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そして続く道 1

 グルフェーをずっとずっと北東へ進むと、そこはもう地図に名さえない土地になる。
 水もある、緑もある、見渡せばなだらかな丘も見えて、そこを切り拓こうとした人間たちがいたことは間違いはないのに、今はそこへ住む誰もいない。
 そこそこ豊かな暮らしをしていたのに目をつけられて、ろくでもない連中に始終襲われる羽目になったのだとか、地面から毒ガスが出るらしいとか、あるいは、土地に縛られた霊たちが、生きた人間を寄せつけないのだとか、よくわからない噂ばかりの土地だった。
 人の住むのに何の支障もなさそうなのに、空のまま放っておかれているのにはそれなりの事情があるのだろうけれど、人目を避けて暮らしたいと思ったキリコたちには、これほど適した場所もなかった。
 朽ちかけていた小さな村の家々の、屋根や柱を適当に繋ぎ合わせ、親子にも血縁にもとても見えない男がふたりとよちよち歩きの幼児が3人で、ささやかに自分たちの家を作り、水と電気を何とかしたところで、キリコとシャッコは、ATを2台置いておくために、できるだけ大きな倉庫を建てた。
 すでに自分の体の一部のようなATを、必要とは思えなくても手元から離すことができず、ゴウトがどこかから見つけて来たベルゼルガはシャッコのために、スコープドッグはキリコが自分で部品を集めて組み立て、誰もその間、赤い右肩のことは一言も言わなかった。キリコも、右肩をあえて赤く塗ると言い出すことはもちろんない。
 ユーシャラと呼ばれる幼児は、淡い青の髪と瞳の色はキリコに何となく似てはいたけれど、年の頃が少々釣り合わず、言葉を教えて面倒を見ているのは大抵シャッコの方だったから、口さがない隣人でもいれば、一体あれはどちらが親なのかと、そう噂し合ったことだろう。
 いちばん近い町までは砂漠を突っ切って2時間掛かり、その間に人家はほとんどないこの辺りでは幸い、この奇妙な家族のことを噂する誰もいなかったし、彼らがここへ根を張ろうとしていることに気づきさえしていないようだった。
 ユーシャラはよく笑う子だった。キリコとシャッコが、時には日長1日ATをいじっている傍で、地面に置かれた小さな部品をおもちゃのように手に取って、飽きず眺めている。錆や油だらけのそれを口に入れても、飲み込まなければいいと大雑把に、シャッコは咎めることも滅多とせず、キリコはそもそもユーシャラに声を掛けるどころか、振り返らないこともしばしばだった。
 それでも、ユーシャラを抱き上げてしばらく歩き、地平線の向こうへ落ちる夕陽を一緒に眺める時には、昔のあの、抜き身のナイフのような鋭い冷たさはどこかへしまい込まれ、自分の肩へ頭をもたせかけるユーシャラの小さな背を撫でて、何かひと言ふた言、小さく話し掛けることもある。
 近頃では、放っておけばひとりで家の周りを何度でも歩き回るし、シャッコの名はきちんと言えるようになったユーシャラは、キリコの頬や目の辺りを撫でながら、しきりにキリコと言おうとする。自分の名を言って聞かせることもしないキリコの名を、ユーシャラはシャッコから口移しに倣って、けれどキリコ自身の耳には、まだ自分の名前のようにはきちんと響かない。
 よく似た色の青い瞳は、両方ともうっすらと緑がかってもいて、それは時折、キリコの乗るATの機体の色と、よく似ているようにも見えた。
 「きぃいこ。」
 ユーシャラが、キリコの腕の中で伸び上がって、耳の辺りの髪を掴もうとする。キリコは好きにさせながら、けれど落ちたりはしないように両腕の中に、幼児の頼りなく揺れる体を支えて、赤い夕陽に瞳を凝らしていた。
 ユーシャラとは、クエントの言葉で、高い空を表すのだそうだ。見上げて見上げ続けて、宇宙へ達するほど高い、青い空のことをそう言うのだと、シャッコが教えてくれた。
 ユーシャラと名づけられた日から、この赤ん坊は、名無しのままの"おれたちの赤子"だの"おまえとおれの赤ん坊"だのから、きちんと人の子になった。誰の子と言うわけではなく、ユーシャラは、あの日、名を持つ"ひとの子"になった。
