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そして続く道 6
唇が外れた時に、視線が合ったのはほんの一瞬だった。キリコは首を折るようにしてシャッコから遠ざかり、何も言わずに奥に消える。その背を肩越しに追って、シャッコはしばらくその場から動かなかった。床に、何かがぶつかる音、それから水音、それ以外の音も気配もないことを確かめてから、シャッコは蝋燭の火をすべて吹き消して、ようやくキリコの後を追った。
バスルームが、ユーシャラの寝ている部屋の向かいなのを少しだけ気にしながら、真っ暗な中で足音をひそめ、そこだけは細く明かりの漏れるドアを、そっと開ける。
シャッコに合わせて、この家はどこも天井が高い。けれど浴槽をぐるりと囲んだシャワーカーテンとシャワーヘッドの位置だけはむやみに高くすることもできず、これは主にキリコに合わせてあった。カーテンの上から見えるのは湯気だけだ。
キリコが脱ぎ捨てにした耐圧服とブーツが、無雑作に床に放り出されて、真ん中からくたりと折れたブーツの片方は、骨と内臓を抜かれた獣のようだ。近頃では滅多と着ることもなくなっている耐圧服は、それでもそれを見慣れ切ったシャッコの目には、まるでキリコが皮膚1枚、するりと剥ぎ取ってしまったように見える。
その傍に、着ているものを脱いで置き、シャッコはシャワーカーテンの隙間に指先を差し入れた。
声は掛けなかったけれど、もうここにいることには気づいていたのか、髪を石鹸の泡だらけにしているキリコがちらりとシャッコに一瞥をくれて、また目の前に流れ落ちる水の方へ顔の位置を戻す。
浴槽の縁に置かれた石鹸を取り上げて、シャッコはそれをキリコの首筋と背中に塗りつけ始めた。
キリコが髪を洗う間、背中や肩を洗ってやる。首筋に掌を当てると、素直に上向いて、シャッコがそうしやすいように動く。泡は、塗りつけた端から湯に溶けて流れ、ふたりの足元にまつわりついた後で、排水口へ流されてゆく。湯気で、次第にカーテンの中があたたまり始めていた。
青い髪の間に両手の指が入り、梳きながら石鹸を洗い流してゆく。そうして、まるで疲れも一緒に流してしまったとでも言うように、少しやわらいだ肩の線が、シャッコの掌の下で、またいっそう緊張をほどいてゆくようだった。
うつむくと、背骨の始まりが濡れた皮膚の下にごつごつと盛り上がって、もしかして家を出る前よりも少し痩せたろうかと、シャッコはふと思う。自分の方へ体を預けて来るキリコの、今度は胸や腹に、石鹸を泡立てた掌を伸ばした。
こんな風に、探るように触れることはあまりないから、指先に触れる肋骨の硬さが、いつもと同じかどうかわからない。脇腹から滑り落ちて、腿へ触れてから、数秒惑った後で、改めて泡を増やした掌を、下腹へ滑らせる。ふと、背中が強張ったような気がしたけれど、構わず掌を乗せた。
抗うと言うほどの強さではなく、それでも逃れようとするように、キリコの体が前へ折れた。思うより先に腕が滑って、キリコの腰をしっかりと片腕の中に抱きしめておいてから、握り込んだ指先に、そっと力をこめた。
果てるのは早かった。浴槽の底に膝をついて、内側に垂れたカーテンごと縁を握りしめて、殺した声が水音に紛れた。キリコのその背に重なって、シャッコは自分の体の重さを気にしながら、キリコをずっと抱きしめていた。
シャッコひとりでも充分狭い浴槽の中で、流れる水をやっと止めたのは、キリコがシャッコの胸の上に体を伸ばし、膝の上に坐る形でおとなしくなってからだった。
キリコが運び帰った埃はすっかり洗い流され、湯気に満ちたその狭い空間には、湿った空気の匂いと石鹸の匂いだけが、むせるようにあふれ返っている。それに溺れるように、ふたりは一緒に喉を伸ばして、今は水滴だらけの高い天井を見上げる。
キリコの骨張った膝に触れていると、上体をねじったキリコはシャッコの首に裏返した左腕を絡め、胸に背中をこすりつけて来る。絡めて来た腕に素直に引き寄せられると、少し不自由な形に、唇が重なった。
