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そして続く道 5
また、扉を叩く音が聞こえた。今度はしっかりとした、明らかに拳か何か、固いものが扉を叩いている。泣き声は聞こえないことを確かめてから、シャッコはベッドを出た。足音をひそめて、けれど早足に、ほとんど走るように扉へたどり着くと、誰とも確かめずに閂を外す。内側へ引いた扉から、また冷たい夜気が忍び込んで来る。そうして、暗闇に立つ、見慣れた姿が、無言でシャッコを見上げて、冷気と一緒に中へ入って来た。
こんな時に言葉がないのは、ふたりの間では普通のことだった。シャッコは扉を閉め、また閂を掛け直し、明かりのない部屋の中で、キリコがどさりと荷物を床に置く音を聞く。
歩き続けて、埃まみれになっているのが、よく見なくてもわかる。キリコはまだシャッコに背を向けたまま、何も言わない。
夜はいつもそうしているように、テーブルの上の蝋燭に火を点け、シャッコはキリコのために椅子を手前に引いた。キリコがそれを見て、やっとシャッコの方を向く。椅子を間に置いてしばらく見つめ合った後、シャッコの視線に促されて、キリコは椅子に腰を下ろした。途端に、全身から疲れが噴き出したとでも言うように、がっくりと肩が落ちる。
「起こしてすまなかった。」
うつむいたままキリコが言う。シャッコはキリコが自分の方を見ないのにも構わず、薄く笑って肩をすくめた。
キリコの方は見ずに、何気なく肩に掌を置いて、ねぎらいの意味でぽんぽんと軽く叩く。今度はキリコがシャッコを見上げたけれど、シャッコはキリコの方を見なかった。
「腹は空いてないか。」
どうだろうなと、自分の空腹の程度もわからないと言うように、キリコが考え込む表情を作る。
疲れ切って、全身で休養を要求しているのに、脳のどこかが冴え返っている。このまま床に倒れ込んで眠ってしまいたいと思っても、頭のどこかで、したいのは別のことだと言う声がしていた。したいのは食事ではなかったけれど、まだ眠る気分にはなれず、キリコはとりあえずうなずくことに決めた。
「豆のスープがある。」
「それでいい。」
わかったとシャッコが答えて、それから、キリコのために、もうふたつ、蝋燭の明かりをテーブルの上に増やして、ひとつを取り上げて台所へ行こうとする。それを横目に見ながら、キリコは珍しく考える前に口を開いていた。
「・・・おれがどこへ行っていたのか、訊かないのか。」
椅子に坐ったまま、肩越しに振り返る。シャッコも体半分だけキリコに向いて、少しだけ意外そうな表情を浮かべた。蝋燭の明かりで、ナイフで削ったような顔立ちはむやみに影に縁取られ、細かな感情の動きまではわからない。それでも、足を止めて振り返ったのは、会話を続ける気があるからだと判断して、キリコは椅子の中で体を反転させ、斜めに腰掛ける形に姿勢を変えると、顔だけは正面にシャッコの方を向いた。
こんな風に、わざわざ自分のことを話そうとするのは珍しいキリコを、シャッコはいたわるべきか突き放すべきか、少しの間考えた。キリコの求めているものは、たいてい手に取るようにわかる。少なくとも、戦場では。今は、どちらを求めているのだろう。多分キリコ自身も、どちらかわからないのだろう。疲れ過ぎていて、鎧うことも忘れている。
ヴァニラやココナのように、明るい軽口でキリコを楽しませることはできないし、キリコとは別の意味で自分を飾ることに興味のないシャッコは、いわゆる世辞やその場限りの触りの良い言葉と言うものもよくわからない。知っていても、それを易々と口にはしないだろう。そしてキリコも、そんなものは求めていない。
生き死にの場を共有したと言うのは、何もかも剥ぎ取った、何もかも削り取ってしまった生(き)の互いを見たと言うことだ。キリコがどんな人間なのか、ほとんどその核に触れるように見て来たし、キリコも同じようにシャッコを見て来た。上っ面の慰めやいたわるための嘘は、互いに無駄でしかない。それはそれで気疲れすることだと言うのに、こんな時に素直に自分の内側を吐き出そうとするキリコを意外に思いながら、こんな風にキリコが振る舞うのは、多分自分の前でだけなのだろうと、うぬぼれでなくシャッコは思う。
下がりかけたキリコの肩の辺りに、重苦しい疲れが見えた。
「おまえが、カプセルを見に行ったことは知っている。」
キリコの瞳孔が、ほんのわずか、上に向かって動いた。
知っていることを知らせようとは思っていなかったけれど、こちらに伝えたがったのはキリコの方だ。それを、シャッコは汲み取ることにした。自分の傷にあえて触れることをキリコが選ぶなら、それはキリコ自身の選択だ。シャッコにできるのは、その痛みを、できるだけ自分自身のそれのように感じることだけだった。
