戻る > 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
そして続く道 - 行先不明
洗濯日和だった。真っ青な空に雲ひとつなく、頬を撫でる程度の風がずっと吹いていて、けれど砂漠の砂を運んで来るほどではなく、「全部洗えば夕方には乾く。」
自分の番だと言うのに、キリコは溜まった洗濯物だけではなくて、ベッドのシーツも毛布もすべて洗ってしまうことにした。
「大仕事だな。」
「ATを外に出して、間にロープを張ればいい。それなら全部一度に干せる。」
ユーシャラの小さなベッドも、上から下まで全部剥ぎ取って空にする。ユーシャラは、自分の寝る場所がみるみるうちに変わり果てた姿になるのに驚いて、黙々と手を動かすキリコの足を、小さな拳で抗議するように叩く。
「洗い終わったら元に戻してやる。シャッコのところへ行っていろ。」
開いたままのドアを指差し、今は自分たちのベッドを空にしているはずのシャッコの気配のする方を、キリコは示した。
キリコが相手をしてくれないと悟ると、ユーシャラは唇を突き出し、近頃すっかりうまくなった、怒りの表情を浮かべて、丸い頬をいっそうふくらませてから、ぱたぱたと部屋を走り出てゆく。もう転ぶことも滅多とないしっかりとした足取りで、足音のうるささもすっかり一人前だ。
ユーシャラがシャッコのところへ行ったらしいのを確かめてから、キリコは手元の作業に戻った。
ふたり掛かりで、家中の汚れ物を全部集め、倉庫の片隅に作った、タイル貼りの洗濯室へ全部運ぶ。色別に分けると言う繊細さなどあるわけもなくて、せいぜいが、機械油などで汚れていれば、一応は先に別で手洗いをする程度で、後は何もかも一緒くたに、洗濯機の中に一度に詰め込めるだけ詰め込んで回すだけだ。
ユーシャラはふたりが立ち働いている間、ずっとシャッコにまとわりつき、首からぶら下がったり足に抱きついたりしていたけれど、干し場を作るためにふたりがATを動かそうとし始めた頃には、家の外に出たり中に入ったり、大人ふたりに構われない時にはいつもそうするように、ひとり遊びをしていた。
午前中の残りすべて、キリコは洗濯に掛かり切りで、シャッコはキリコに手を貸しながら、ユーシャラの後を追うように家から出たり入ったり、ふたり揃って、ユーシャラの姿をちらりと視界の隅に引っ掛けはしても、特にそれ以上の注意は払わず、ふたりのどちらかの姿が見えなければ不安がって泣き出すようなユーシャラだから、姿が見えなくてもどうせそこらにいると、心配などわざわざしない。
いくらしっかり歩けるようになったとは言え、子どもの足だ。だから、そろそろ昼食の準備をしようと家の中に戻ったシャッコが、またすぐに出て来て、キリコにユーシャラを見たかと訊いた時も、キリコはまったく不安にはならなかった。
「裏にでもいるんじゃないのか。」
ユーシャラのシャツの裾について落ちないままの、泥と草の汚れを手洗いする手を止めずに、キリコは素っ気なく答える。
「もう確かめた。あっちにはいない。」
「ベッドの下は?」
床から10何センチかの隙間を思い浮かべたのか、シャッコが眉を寄せた。
「外で迷ってるなら泣いてるはずだ。泣き声は聞こえない。」
キリコはやっと洗っていたシャツを放り出し、泡だらけの手を流すと、シャッコと一緒に家の中に戻った。
部屋数もない、隠れる場所も思い当たらない家の中を、歩き回ってユーシャラを探す。床に這って、自分たちのベッドの下を覗き込み、その暗がりには何もないことを確かめた後で、衣類の入った引き出しも、一応全部開けた。
自分たちの部屋をくまなく探した後で、ユーシャラの部屋へ行き、同じことをする。自分たちとは違う、体の小さな子どもなら、どんな隙間にも入ってしまえそうに思えて、バスルームの浴槽の下の、数センチの隙間まで確かめた。
「ユーシャラ!」
シャッコが声を張る。外へも聞こえるかもしれないその声に、けれど反応はなく、キリコも、何度か狭い家の中でユーシャラを呼んだ。
シャッコの言う通り、ユーシャラはどこにもいない。
家の外に出て、ふたりでぐるり家の周囲を回り、遠目の効くシャッコが、どこまでも平たい土地を見渡しても、そこに動く小さな人影はない。そして、ひとりきりならすでに泣き出しているはずなのに、泣き声も聞こえない。
そこでまた、ふたりは大声でユーシャラを呼んだ。返って来る声も気配もない。