 ヌルゲラントには、この子を産んだ母親がいるはずだけれど、クエントの民は母と子だの父と子だのと言う意識が薄いらしく、生まれた子は村の子、皆の子として育てられるのが普通だとかで、シャッコ自身も、どこかに父母がいるはずだけれど、家族として一緒に暮らした記憶はないと言う。
 「あの女は、この子を奪われて、それを恨んではいないのか。」
 「クエントの女は、産んだ子をひとりで育てたりはしない。自分だけの子ではないからだ。神の子だと予言された時に、身ふたつになった途端、もう二度とまともには会えないと覚悟はついていたはずだ。」
 淡々と言うシャッコに、相変わらずクエントのやり方や考え方は理解し難いと見えないように首を振って、キリコはシャッコに抱かれたユーシャラの髪を撫でた。ユーシャラは、自分を生んだ母親の記憶などなく、自分の面倒を見てくれていたココナたち、そして今はキリコとシャッコを一体何と思っているのか、自分を優しくあやしてくれるなら誰であろうと構わないのか、抱くたび泣かれたりしないのは心底ありがたかったけれど、ほんとうの親を知らない、生まれる前からろくでもない運命を負わされているらしいこの幼児を、キリコはこっそり不憫がってもいる。
 かわいそうに。
 使ったこともない言葉が、ユーシャラに対してするりと湧いて出て、今自分を見上げて、何とか動かない舌をきちんと回して、キリコの名をきちんと呼ぼうとしている幼児の小さな体を、キリコは両腕で抱きしめた。
 「きこ。」
 小さな柔らかな指先が、キリコの頬に押し当てられる。
 夕陽を映して真っ赤に染まったキリコの瞳を、ユーシャラが覗き込んでいた。自分の赤い瞳の色を写し取ったユーシャラの、眺めていれば吸い込まれそうになる瞳を下目に見て、
 「そろそろ家に入るぞ。寒くなる。」
 言いながら、夕陽に背を向けて、ユーシャラを地面に下ろした。
 長さの違う影がふたつ、並んだ途端に、ユーシャラはひとりで前へ駆け出す。ユーシャラの小さな体と小さな影が、キリコの影の中へすっぽりと収まり、その先で、扉を開けてシャッコがふたりを待っていた。
 「シャッコ!」
 キリコがシャッコを呼ぶ時とは少し違う発音で、けれどしっかりとした声で、ユーシャラはシャッコを呼んだ。
 転ぶぞ、とシャッコが、体をかがめて、走って来るユーシャラに向かって長い腕を差し出しながら唇をその形に動かした途端、待っていたようにユーシャラが地面に転がった。もつれた足が、なぜそうなったのかと訝しがるように、ユーシャラは泣きもせずに、砂だらけになった自分の膝を不思議そうに見やった。
 すぐには立ち上がらないユーシャラを、シャッコが抱き上げる。ちょうどそこへ、キリコが追いついて来る。3人分の影が、ひとかたまりに地面に、ゆらゆらと定まらない輪郭を描いた。
 「先にシャワーを浴びさせた方が良さそうだな。」
 シャッコに抱かれて、今は自分よりも高い位置にいるユーシャラを見上げて、キリコは言った。
 「きぃこ。」
 ユーシャラが自分を見上げるキリコを指差して、シャッコに同意を求めるように、シャッコの方を見る。口の中に差し入れようとしている指先も砂だらけだ。
 「キリコだ。」
 シャッコが、ユーシャラに向かって、ゆっくりと唇を動かして見せる。さりげなく小さな手を自分の方へ引き寄せて、それ以上口の回りがよだれと泥で汚れないようにしながら、穏やかに微笑みかける。
 「きいぃぃこ。」
 言いながら、自分のその声が面白いのか、ユーシャラはけたけたと笑いながら、シャッコから引き取った自分の両手を、全部口の中に入れようとした。
 もうそれを止めようとはせず、苦笑いを残したまま、シャッコは先に立って家の中へ入る。
 肩越しに、キリコは夕陽を振り返った。閉まる扉の隙間に細くなる赤と紫の交じり合った空の色に目を細めて、そうして、舌足らずに飽きず自分の名を呼ぶユーシャラの声のする方へ肩を回しながら、静かに扉を閉めた。

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