「ユーシャラが教えてくれた。」
言った途端に、どこか放心したような表情で、キリコがユーシャラのいる部屋の方を見やる。つられて、シャッコも、今は静かに眠っているだろうユーシャラのことを考えながら、同じ方へ顔を向けた。
椅子に坐ったキリコが、やけに小さく見える。その椅子に這い上がろうと、必死になっていたユーシャラを思い出す。シャッコは、ぼんやりと奥の方へ向いたままのキリコを見つめていた。
フィアナのことに触れるたび──滅多とない──に、血を流しているキリコが見える。引き裂かれ千切り取られ、キリコは半分だけになって、剥き出しになった断面を眺めながら、ただ絶望を深くする。傷口を縫い合わせる術はないし、流れる血を止める術もない。
ユーシャラは、その傷から目をそらして眺める、穏やかな風景のようなものなのかもしれない。希望なのか慰めなのか、あるいはただ、痛みに目を覚ます直前に見る、定かではない夢の記憶の断片のようなものなのか。
自分は、とシャッコは思った。
考えるのは初めてではないけれど、また、自分はキリコにとって何だろうかと、シャッコは思った。そして、自分にとってキリコは、一体何なのだろう、1週間ぶりに見る、疲れ切ったキリコの横顔を見ながら、シャッコは考える。考えながら、口を開いた。
「カプセルは、見れたのか。」
思ったよりも低い声が、床を這うように響く。キリコがシャッコの方へ顔を向けた。
「ああ。見れた。」
言葉の間に、わずかな間が空く。その間に気を取られながら、
「そうか。それならよかった。」
シャッコの言葉の間にも、同じように間が空いた。
言葉の間に、様々思うことが詰まる。そのすべてを口にしてしまうことはせず、できず、ふたりは見つめ合って、見えない手を伸ばして、互いの胸の内に触れる。やわらかな、生まれたての獣の子のように傷つきやすく、ほのかにあたたかなそれに、そっと触れ合う。それは、ユーシャラを抱く時のシャッコの手つきにそっくりだったし、ユーシャラの背を撫でる時のキリコの指先の穏やかさにそっくりだった。
30年も、ひと目すら会わなかった後で、なぜこの1週間がこんなにも長かったのか。いつの間にこんな風に、互いの内に食い込んでしまっていたのか。焦がれると言う激しさはなく、それでも、薄くなった空気を吸うような苦しさや、奇妙に広い部屋に感じる薄寒さや、感じる痛みの激しさに紛れるように、ほとんどあるとも知れないかすかさで確かに在る、名づけることのできない感情。こんなことでもなければ、意識にすら上がらない、心の片隅にいつの間にか芽生えてしまった、小さな光のようなもの。
痛みは消えない。消すことができない。キリコはフィアナを忘れることはないし、シャッコはふたりのことを忘れることはない。それでも、今はユーシャラを間に置いて、わずかに変質しながら輪郭は具体的になった分だけ、そこに在ることを否定できなくなった、ふたりの内にあるその光のようなものの存在だった。
言い訳はよそう、とキリコは思った。必要だからだと思っていた。そして今、それだけではないのだと、ようやくはっきりした。フィアナが名づけてくれたあの気持ちとは違う。それでも、これは、あれによく似ている。けれどもっと穏やかで、もっと静かで、もっとかすかで、掌に乗せて見える現実性もない。それでも確かに、自分の胸をあたためてくれるのだと、そう思った。
じかに眠る地面は、固くて冷たかった。夜露の湿りは、悲しい涙のようだった。今夜はやっと、自分のベッドで眠れるのだと、そう思った。
キリコは立ち上がり、シャッコの方へ寄った。蝋燭を持ったままの方の手に触れて、まだ視線は床近くに据えて、不器用に言葉を探す。
「気が変わった。食事はいい。」
唇を何度か泳がせた後で、出て来た言葉は、思っていたそれには程遠かった。
「シャワーを浴びる。」
それで、と言うように、シャッコが無言のままキリコを見下ろしている。
キリコが何か言うたび、シャッコの持つ蝋燭の火が揺れた。影が動き、シャッコの視線が遮られた瞬間をとらえて、もうひと言付け加えた。
「一緒に。」
淡々とした口調はいつもと同じだ。それでも、内心では必死に絞り出したひと言だった。
キリコの口調と同じように、シャッコの表情も特には動かない。蝋燭の炎が揺れを止め、ふたりの視線は、そこできちんと合わさっていた。
「ああ。」
短くシャッコが答えた。
間を置かず、シャッコの体が前に折れる。キリコは首を伸ばして傾け、口づけを待つ仕草を作った。
触れ合ってから、自分の唇が陽に焼けて乾いて埃で汚れて、ひどくざらついているだろうことが気になったけれど、シャッコの片腕の輪に引き寄せられた後には、何もかもどうでも良くなった。