「どうする、車を出すか?」
シャッコがもう、倉庫の方へ体を向けながら言う。
トラックのガソリンは、どれだけ残っていたかとキリコは思い出そうとする。途中で運転できなくなることだけは避けたい。ユーシャラが行ってしまったかもしれない方向を見て、キリコは唇を噛んだ。
「探しに行くなら、水を持って行った方がいい。」
この晴天だ。日射病で倒れていないとも限らない。風は充分に涼しいけれど、こんなに長い間、陽に晒されたことはないはずだ。
「行こう。」
シャッコが言い、とりあえずは水を汲みに、台所へ行こうと家の中に戻る。
万が一を考えて、武器を持って行くかどうか迷いながら、キリコは他に必要なものをまとめるために寝室へ行った。
台所でシャッコが歩き回っている音がして、それから、それがぱたりとやんだ。水音は聞こえず、何をしているのか、シャッコはどこかに立ち止まったまま、水を汲むことを忘れてしまったようだ。
「キリコ!」
そして、声がした。
「どうした。」
切羽詰ったような、どこか呆然としたような、何が起こっているのか読めないシャッコの声音に、キリコは急いで部屋から出て、台所へ走って行く。
細長い作りの台所の、いちばん奥の床に、シャッコがしゃがみ込んでいる。その足元には、大小様々の鍋の類いが乱雑に置かれ、
「どうした。」
こんな時に一体何を探してるんだと、キリコは思わず声を尖らす。
シャッコがキリコを斜めに見上げて、そこへ手招きした。
床を蹴るように傍へ行くと、シャッコが、そこへ出されて置かれている鍋たちが入っていた、扉のついた棚の中を指差す。半開きの扉から、小さな白い爪先が覗いていた。
「ユーシャラ。」
思わず、驚いた声が出た。
シャッコがそっと、両開きの扉の片方を完全に開けると、手足を軽く縮め、親指を口の中に入れて、ユーシャラが無邪気に眠っているのが見える。体に巻きつけている白い布が、シャッコのシャツ──まだ、洗っていない──だと気づいたのは、シャッコがそこからユーシャラを抱え出してからだった。
洗濯物の山の中から、シャッコのシャツを抜き出して、ここに忍び込んだらしい。ここへ入り込もうと思いついてから鍋を取り出したのか、あるいは鍋を取り出して遊んでいてから、すっぽり自分の体が収まることに気づいたのか。子どものやることは、まったく予想がつかない。床に並んだ鍋のひとつを、キリコはブーツの先で軽くつついた。
シャッコの胸に抱かれて、まだ目を覚ます様子もないユーシャラの頭を、思わず安堵の表情で撫でる。
「本気で、首輪か胴輪で繋いでおいた方がよさそうだな。」
思ったよりもユーシャラを心配して、うろたえていた自分への照れ隠しで、キリコはほとんど本気のように言う。
「洗ったシーツと一緒に吊るしておけばいい。」
キリコとそっくり同じ口調で、シャッコもそんなことを言う。
よかったと、言葉には出さずに思って、ユーシャラが目を覚ましたら、これをきちんと叱るのはどちらの役目かと、牽制し合うように目が合った。
「おれは洗濯に戻る。」
大事そうにユーシャラを抱いているシャッコを置いて、キリコは外へ出ようと体の向きを変えながら、
「それはおれが後で片付ける。ユーシャラはそのまま寝かせておけばいい。」
床に散らばったままの鍋類を指して、そう短く言った。
「何なら、昼もおれが準備する。」
ひとりできちんと歩けるようになってから、そう言えば、そうやって抱いてやることが減っていたと、思い当たっていた。シャッコのシャツをわざわざ持って来たのも、そのせいだろう。
シャッコに抱かれて、そうすれば、ひとりで立っている時よりもずっと小さく幼く見えるユーシャラを、キリコは立ち去る前にちらりと肩越しに見る。
洗濯が終わったら、まずユーシャラのベッドを元に戻そうと思った。シャッコのあのシャツはそのままでいい。その方がきっと、安心して眠れるのだろう。
ふたりの大騒ぎをよそに安らかに眠ったままのユーシャラの額に、いとおしげに頬ずりするシャッコを最後に視界の端に眺めて、キリコは台所を出た。
ユーシャラが姿を消したと思った時の、自分の周章狼狽ぶりを、ひどく意外に思いながら、まだ洗い終わっていないユーシャラのシャツに向かって、わざと忌々しげに舌打ちをする。
歩けるようになっても、喋れるようになっても、まだ赤ん坊と大した違いはないのだと、風にはためく洗濯物を横目に見ながら、キリコはしっかりと心に刻み込んだ。