唇も皮膚も体のどこも、濡れて湿って、それに助けられるように、重なった躯が滑る。滑りながら、もっと近づいて、躊躇しながら開いた唇の奥から、舌先が唇の合わせ目をなぞる。誘われた形に、シャッコも唇を開いた。
絡み合った両腕と両脚の間で体が回り、狭いなとキリコがつぶやいたのに、ああそうだなとシャッコが返しながら、そうやって手足を絡み合わせなければ一緒にいられない浴槽の狭さが、ふたり一緒に好ましかった。胸や肩や背中を、ほとんど隙間もなく重ねている、良い口実だった。
長い両腕の中に収められて、気にせずに自分の体の重みを預け、時々浴槽の外に手足の先がこぼれ出すのを、そのたび慌てたように元に戻し、キリコは抱きしめたシャッコの体の、皮膚の上に残る傷跡のいくつかを、指先と爪先で飽きずに探った。いつどうやって残ったものか、ひとつも訊いたことのない、なめらかに盛り上がったり抉れたりしている大小様々のその痕を、そこだけ薄いように思える皮膚から、まるで自分が溶け込んで行けるとでも言うように、シャッコが自分に触れるのに応えるように、キリコは探り続けていた。
固い、冷たくはない浴槽の壁の感触と、時々肺を半分押し潰しながら自分に圧し掛かって来る、シャッコの体の重みと、わざと狭める視界は、ATのコックピットの中に似ている。様々に押し寄せる感覚、脳を引き絞るような感覚、異常な集中力が、視界をほとんど黒点のように狭めて、奇妙に高揚した感覚の許へ、キリコを連れてゆく。シャッコの呼吸を耳元で聞いて、自分が抱きしめているのがATではないことを、やっと思い出す。
体温のある体。ごく普通の、ひとの体。切り裂けば赤い血が流れ、痛みを感じて、放置すれば死に至るかもしれない、ごく普通の人間の体。そのひとの掌に、キリコの躯は、ごく普通の人間らしく応え続けている。体温を受け止め、体温を返し、交ぜ合わされた体温が、そこで一緒に上がってゆく。喉を反らして、キリコは小さく喘いだ。
緩やかにやって来た2度目に、自分とシャッコの腹の間で果てながら、なぜか離れがたくて、キリコはシャッコの首に両腕を巻いてそこに力を込めた。
ひと時肌をあたため合うのは初めてではないのに、こんな風に、取り憑かれたように抱き合うのは初めてなような気がして、シャッコは今までのどの時よりも、丹念にキリコに触れていた。
戦場には、決まって慰めを与えてくれる女たちがいたけれど、シャッコは彼女らに興味はなく、キリコに至っては、彼女らの存在にすら気づいていない風で、だからと言うわけではなかったけれど、自分に触れさせるならそれなりに信頼した相手にと、ただそれだけの理由だったような気もする。ATを整備するのと、ほとんど変わりはない感触だった。
結局のところ、相手に対して腹を割っているという証拠以上の意味はなかったはずなのに、恐らくそれは、もうクメンにいた時から故意の誤解だったのだと、シャッコはようやく思い至っていた。
恐らく年齢のせいのキリコの、あらゆる拙さと、クエント人ゆえのシャッコの無関心と、そこで何かが生まれるには何もかもが殺伐とし過ぎていた。恐らくそれは、正しいことだったのだろう。互いに対する情のようなものが、ただ情のようなものにとどまって、それ以上にもそれ以下にもならず、そしてそれは、熱さも冷たさもなかったからこそ、30年と言う時間に耐えて変質もせずに、ただそのようなもので在り続けた。
血や皮膚を溶かすような熱さはなく、背骨を凍らせるような冷たさもない。ただそれは、手足をちょうど良くあたためてくれる、湯のようなものだった。
その湯の温度が、今は少しだけ上がったような気がした。
しばらくの間、動かずにただ抱き合っていた。湯気がとうに失せ、体が冷え始めた頃、眠っているはずのユーシャラの気配を気にしながら、続きはここでは無理だと、言葉にせずに合意し合って、ふたりはようやく浴槽から抜け出す。
体はほとんど乾いてはいたけれど、キリコの髪からはまだ時々水が滴っていた。裸のまま、シャッコはキリコを抱え上げ、足音を忍ばせて短い廊下へ滑り出た。
声を殺すためのように、ひとり分すでに寝乱れているシャッコのベッドに這い入る前に、キリコはもう一度シャッコの首に両腕を回して、口づけのために自分の方へ引き寄せた。