りを叩いて来る。ユーシャラの好きにさせながら、シャッコはキリコが立ち去った方角から目をそらさないままだった。
 「シャッコ。」
 返事をしないシャッコに焦れて、ユーシャラの声が少し固くなる。こんな幼児でも、自分の感情の表し方はよく知っている。
 「少しの間、留守にするそうだ。じきに戻る。」
 通じるかどうかなど、どうでも良かった。わざわざわかりやすい言い方など思いつかず、シャッコは前を見据えたままそう言って、それから、キリコのそれとよく似た色の、ユーシャラの瞳を見た。
 「少なくとも、あいつはそう言った。」
 「きぃこ、るす。」
 「そうだ。少しの間だ。」
 「きぃいこ。」
 「ああ、すぐに戻る。」
 「キリコ、いない。」
 不意に、きちんとキリコの名を呼んで、ユーシャラがシャッコの太い首に、短い両腕を回してしがみついて来る。
 シャッコの言うことを理解して、ユーシャラ自身がそう言ったと言うよりも、シャッコが思うことをそのまま心に反射させたように、ユーシャラの言葉はひどく淋しげに響いた。
 クエントの言葉は、こんな時にはシャッコには生々し過ぎる。細やかに感情を込められるから、そしてそれを、そのまま受け取ってしまうから、自分がもう、キリコのいないことに耐えられないのだと気づかされて、シャッコはそのことにショックを受けている。
 キリコの姿が消えてまだ半日だと言うのに、シャッコはもう永遠にキリコに会えないような気がした。ここで永遠に、ユーシャラとふたりきりキリコを待ち続ける、そのために、今ここに立ち尽くしているような気がした。
 長命と言うのは厄介だ。永遠が長過ぎる。それでも、1週間と言うなら、それなら多分耐えられると思った。
 「シャッコ。キリコ。」
 まるで慰めるように、ユーシャラがシャッコの肩に小さな掌を置く。大丈夫だと言うために、ユーシャラの背をそっと撫でて、それから、キリコよりいっそう色の淡い柔らかいユーシャラの髪の先を、シャッコは指先で静かに梳いた。
 キリコのいない、ふたりきりの1日目だった。

戻る1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21